101.さわるな危険
私たちはかなりの時間を走った。
追っ手はいつの間にか諦めたらしく、シスは残念そうに足を止めて舌打ちを零す。
「ちぇっ、軍人のくせに根性無しばっかりだ。もっと気合い入れて追ってこいよ」
「遭難するかもって考えたら妥当な判断なんだよなぁ……!」
「アヒムぅ、そんなんだからきみは損な役回りばっかなんだ。ちょっとはこの状況を楽しめよ」
「おれも旦那様やウェイトリーさんとの約束がなかったらお前らなんて放置してたわ! いくらなんでも子供の教育に悪いんだよ!」
「そう? でもヴェンデルだって楽しんでたぜ」
「それが問題なんだよ!!」
余談になるけど、ラトリア行きを最後まで反対していたのはウェイトリーさんだ。父さんも私やエミールに関しては、なぜだかほぼ諦めた様子だったのだけど、ヴェンデルの同行だけは良い顔をしなかった。了承を得たのは本人の熱意やシスの説得、なによりアヒムが共に行くからこそ二人は同意した形になる。アヒムは父さんたちに託されたからこそ気負っている部分があり、この旅では常識を説いて注意しているのだ。
エミール達は息切れを起こして動けず、マルティナから水を受け取っている。アヒムやライナルトでさえ肩で息をしているのに、少し汗を流しただけで元気なニーカさんはからりと笑った。
「でもまあしかし、実際ライナルトの案は悪くなかったと私は思うんだ」
「ああ?」
「睨むな睨むな。だって冷静に考えてみてくれ、あんな場所にひっそり建っている砦だぞ。軽く見ただけでも武器の備蓄は万全だったし、なにかない、と思わないわけがない。おまけに爆発の威力……音を聞いたか?」
もちろん私たちも覚えている。ヴェンデルはシスのおかげで取り乱さずに済んだけれど、過去の恐怖が煽られたほどに大きな爆発だった。
ニーカさんは授業を行う先生のように人さし指を立て、エミールにもわかりやすく教えてくれた。
「あんなところに大量の火薬を隠し持っているなんて、怪しい以外の何者でもないってことだ。ファルクラム領の危機に私達が備えておくのは当然だろ?」
「な、なるほど……? 砦に保管してる火薬を使わないわけないもんな」
「その通りだ。この場合、真っ先に被害を被るのはファルクラム領だ」
エミールの尊敬の眼差しに胸を反るニーカさんへ、アヒムが奥歯を噛みしめる。
「ぐ……もっともらしいことを言いやがって……」
「ま、それが仕事だからな」
それ以上の追及をしなかったのは、アヒムも他の問題に気付いたためだろう。
現在において魔法火薬の製法はオルレンドルのみの技術だ。それをラトリアが大量に保持しているとなれば、情報漏洩や横流しを考えねばならない。二人はひとまずの対策として火薬庫を木っ端微塵にしたのだ。
私は水で濡らしたハンカチをライナルトの額に押し当て、辺りを見回した。
「ところでシス、あなた滅茶苦茶に走り回ってたように見えるのだけど、ここはいったいどの辺りになるの?」
「ああここ? 谷に近い方の森だよ」
「え? 谷ってまさか来た道を戻ってきたの?」
「違う違う。僕たちが来たのは渓谷で谷底には河があったけど、こっちはただ地面が裂けただけの谷の割れ目。あの渓谷ほどじゃないけど、ラトリアまではこんな感じの谷が幾つもある」
「……へー、知らなかった」
「だからこっちの道は使いにくいんだよ。大軍が進むにもファルクラムへの侵入経路が限られるから、昔のコンラートも要所として栄えてたってワケ」
彼曰く、大森林はかなり不思議な地形となっているらしい。元は岩と砂ばかりで大きな谷が連なる場所に、後々大量の木々が生えていったそうだ。
彼はその生態系の変化を精霊がいたから、といった。
