130.王子達の母
人には向き不向きがある。
ヤーシャ演じる「できる男」がいかほどかはさて置いて、周囲への誇張が大きかっただけ負けて失笑を買ってしまうのは仕方のないところだが、ヤーシャが武で少年に負けてしまったところで、彼は王の子。配下にあからさまに軽んじられる理由にはならないが、これが異国というもの。私には理解できない規則がまかり通るのが、異国感が増している。
雑用をあれこれと済ませ、夕餉を済ませた私とニーカさんには同室が与えられている。いつの間にか噂が知れ渡ったのか、夜になる頃には先輩の使用人が言っていたとおり、同い年頃の女性達は皆親切になっており、素っ気ない態度を取る人は殆どいなくなっていた。
四人用の部屋を二人で使わせてもらえるのは、ヤーシャなりの配慮だろうか。
普段ならゆっくり寛ぎ身体を休める時間帯だが、この日は少し違っていた。
夜更けに小さなノックが鳴ると、寝衣に着替えず待機していた私たちは顔を見合わせ頷き合う。
扉の向こうに立っていたのは、固い表情の女性だ。
私たちとは違い高位の侍女が纏う衣類を身につけているのが、相手の身分の高さを窺わせる。
周囲を確認した女性は、私たちに確認を取った。
「カレン様と、そのお付きの方でよろしいでしょうか」
「はい。あなたはヤーシャ殿下のおっしゃっていた案内人?」
「左様にございます。場所が場所にて、挨拶は後ほど」
「不要です。早速ですが、案内をお願いできますか?」
「かしこまりました」
この人は“事情”をすべて知っているらしい。
であれば私たちはこの人に従うだけだ。身の安全が気になるかもしれないが、ニーカさんは空手に見えるがスカートの下に武器を隠し持っているし、素手でも強い。ルカは向こうに置いてきて、呼んでも星穹の張った結界で呼ぶことはできないが、私の身の内には黎明がいる。
ただ、私自身はニーカさんの隠し武器や黎明の出番はない……と思っている。
足音を立てないように歩き出した女性の後に続くと、私たちが案内されたのは下級女官では決して踏み込めないであろう領域だ。
クシェンナ宮へ正式に招待された時に一度だけ踏み込んだ場所へ、今度は使用人として踏み込むのだから少しおかしな気分だ。客人の身分では決して歩けない裏のクシェンナ宮は、想像以上に建物の作りが露骨に露わとなっている。ところどころ塗装が途中で止まっている箇所が見受けられるし、裏を進むだけでは頑丈な要塞を歩いている気分だ。
そして当然だが、オルレンドルのように硝子灯は普及していない。オルレンドルでは結構輸出も進んでいると聞いていたが、ラトリアの宮廷といえど簡単に配備されるものではないらしかった。
こうして薄暗がりを進むだけでは、自分が罠にかかってしまった心地に襲われる。心をざわつかせながら、それを押し隠すように足を動かすと、やがて出たのは開けた廊下だ。
見渡した限り、人の姿はない。
「こちらへ。御身に失礼とは存じますが、人目を避けるためにもおはやく進みくださいませ」
硬い石畳で足音を立てない技術は会得できていないが、音を最小限に下げる努力は認めてもらいたい。いくつかの角を曲がり、道を覚えきれなくなった頃合いで、到着したのは想像よりも小さな部屋だ。
侍女が質素な扉をノックするが、返事は返ってこない。
それでも侍女は構わず扉を押し開けると、中で座っていた人物に深々と頭を垂れる。
「お客様を案内いたしました、ダヌタ様」
「何事もなかったかね」
「万事つつがなく」
「ありがとさん。後はこちらで引き受けるから、あとは休んでいいよ」
座っていたのは女性だ。夜だというのに、まるで陽光の如く輝く存在感を放っており、活き活きとした瞳はどこか遊び心を宿している。
その瞳が私に向いた。
「で、あんたがオルレンドルの」
「カレンと申します。……堅苦しい挨拶は省略しても?」
「話のわかる子は好きだよ」
女性はからりと笑う。
「知ってるだろうが、あたしはダヌタだ。ご存知の通りシグムントとヤーシャの母親さね」
