105.今回だけは無実
絶句する私の姿に察するところがあったのか、エミールが心配そうに私の顔をのぞき込む。
「姉さん? ヤヌシュさんになにか……」
反応に困る私に、すかさずヤロスラフが笑う。
大口を開け、豪傑を絵に描いたが如くだ。
「いやいや、なんともなんとも。こりゃあラトリアでも滅多に会えんべっぴんさんだ。坊主よ、彼女がお前のお姉さんか」
「そうです、姉の……」
「そうかそうか……やあ、はじめましてだなお嬢さん」
この人がヤロスラフ王なのはもはや間違いない。けれどもいま、私の目の前にいる人物は奇妙にもまるで違う人物だ。大きな木のように豪快な存在感に、低く大きな声は部屋の隅々まで響き渡る。笑顔には、長い人生を生き抜いてきた強さと、誰もが心を開くような温かささえあるのだ。
王の装束を脱いだ代わりに身に纏うのは、若干薄汚れた軽装束。顎髭はすっきりなくなっており、腰にはずっしりとした片刃の斧を下げていた。物騒ではあるものの首都ドーリスにおいては違和感なく溶け込んでいるだろう。
違和感があるとしたら、高級宿には見合わない御仁なのだけど――そんな考えをかなぐり捨て、頭を下げた。
「ヤヌシュさんとおっしゃいましたか、びっくりしてしまって失礼しました」
「いやいや、構わん。お嬢さんはファルクラム領から来たと聞いた。だとしたら、こんな物騒な爺は滅多に会わんだろうさ、驚くのも無理はない」
「それでも……とんでもない失礼を。弟を助けてもらったと聞きましたが、この子はどんな無茶を――」
「姉さん、無茶ってそんな俺がなにかしたみたいに……」
エミールは否定したけど、すかさずアヒムが割り込む。
「いや、無茶です。おれが行くなつってた場所に入り込んだのは坊ちゃんですから」
「それは……わざと行くつもりはなくて、気が付いたら踏み込んでたっていうか……」
嘘の設定も全部見透かされているのは間違いない。
でも、ヤロスラフ王がこうして私たちの話に付き合ってくれるのは何故なのだろう。
エミールの慌てように老人はくつりと喉を鳴らした。
「坊主が悪いんじゃあない。ただ、このラトリアはなんというか……悪いやつらもあちこちいる。そういうのに声をかけるのも、俺の仕事よ」
「なるほど、お仕事……」
「ヤヌシュさんはすごいんですよ、姉さん」
エミールがやたらと興奮しているのは何故だろう。こちらを見守っているアヒムに目配せすれば、彼は降参と言わんばかりに教えてくれる。
「そこの爺さん、なんと赤狼の団の団長さんなんですと」
「せきろうのだん」
「ラトリア一の私設傭兵団です。その団長だからすんげえ人ですよ」
目を白黒させる私をさておき、ヤロスラフ王はアヒムの説明に大口を開けて笑う。
「ははは、ラトリア一とは嬉しいことを言ってくれる」
「や、誇張じゃねえって。おれみたいなのでも赤狼の名前は知ってる。国の軍隊に唯一渡り合えるとか聞いたことがあるぜ」
「ほうほう、それはまた嬉しい評判だ。それならお前さんもどうだ、ひとつ故郷に戻って俺の元で働いてみないかね」
「嬉しいお誘いだけど、生憎向こうの酒が合っちまってさ。お袋も向こう側だし、気持ちだけもらっとくよ」
「そうか、お前さん、腕が良さそうだから欲しかったんだがなあ」
さりげなくアヒムを引き抜こうとするヤロスラフだけど、断られても悪い気も起こさず、渡された果実水を煽っている。
エミールはもちろんヴェンデルや、アヒムも、マルティナも、老人の正体に気付いていない。シスとルカはライナルト達について行ってしまった。
私はちょっとこの状況に追いつけていない。
唯一助けを求められるといえば彼の王と対峙したことのある夫なのだけど、彼は出かけている最中だ。
乾いた笑いを零していると、私の態度に不信感を覚えたヴェンデルが飲み物を差し入れてくれる。
「具合悪いんじゃないの、大丈夫?」
「おんや。嬢ちゃん、俺は気にしないでいいから、つらいなら寝……」
「だっ、大丈夫です! ちょうどお腹が空いてどうしようもなくて出てきただけですから、ヤヌシュさんさえよければお話を聞かせてください!」
むやみやたらと騒ぎ立てないのは、さっき交わした挨拶で互いの正体をばらさないという暗黙の挨拶に同意したからだ。
その後は一緒に食事に同席するも、私の知っているラトリア王ヤロスラフ三世はどこへやら。『ヤヌシュ』おじいさんはよく喋り、よく笑い、話してて気持ちが良いくらいだ。
分厚いステーキをぺろりと平らげながら果実水を飲み干すご老体は、私たちの偽りの素性を一言も言及しなかった。エミールに賞賛の眼差しで見つめられ、アヒムと気分良く会話に興じ、ラトリアの歴史について大いに語った。
「しばらくドーリスに滞在するなら、退屈な時間も増えてくるだろうて。暇だったら赤狼の本部を訪ねてくるといい、よそでは見られんような景色を見せてやる」