「いまもこの森が緑で栄えているのは、昔どっかの大物が根城を構えた影響なんだろうね。だからもし精霊達が本当にこちらに帰ってくるとなったら、ここに住みたがるヤツは多いぞ」
そうなったら、と揶揄うような目でヴェンデルを見つめる。
「人と精霊の調和を図るのはコンラート伯であるきみの仕事だ。どんな感じで森が栄えて行くか、楽しみだね」
シスはシスで仲間がこちらに戻ってくる日を楽しみにしているのかもしれない。
皆であちこち走り回ってしまったし、まだ空は暗い。今日はこのままひと休みかと思われたのだけど、ここでライナルトがシスにある質問を投げた。
「……谷の裂け目とは、どのくらいの深さになる?」
「んー? たしかこっちのはかなり深いから……底なしって感じ?」
「崖の形状はどうだ。切り立った岩肌か?」
「どっちかというと飛び出した出っ張った先端が多いって感じかなぁ。回り道すれば道は繋がってるし、渓谷ほど無茶な橋はかかってないけど」
「つまり橋を架けるほどの幅がありつつ、深さも充分ということか」
「ああ? まあ、そうだけど……」
なにか、こう、質問の端々に危ないナニカを感じるのは気のせいか。
危機を感じたアヒムが、ライナルトを止めようと動いたけれど――。
「あぁらアヒムったら汗だくじゃない。ワタシが汗を拭いてあげるから光栄に思ってね!」
あえなくルカに邪魔された。
わざわざ少女から乙女形態になって屈強な男性を押さえつけるから、なんとも奇妙だ。
「なんでもないわ、どうぞ続けて?」
抵抗するアヒムをものともせず、ライナルトは真剣な表情で私に向かい合う。
「カレン、私は精霊はいまでも好きではない」
「はい。存じ上げています」
「政に利用するつもりもないとも言った。正直に言えば、貴奴等が人間の生活に踏み入ってくることも、まったく気に食わないと思っている」
改めて確認してくるではないか。いったいなにを考えているのか、まるで付き合う前の告白を待つ気持ちで彼の真剣な言葉に耳を傾ける。
「だが、貴方の繰る黎明の背に乗り空を飛んでしまった。この空を駆ける日々を経て、愚かにも私に欲が生まれてしまったようだ」
「……なにを欲されたのでしょう!」
決まったもの以外を滅多に欲さないライナルトがこんな話をしてきた。
私は夫の手を取り、期待に胸を膨らませて見上げて続きを促せば、彼は己が抱いた望みを口にしてくれる。
「崖から飛び降りてみたい。着地を黎明に託したいのだが許してもらえるか」
「やりましょう!」
アヒムの悲鳴と私の返事は同時だった。私も大事な幼馴染みの悲鳴には胸が痛い。悪いと思っているし可哀想だけど、でもライナルトの望みを叶えてあげたい。
「高所からの落下でしたら私も経験ありますし、お任せください。うまくれいちゃんを出しますから怪我もしません」
「経験があるとはどういう……」
「安心安全な飛び込みと緊張のある体験をお約束します!」
私の力強い断言に挙手したのはニーカさん。
「それなら私も是非お願いしたい!」
「ライナルトと意見が合うのは癪だけど、面白そうだし僕もやる」
「俺も俺も。姉さん、俺もやりたいです」
シス、エミールと続々と続き、アヒムの悲鳴はいっそう悲壮さを増して行く。彼が最後に救いを求めたのはマルティナなのだが、彼女はアヒムに対し、こくりと頷いた。
「申し訳ありません。わたくしも高所からの落下は興味あります」
ルカは面白ければ賛成派だし、残ったヴェンデルは悩んだようだけど、結果は私たちに好意的なものだ。
「……大丈夫そうだし、これも思い出……なんじゃないかなあ」
ルカに誘導された黒鳥が出現すると、体積を増やして巨大化し、たちまちアヒムの首根っこを掴んでしまった。アヒムは口は自由になれど、体は否が応でも引き摺られてしまう。
「ライナルトー!!」