目元は、今までの歳月を物語るように、しっかりとした皺が刻まれていた。化粧っ気はなかったが、それがむしろこの人のの魅力を引き立てており、見つめられると心が弾んでしまうような力を感じさせる人だった。
そしてこの人こそが次期ラトリア国王と謳われるシグムントと、あのヤーシャの母親である。随分人懐こく笑う人で、近所のおばちゃんのような親しさがある。
彼女は自己紹介を続けようとしたが、ぴくりとも動かない侍女へ不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんだい、早く戻ってお休みよ」
ダヌタは貴人らしからぬくだけた口調で喋っているのだが、それを咎められる様子はない。むしろ立ち居振る舞いや所作を鑑みれば、案内役の侍女の方がよほど貴族らしいだろう。
侍女は難しげな表情で私たちを気にしながら、慎重に口を開いた。
「おそれながらダヌタ様。お客様方へのおもてなしはわたくしに任せていただきたく……」
「何言ってるんだい」
侍女の申し出に呆れたように、女性は私たちに手招きしながら、もう片手で茶器を取り寄せる。
「あんたは陽が昇る前から起きて働いてるのに、夜遅くまであたしに付き合うのはおやめ。ただでさえ人手不足なんだから、休めるときにはしっかり休むんだよ」
「ダヌタ様、お飲み物でしたらわたくしが……」
ダヌタと呼ばれた女性の周りに、他に侍女の姿はない。驚くことに彼女は本当に一人で私たちと対峙しようとしており、しかも手ずから茶を淹れようとしている。
「ほら、早く部屋にお戻り。帰ってしっかり寝るんだよ」
有無を言わさぬ力強い言葉で侍女を帰すと、手招きで私を向かいに座らせる。
「オルレンドルは牛が多いと聞いたけど、山羊乳は大丈夫かい?」
「はい」
「赤毛のお嬢ちゃんは?」
「好き嫌いはありません」
「よかったよ。あと、別にとって食ったりしないから、あんたもご主人の隣に座りな」
ニーカさんは護衛の意識があったのだろう。無意識に私の背後に立ったところを指摘されたのだが、彼女がためらったところで女性が首を振る。
「立ったまま茶を飲むなんてやめておくれ。足元は冷たいんだから、座って膝掛けをかけて、温かい飲み物でくつろぐのがあたしへの礼儀ってものだ」
ヤロスラフ王の奥方が、こんな溌剌とした女性だったとは思わなかったに違いない。困ったようなニーカさんが視線を彷徨わせるので、私は彼女を呼び寄せ隣に座らせる。
二人並んだ姿を見て、ダヌタはにっこり笑い、二つの器に濃いめのお茶に山羊乳を注いだ。
「心配しなくても人なんて隠してないよ。息子達は扉の前だけでも護衛を置けってしつこく言うけど、そんなことしてたら足を伸ばして寝られやしない。あんたはオルレンドルの皇后さまだそうだけど、そういうのは当たり前なのかい」
「……慣れ、ですかね。夫の手前、断れないので」
「嫌なら嫌って言った方がいいよ。最初は喧嘩するかもしれないけど、我慢をため込んでちゃ長続きしない。宮廷なんて特に不満しか生まれないんだし、ささいなきっかけで不仲になるんだから」
「覚えておきます」
私をオルレンドルの人間だと認識しているということは、ちゃんとヤーシャから話が伝わっているようだ。
お茶を受け取ったところで、私は彼女と目を合わせる。この人こそラトリアにおいて、女性としてはもっとも長くヤロスラフ王に寄り添っている希有な人物だ。
「ご挨拶に応じてくださり感謝いたします。ヤーシャ様から伺っておいででしょうが、私はオルレンドル皇帝陛下の臣下にして后にございます」
「堅苦しい挨拶はいらないよ。そういう雰囲気じゃないのはわかるだろう?」
形式ばった挨拶は好まないようなので、私も趣向を切り替える。
「はじめまして、オルレンドルのカレンです」
「あたしはダヌタ。ただの下働きだよ」
つまり真の意味で私の先輩にあたる人なのだが、彼女の挨拶はなんとも奇妙で反応に困るものだった。