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浅草風神記(原案『山月記』)

作者: 山門芳彦

 中島敦の『山月記』を原案に書きました。お楽しみください。

 役者となってはや五年経つ。ある冬の日、主演映画を撮り終わり一息ついたところで、懐かしの浅草に来ていた。俺は五年前まで浅草で無名のピン芸人をしていたが、その折にスカウトされて俳優に転身した。三十五歳になった今、浅草は五年ぶりだった。

 昼間に演芸ホールで寄席を観ていると、旧友の鳴上(なるかみ)清子(きよこ)が舞台で色物をしていた。十分ほどの漫談である。やつれ顔の彼女は俺と同い年で、テレビに出たことのない「売れない芸人」であるが、十五年は舞台に立ち続けている。俺がピン芸人の頃は、よく飲みに行く仲だった。

 彼女は、五年前まで夫婦漫才をしていた。旦那は風野(かざの)(また)三郎(さぶろう)といって、同い年で博学才穎だった。又三郎は貧乏をしながらも、鳴上と共に芸人として生きることに誇りを持った男だった。しかし五年前、鳴上が妊娠すると一方的にコンビ解散を言い渡し、芸人をやめて派遣労働者となったが、それから間もなくして忽然と姿を消した。現在も消息不明である。又三郎は、俺の友人でもあった。

 鳴上が、お決まりのネタを始めた。これは元々、又三郎が考えたものであり、酒の席での決まり文句でもあった。

「馬鹿野郎!」

 俺はつい、オチをこぼした。自分だけに言ったつもりのその声は、白けた会場に思いのほか響いてしまい、客と、舞台上の鳴上が俺を見た。

「ちょっとお客さん。私の仕事取ったらダメですよ。って。あれ、純ちゃん? 純ちゃんじゃない? お客さんお客さん、あそこに俳優の門野(かどの)(じゅん)さんがいらっしゃいますよ!」

 こう言われると、俺も立たざるをえなかった。拍手と、小さな歓声がおきる。

「純ちゃん、あとでお酒おごってよね」

 場慣れした鳴上はポソリと呟いて、また笑いを取っていた。

 寄席が終わる頃、鳴上から『これから飲もうよ』というメッセージが届いていた。

 俺はスマートフォンで返事を送ってから、楽屋の入り口で鳴上を待った。

「よう、おつかれ」

「久しぶりだね、純ちゃん。どこで飲む?」

「神谷バーに行きたいな。俺が出すから」

「やったぁ。純ちゃん、あそこ好きだもんね」

 神谷バーは、雷門通と国道六号が直交する浅草の角にある酒場だった。浅草の入口にあるのでよそゆきの嫌いがあるが、実のところ、常連のたむろである。

 酒と一品料理の食券を買い、壁沿いの空席に座る。俺はニッカのハイボール、鳴上はビールだった。俺は、テーブルの上に、あるだけの小銭を置いた。神谷バーでは、給仕に小銭を渡して追加注文をする。灰皿のあった頃は、灰皿に貯めた小銭を給仕に取らせていたが、昔からの常連の中には、今も小銭を積んでおく者がいる。俺もそのひとりだった。

「お子さん、元気? 大丈夫なの? 今日」

「うん。今日は実家に預けてるから大丈夫」

「本当に? お子さん心配してない?」

「いいの。大丈夫よぉ」

 鳴上は、一杯、二杯、と細い喉を鳴らしてジョッキを空けていった。ジョッキを握る手には皺が増えて、爪には縦筋が浮かび、指先がささくれていた。酒でとろりと垂れた目の下には隈が出来ている。俺の活躍を喜びながら、じゃんじゃん飲み続ける鳴上を見て、俺は彼女が心配になった。話が止んだときの沈黙が、物悲しい。鳴上は、ふと神妙に、

「あのね、純ちゃん。最近ね、この辺りで物騒な話が出ているの」

「物騒?」

「ほら、雷門の風神様、あるでしょう? それが動き出すって」

「何だよ、それ。映画じゃないんだからさ」

「いま風神様は修理中で、代わりに風神様の写真の幕を張ってるの。雷門の提灯を修理するときもそうしてたけど、同じ感じ」

「写真の風神様が動くってのは、風にバタバタ揺れることかよ?」

「中らずと雖も遠からず、ね。その風神様の幕が風をはらんでは、ゴム風船のようにはち切れんばかりに膨らむの。それで、溜めた空気を一気に吐いて、台風みたいに人を吹き飛ばすんだって」

