13.その白い“色つき”は異様だった
食事前後に読むのは非推奨です。
この流れで私にお呼びがかかる?
お付きとして衆目の目に入るのは仕方ないが、注目対象として晒されるのは御免だ。避けたい気持ちが強すぎて足を動かせずにいると、再度エルネスタから声がかかってしまう。
「……え、なんで私ですか」
そろそろと近付いた私の声は疑惑に満ちていた。エルネスタが人差し指を動かすと、足元の影が動く気配がある。影に埋もれた黒鳥が小さな目をぱちぱちと動かしていた。
エルネスタはその影に視線を降ろす。
「その子、動かして」
「は」
「補助はしてあげる。でも多分、わたしの手助けはいらないはずだけどね」
「いえ、待ってください。私、そんなつもりでついてきたつもりは……」
「待たない」
「聞いていません」
肩に手を回される。見物人を背に二人で竜の死骸に向かうと、醜い傷跡が目に飛び込む。
竜の首の傷は見たことのない新しい裂傷だ。従って竜が死んだのは軍が原因になるのだが、竜の皮膚は刃を通しにくい。傷は乱雑だから相当苦しんだはずで、深くは考えたくなかった。
「ただの死骸よ」
「できないです。竜を裂くのが嫌だからとかじゃなくて、衆目に使い魔を晒したくありません」
「……時間もなかったし言えなかったんだけどね」
「エルネスタさん?」
ちらりとこちらを見下ろすエルネスタ。その目には険しさが混じっているが、同時にこちらを案じた厳しさもあった。瞳の奥の懊悩が、おそらくこの状況はエルネスタも不本意なのだ、と認識させる。
「悪いけどやってちょうだい。それが貴女のためにもなる」
微かに「命が惜しければ」と私にしか聞こえない声量で呟いた。
そこまで言われては私も「やりません」は通せない。彼女が私に嘘をつく理由がないし、それなりの理由があるのだと推察できたが、一応念は押させてもらう。
「……私はこういうの慣れてません。終わったら早く帰りましょうね」
「わかってる。わたしもこういう場は好きじゃない」
ぽんと浮き上がった黒鳥が「やる?」と言わんばかりに小首?を傾げている。
「お願い」
黒鳥の質量が増加した。丸い胴体が人と同等かそれ以上にふくらむと細長い足が出現している。渦巻き状の巨大な一つ目がぐるんとこちらを向くと「うわ」とエルネスタが声を上げた。
「鳥にしたってどういう造形してんのよ」
「どういうと言われましても。エルネスタさん、知らなかった?」
「知らないわよ。元の姿があるんだろうなとは思ってたけどね。……あら、思ったよりは可愛い。大きくなっても中身は変わらない感じ?」
光さえ通さない漆黒がふわりと顔に寄ってくる。見た目は薄気味悪いかもしれないが、こうして触れば触感は鳥そのものだ。撫で続ければうっとりと目元を細め、気持ち良かったのか目をいくらか増殖させる。感情表現が多彩なのは良いことだ。
さて、黒鳥にやってもらいたいことは決まっている。
しばらく傍を離れたがらなかった黒鳥だが、命令は声にするまでもなく理解している。
のったりと動き始めると、竜の様子を探った。この子の鋭い爪はなんでも裂けるけど、今回は竜の鱗を考慮し、ちゃんと観察するらしい。やがて一周を終えると、収納されていた左羽が伸ばされると、羽の形が一瞬のうちに尖って刃と化した。
……もしかして黒犬から学んだのかしらね?
のんびりゆったりな黒鳥もお勉強するなんてと感心していたら、切っ先が竜の腹に埋まり、風が動いた。
ヒュッとひと凪ぎされた空気が髪を揺らす。一閃のもとに竜の腹が横に裂け広げられれば、中身がどろりと流れ出した。
この中で一番の被害を被ったのは私たちだ。竜の内臓は思ったよりも質量があり、また内に残っていた血液が一気にあふれて地面を汚した。避ける暇もなく血液と内臓が足を汚し、遅れて濃すぎる鉄錆の臭いが鼻を覆う。わずかに腐臭も混じっているかもしれないが、ここまで濃いともはや種類はどうでもよく、嫌悪感と吐き気を駆り立てる。ハンカチで鼻を覆っても臭いは完全に避けられず、足に付着したどろどろの粘液や、一瞬で服や髪にこびりついた血臭はいつまでも私を苛みそうだ。
「うぇ……」
予想して然るべき展開だったのに距離を取っておかなかった私の落ち度だ。エルネスタもたまらず顰めっ面だが、彼女の視線は溢れかえった臓物に集中している。
私も……完全に腐っていたら無理だったけど、血臭なんかはそれなりになれている。むせかえる臭いには辟易するが、外だけあってすぐに霧散してくれるのが救いだ。
「どうしたの、戻ってきていいのよ」
黒鳥が小鳥に戻らない。黒鳥が下がらないから他の人も近づけず、私は血の沼を踏みながら黒鳥に近付いた。黒鳥の視線飛び出た臓物より、それより中に続いていた。おもむろに羽が動くと裂かれた腹がさらに割れ、内部に頭を突っ込むと、嘴は腸を引きずり出す。
まだ竜を“動物”の分類と考えていたのが幸いだった。
ずるずると引き出されていく腸はどこまでもぱんぱんで中身が詰まっている。最後のそれをひっぱりあげたときに腸と肉体の繋がりは切れた。お尻に近い方ほど排泄物と化しているのだが、その『中身』が飛び出ると、血臭に混じって発酵臭が漂いだす。厠にしたってこんな臭いにはならないはず、というくらい臭い。