発案者たるライナルトへの怒りが止まらず、これにライナルトも「ああ」と対応するのが、私的には感動ものだった。
「悪いとは思っている」
「てめえ、ふざけるなよ。それを言えば済まされると思ってるだろ!?」
「心配しなくても飛ぶのは私たちだけだ、お前はあとから拾う」
「そういう問題じゃねえんだよ!!」
アヒムが絶叫すると、ルカがライナルトに異議を唱えた。
「アヒムの言う通りね。もうみんな一緒に落ちるんだから、彼だけ仲間はずれは可哀想だわ。一緒に思い出を共有するべきよ」
「そうだそうだ。僕たちは仲間なんだから友情を大事にするべきだ」
「問題をすり替えるな。お前らは面白がってるだけだろうが……!」
ルカとシスに噛みつくアヒムだけれどシスから言わせれば、少し違うらしい。
「でもきみだってヴェンデルの手前、常識人ぶってるだけで落下自体は嫌じゃないだろ」
「大人にゃその常識を模範として示す必要があるんだ馬鹿!」
アヒムの怒りも虚しく、賽は転がりはじめる。
黒鳥に咥えられるアヒムを連れ、私たちはあっけなく崖に到着してしまったし、皆はやる気満々だ。
「深いわね」
断崖は圧倒されるほどの高さを誇り、月光に照らされた岩肌の一部が明るく照らされている。深淵の奥底に響くような静寂は風が弱まった証拠だ。
うまく跳躍して飛び降りれば岩肌にぶつかりはしないはず。
私は崖を離れ、深く息を吸い込み、呼吸と心を整える。
「大丈夫か?」
「はい、いけます。ライナルトはちゃんと手を繋いでてくださいね」
「問題ない」
失敗したら即死まったなしなのだけど、不思議と怖くない。
シス達もいるし、私もやる気と自信でみなぎっている。ヴェンデル達もはぐれぬよう、それぞれが手を繋ぐか、ルカによって黒い糸で結ばれ準備万端だ。この時点で、アヒムもニーカさんに捕まってるので抵抗を諦めている。
「合図はよろしくね、マスター」
私の号令で谷底へ踏み出す。
……黎明の顕現はもう何度もこなしているから心配ない。高所の落下も『向こうの世界』を活かせるはずだ。
深呼吸を繰り返し、よし、と息を整える。
「行きましょう!」
ライナルトが走り出して、私も足を動かした。力強い一歩を踏み出せば足元が消えてなくなるのは一瞬で、跳躍からの内臓がひっくり返るような感覚が全身を襲う。
底の見えない谷底は暗く、恐ろしい。
けれど隣にはライナルトがいるし、まるで魅入られたかのように暗がりを見つめる横顔には、恐怖のきの字もない。
彼は遠ざかる星に片手を伸ばし、まるで愛おしいものを抱えるように見つめている。
届かないものを追いかけるような眼差しは、まるで恋焦がれているようで……彼の抱える熱に、私は一瞬だけ、空に瞬く恒星が羨ましくなった。
――この瞬間を永遠にしたい。
できもしない望みを抱えて、私も双子月を抱くように手を伸ばす。
「薄明を飛ぶもの――」
声になっているかもあやしい『力ある言葉』を紡げば、全身に熱がみなぎり魔力が走るのを感じる。身を切るような冷たい風が、あたたかく全身を纏うものに変化すると、私たちの体は竜の背に転がっていた。
少し間をおいて続々と落下してくるのは仲間たちで、落下の衝撃はシスが和らげてくれる。
竜は翼を動かして、その身は谷を抜けて空へ上がって行く。声にならない感動でひととおりの時間を共有すると、黎明が私に話しかけた。
『わたくしのあなた、無茶をしますね』
「見てたの?」
『はい、すべてを。わたくしのあなたたちがとても楽しそうだったので、羨ましいくらいでした』
話を聞いていたのか、ぱっと表情を輝かせたシスが彼女に伝える。
「じゃあ、次はきみも一緒に飛び降りようぜ!」
『そうですね……次は、ぜひわたくしも』
旅の思い出が、また一つ増えた出来事だった。