「それを風神が動いた、と。なかなかユーモラスだけど」

「笑い話じゃ済まないんだよ、純ちゃん。怪我人が何人も出ているの。三日前は、ガラの悪いお兄さんが吹き飛ばされて、頭を打って病院行きだったの」

「詳しいな?」

「この辺で飲んでたら、誰ともなく教えてくれるもん。この界隈が狭いのは、純ちゃんも知ってるでしょ?」

「そうだな」

 鳴上は、息継ぎのようにジョッキを空けた。

「肝心なのは、ここからなの。病院送りになったお兄さんが、病床で――」

 鳴上は、それきり黙ってしまった。俺が促しても動かず、俺は近くにいた女性の給仕を呼んで、追加のハイボールとビールを頼んだ。

 そこに、

「お姉ちゃん、ハイボールもうひとつね」 

 と、袈裟を纏った坊主頭の男が、俺の小銭から五百円分をつまんで、給仕に渡した。坊主は俺の横に座って、自分の財布から五百円玉を出し、小銭の山に落とした。

「純ちゃん、久しぶりじゃないの」

 俺の肩を叩く坊主は、名も知らぬ常連の一人である。顔だけは覚えていた。

「いやぁ、お父さん久しぶりですねぇ」

「おうよ。今日も、この炭酸麦茶のために信心してたのさ。でな、鳴上ちゃんが話せないのも、無理ねぇことよ。俺も聞いたんだけどな、入院した兄ちゃんが、見舞いに来た連中に『風神の声を聞いた』と言ったってんだよ。で、風神は厳めしく、『僕は文化のために文化を憎む。又三郎ここにあり』って言ったそうだ」

「又三郎……!?」

 その瞬間、ぞわぞわとした心地が、身体の中心から外へと波紋のように広がった。

 俺は、ハイボールがくるのも忘れて神谷バーから飛び出し、雷門に向かった。まだ人気が多い。雷門の内側で、風神の幕は大人しく佇んでいた。

坊主が追ってきた。

「純ちゃん。大抵、真夜中に出るってさ」

「お父さんは、何だと思います?」

「分からねぇな。ただ、君が今日帰ってきたのは、何かの縁かもしれねぇ」

「信じませんよ。あいつは行方不明だが、幽霊になった訳じゃないんです」

「そこの交番のお巡りさんは、事故の瞬間を見てるってよ」

「――よしてください」

 俺は、坊主とバーに戻り、半ば自棄になって飲み直した。


 人気のなくなった終電後の時刻になって、俺は雷門の前にいた。

 風の強い夜である。雷門の奥の仲見世通りは、夜闇に溶け込むように静まっている。

 雷門の下に立って、左右の柱の中を確かめる。柵の内側の空洞に、雷神はその姿をとどめていた。対の風神の柵の前には、風神の写真を印刷した幕が垂れさがっている。

 雷門の下を、夜風が鋭く吹いた。風神は風をはらむというよりも、潰された空き缶のように僅かに柱の空洞へと凹んでいた。

 俺は、酒に酔っていた。

「風神。貴様ァ、風のように噂を立てるだけかァ? 今の俺は、こんな時にこんな所にいていい人間じゃなくなったよ。それでも、又三郎って言われちゃア、黙っちゃいないんだ。あいつァ……あいつァよ、友達だったんだぜ?」

 その時、一迅の風が吹いて、凹んでいた風神の幕が大きく膨らんだ。

幕が、気球のバルーンのように天井に向かってはち切れそうになったかと思うと、びゅう! と一息に唸りを上げた。

その台風のような突風に、俺の身は容易く吹き飛んで、あれよあれよと舞い上がった。

眼を開けると、俺はスカイツリーを見下ろす高さにいた。その景色は、ヘリコプターの空撮のそれで、浅草どころか、城東一辺を見渡せた。間もなく、落下が始まった。

スカイダイビングのように、地上とうつ伏せに向き合って、俺は叫んだ。

「誰かッ! 誰か――! 又三郎! 又三郎ォ――!」

 空に、

「――まずいッ」

 と、俺の横を何かが風を切って降下した。その者は俺を抱き留めて、スカイツリーの展望台の上に、ふわりと着いた。酔いとダイビングにすっかり目を回していた俺だったが、あの「まずい」という声の主は分かってしまった。俺は額に手をあてながら、

「その声は、風野又三郎だな」

 俺は、何度も目をしばたいて、その者の貌を確かめた。間違いなく、あの雷門の風神のそれである。風神は暗い面持ちで黙り、そしてむせぶように、

「そうだ。僕は、風野又三郎だ」と言った。

 又三郎に再会を喜ぶ色はなく、惑っているようだった。帰れと突き放すこともなく、再会の熱い抱擁を交わすでもない。俺も何を話せばよいのか分からず、しばらくは風が耳を打つばかりだった。

「又三郎、俺を見てくれないか」

 そう言うと、風神は躊躇いながらも、やがて俺と目を合わせた。

「ああ。僕の友、純。何故、こうなったんだろうな。このような姿で、また、君に会ってしまうんだろうな。いや、こんな姿になり果てても、君に会えたことを、喜ぶべきなんだろうな、僕は」

「素直に喜べよ。俺は嬉しいんだ。な、せっかくだ。この景色を肴に、一杯――って、酒はないが、お前に何があったのか、話しちゃくれないか」

 俺は、自分でも驚くほど、この異常な光景を受け入れていた。或いは、これは夢なのかもしれない。飲み過ぎるうちに寝入ってしまい、意識だけがスカイツリーに行ってしまったのかもしれない。しかし今は、そんなことはどうでもよかった。