刃が大腸を浅く裂けば詰まっていた糞が飛び出るのだが、その様相はもはや地獄絵図。周囲でも臭いにつられ吐き出す人が出てきだした。
私もたまらず顔を逸らしたが、その刹那に気付いてしまった。
それらは大体が消化されて肉も残っていないが、いくつもの人の頭部が混じっている。頭部以外にも手や他の人体の一部もあった。この臭いの酷さは、もしかしたら消化不良でも起こしていたのかもしれないが、生物学者じゃないから詳細はわからない。じっくり見れば軍服と思しき布地も混じっていて――。
「――え」
黒鳥が見下ろしているそこに「あれっ」と目が奪われてしまう。
一見乱雑に裂かれた臓物だが、そこだけは黒鳥が慎重になって嘴を動かし、剥がしていた。腸の形をとった糞があるのだが、そこはどろっとせずにうまく固まっている。視線を逸らせなかったのは、赤毛の後頭部が埋まっている部分だった。
色は――意外に抜けないんだな、とか、髪は残るのねと考えたのは現実逃避だ。
私はこちらの『彼女』を知らない。髪の長さも違うかもしれないのだ。なのにどうして私はそれが『彼女』だと思ったのかは……後になってもわからない。
でも不思議と確信があった。
脳裏に浮かんだのは、意外にかわいいもの好きの彼女が黒鳥で遊んでいた面影。
それがこんなにも――。
汚い、なんてことはどうでもよくなって、膝をつき、それに手を伸ばす。
指が糞に埋まる。すでに肉の感触はなく、音を立ててそれを剥がせば、埋もれていた頭部がすべて明らかになる。
服は、ある。でも多分上半身だけで胸から下は無い。
眼球も、皮膚も、骨以外は大半溶けていたからあったのは汚れた頭部の残骸だけ。くぼんだ眼窩にはぐじゅぐじゅに溶けた排泄物。だが、指にこびり付いた髪の毛は……やっぱり赤い。
汚れが目立つけど、これ、この色は。
「ニーカさん」
肩を掴まれた。
強引なほどの強い力。振り返れば金の髪が視界に飛び込み、髪の隙間からは、固い表情で目を見開く男性がいる。
彼女に注意が向くあまり接近に気付かなかった。こちらのオルレンドル帝国皇帝が、汚れも厭わずニーカさんだったものに手を伸ばす。
「陛下、なりません!」
配下が止めるも彼は止まらない。指が頬骨に触れ、襟元を拭えばキラリと光る襟章が出現する。
彼は、それでこの骸が誰かの確信を得た。
深い息を吐き、瞑目したのはほんの数秒か。
どうして竜の腹を裂きたかったのか疑問だったのだけど、彼の目的は、もしかしたら生物として解明する以外にもあったのかもしれない。
……確かめたかったのだ。
やがて目を開くと、一瞬だけこちらをちらりと見やる。
「ご苦労だった」
労いをかけて踵を返す。
皇帝が遠くなっていく傍ら、私の肩に手を置いたのはシャハナ老だった。後ろにはバネッサさんもおり、二人とも鼻から下をスカーフで覆っている。バネッサさんは水で濡らして絞ったタオルを渡してくれた。
「いつまでもそこにいては、病にかかってしまいます。その方々の弔いはわたくし達に任せて、貴女は早くここを離れて綺麗にしてきなさい」
「あ、はい」
「エルネスタも、向こうで待っていますよ」
元の大きさに戻った黒鳥がニーカさんの額の上に乗る。汚れを厭わず骸に頬ずりしたが、排泄物がこの子に付着することはない。お別れを済ませると再び影に沈んでいった。
エルネスタが桶に水を溜めている。案内してもらった水場で汚れを落としているのだが、いまだに鼻の奥を刺激臭が襲っている感覚があった。
死臭というのは結構な臭いを放つのだ。私は腐敗物に触れたのはもちろん、そばにいたエルネスタさえ臭いが服にこびり付いてしまったせいで、二人そろって、頑張って汚れを落としている最中だ。
彼女はバネッサさんが持ってきてくれた石鹸で靴を洗っているが、洗い終わりに鼻を近づけ、しかめっ面を作る。私は靴以外にスカートや上着の袖等、あちこちを汚してしまっていた。
エルネスタは靴を諦めたらしい。早く帰りたそうだが、私へのお礼を口にした。
「ありがと、代わりにやってくれて助かったわ」
「はい」
「聞きたい事があるでしょうし、文句もあると思うけど、ひとまず話はここを離れて落ち着いてからね。あと、具合が悪くなったらすぐいいなさい」
「わかりました」
ぼんやりした反応しかできなかった。エレナさんだって亡くなっていたのだ、私の知っている相手じゃないのだからいちいちショックを受けないぞ、と誓った傍から情けないが、立ち直るにはもう少しだけ時間がほしい。
そのとき、エルネスタに話しかける人がいた。
「失礼、少々よろしいですか」
エルネスタとは顔見知りらしく、なにかを話し込む間、私は無心でこびり付いた汚れを落とす。
……服は色も染みついて落ちなさそう。買ってもらったばかりだけど、捨てるしかない。
落ち込みはするが、泣くのは少し違う気がする。なんともいえない息を吐いていると、ふと、泣き声が聞こえて顔を上げた。