食事が終わると仕事があるとかで帰っていったけど、その際には宿の支配人も表に出てきていたのを認め、私はさりげなく話しかけたのだ。
「ヤヌシュさんのこと、ご存知のようですが支配人はあの方をご存知なのでしょうか」
「もちろん存じておりますよ。長い間、街の治安に一役買ってくれている立派な御仁です」
街の治安は軍が守っているけれど、赤狼の団は国に対する貢献も高い。本部を都に置いているのもあって軍と連携を取る場合もある。国が動けない細かな依頼を請け負うこともあり、街の人には頼りにされているらしい。
「クライン様もヤヌシュ様とお知り合いになったのであれば、ドーリスでの観光は安心でございますよ。縁を大事にされるとよろしいかと存じます」
裏を返せば機嫌を損ねてはならないわけだ。
『ヤヌシュ』は親しみやすいおじいさんで、すっかりエミール達の心を掴んでしまった。アヒムやマルティナも気の良い人だと大絶賛だ。
私としてはなにかの策略で、エミールに絡んだごろつきもヤロスラフが差し向けた悪漢だった……と思えたら楽だったのだけど、生憎現実は私に都合が良いばかりでもない。
エミールがごろつきに囲まれたのは本当に偶然で、それもラトリアの建築物や芸術に見とれたエミールが我を忘れて移動してしまったのが事の原因だ。
おそらくもとより目をつけられていたのか、エミールは数人に囲まれると連れて行かれてしまい、通りかかったヤロスラフが助けに入った。
数発わざと殴られてから、五・六人を素手で斃したらしい、とはエミール談。アヒムが駆けつけた際にはお説教を食らい、お礼に私たちの宿へ……となったわけだ。
この件について、アヒムは申し訳なさそうに私へ謝った。
「エミールから目を離したのは、言い訳しようもなくおれの責任です。ヴェンデルからマルティナが目を離さないように、しっかり見ているべきでした」
「四六時中見ているなんてできるわけないんだし、お礼を言うのはこちらの方よ。ありがとう、アヒム。ところでお食事へのお誘いは、エミールが?」
「いや、おれです。タダで、ってわけにゃいかなかったんで、食事を奢らせてもらうことにしましたが、駄目でしたかね」
「いいえ、私でもそうしてたから、お礼を言いたかっただけ」
率直に「あの人、ヤロスラフ三世よ」というのは流石に憚られる。
私は悶々とした思いを抱えながらライナルトの帰りを待つのだけど、その間、私はラトリアの軍人が宿に押しかけてこないか、気が気ではない状況だ。
夜になってようやく彼が帰宅すると、感想を聞く前に部屋へ引っ張り込み捲し立てた。
「ヤロスラフ王がいたんです!」
「落ち着け、ここは奴の国なのだからヤロスラフがいるのは何らおかしな話ではない」
「そうだけどそうじゃないの!」
混乱を迎えながらもなんとか説明を行うと、彼もなんとも言えない表情で表情を曇らせるではないか。
「貴方の言葉を疑いたくはないが、それはヤロスラフで間違いなかったのか」
「私も信じたくありませんでしたけど、本物です」
彼にしては珍しく確認を取ってくることからも、この混乱を察してもらいたい。
私たちはしばらく悩んだ後に、アヒムを部屋に呼び出した。私の様子がおかしかったことから何か察していたらしいアヒムだけど、神妙な表情の私たちには訝しげである。
おそるおそる私は切りだした。
「あのね、昼に会ったヤヌシュさんなんだけど……」
「カレンはずっと気にしてましたね。あの爺さんがどうかしたんで?」
「アヒムはあのお爺さんをどう思った?」
「荒っぽいけど良い人ですよ。エミールは、赤狼に本気で行ってみたいって感じで大盛り上がりだ」
年を経てなお現役の姿にエミールはすっかり魅了されたらしい。アヒムも危機感は抱いておらず、おおむね良い印象のようだ。
「おれは危険はないと思いますが、駄目だってんなら説得しますよ」
「そう……そのヤヌシュさんなんのことなんだけど、実は私、あの御仁を知ってるの」
「はい?」
「ヤロスラフだ」
ずばりと言い切ってしまったライナルトに、アヒムは自分の耳を疑うように両目を閉じ、眉を寄せながら首を傾げる。
「すんません、ヤロスラフ王がなんですって?」
「ヤヌシュはヤロスラフだ」
「はい?」
「ラトリア王、ヤロスラフ三世だと言っている」
部屋を覆う沈黙の帳。アヒムはこれがドッキリでもあってほしいと思っていたのかもしれないけれど、目が合った彼に対し、私は重々しく頷くだけだ。
たっぷり数分、アヒムは声をなくした。
青ざめた顔からは滝のように汗が流れ、唇は半分開きっぱなし。一時語る言葉をなくしたものの、やがて真っ直ぐに私をみた。
「弟になに伝播させてるんですか」
「私はなにもしてませんけど!」
今回は寝てただけだし、私は本当になにもしてない!
ボイスブック、転生令嬢と数奇な人生を4が5/10配信となりました。
作者特権で先に聞いていますが、聞きやすく良いお声でした。よろしくお願いします。