 又三郎は、静かに、重々しく、語り始めた。

「僕は五年前、地方営業をしていた。僕と妻の清子で漫才をしていたときに、清子が突然倒れた。つわりが来たんだ。そのとき、清子と生まれてくる子を養うには、芸人ではだめだと思った。清子は、『貧乏は覚悟の上』と笑っていたが、僕は清子のやせ細った頬と、どこを見ているか分からない眼を見て、急に恐ろしくなった。何が、芸で身を立てるだ。二十歳のときに『浅草で野垂れ死ぬなら上等』と、君や清子と意気込んでいた頃の僕は、もういなくなっていた。

 僕は、アルバイトと舞台で食いつなぐ日々が、怖かった。大学時代、僕は特待生で、よく勉強が出来た。だが、官公庁や大手企業などに就職する気はなかった。幼少の頃から好きだった芸人が病死したと知った時、僕の生き方は芸人しかないと思った。それ以上に、僕を芸人にさせたのは、恐らく、怒りだ。古典を読まぬ若者が作家になるように、その芸人を知らずに芸人として名を馳せてゆく輩が、この世の中にごまんと出てくる事が、許せなかった。僕は、文化のために文化を憎んで、芸人になったんだ。

 だのに、僕は、芸人の道から、逃げた。工場で十二時間労働の夜勤を始めた。

 やっぱり、辛かった。

 それでも、あのような工場でも、なにか夢を抱えて瞳を輝かせる若者がいた。若い彼らが、ほんとうに羨ましかった。

僕は、何もかもを忘れていく人間が嫌いだ。獣は、習い性ゆえに人間に狩られるが、人間も、歴史を忘れることで過ちを繰り返し、また歴史を重ねる。戦争から戦争へのひと巡り、パンデミックからパンデミックへのひと巡り。そのひとつひとつは、空腹によって弱肉強食せざるを得ない獣の日々と、何ら変わりない。

働くうちに、僕は人でいるのが嫌になった。僕は、風になってしまいたかった。そして、ある風の強い夜、誰かが僕を呼ぶ声がした。思わず駆け出したときには、僕は風に乗り、空の彼方へと飛んで、世界中を回っていた。それこそ、夢かと思ったのだが、いつまでも夢から覚めない。やがて浅草に帰って来たその時、君が神谷バーで俳優としてスカウトされたのを見たんだ。誰よりも冴えなかった君は、俳優になって誰よりも出世してくれた。祝ってやりたいと思った頃には、僕の身体は筋骨隆々の風神になっており、人目を避けざるを得なくなっていた。

ある時は風神となって、ある時はただの風になって、僕は昔のことも、今のこともよく分かるようになった。諸行無常、万物流転という真理が、心の底からはっきりと、透き通るように見えるんだ。俳優の君にも、世の真理のひとつも説ける身になったが、日に日に風神となって物思いに耽る時間が少なくなってきている。今日を限りの心かもしれない。だから友よ、君と語り、残したいことがある。

僕たちの親は、飽食の時代に生きてきた。君たちの世代は、じわじわと迫る貧しさとあらゆる意味での餓えに耐えなくてはならない。そう。あらゆる意味でだ」

「あらゆる意味?」と、俺は返した。

「そうだ。近頃の人々はみな、目や耳は肥えているようだが、心は瘦せている。文化、芸術というのを心の拠り所にしながらも、どこかで軽んじているのだ。

 純、僕たちは浅草で生きてきた。ここは、伝統と文化を守り、発信し続ける場所だ。

 何より、ここには人情がある。 

 だがあの愛しき落語の世界は、街道と地名に名残るばかり。僕の懐古趣味と思われる憧憬も、いずれ、人情を忘れた人々によって消えてゆく。忘却こそ、人間の性にして、罪だ。

 文化の最大の敵は、文化だ。百年を生きた歌も、伝え遺すことを忘れれば消え果て、即席の歌も、ひとりの心に確かに宿れば、語り継がれる歌となろう。

 そりゃ、全てを忘れずにいることなど、有り得ないだろう。一人の人間が憶えられることにも限りがある。だからかもしれないな。僕が風神になったのは。だがな、どんな時代になっても、人情を忘れちゃいけない。努めて、忘れちゃならない――」

 そこまで言って、風神は忽然と消えた。俺は風に目をすぼめて、あたりを見回した。

 すると、また風が俺の目の前に集まって、風神の姿に戻った。

「これ以上は、しゃべり過ぎって事かな」

 と、風神の又三郎は嗤った。完全になれない自分を恨んでは、その恨みをネタに生かしていた、あの又三郎らしい口ぶりだった。二十代の、酒場にいた景色が心に甦る一方で、彼のことを哀れに思う自分がいた。ふと、俺の脳裏に過るものがあった。

「又三郎。鳴上を、どうするんだ」

 東の空が青くなっていた。又三郎は、「あぁ」と深いため息をこぼした。

「じきに、僕は風になる。僕に出来ることは、ただ、清子と子どもを見守ることだけだ。自分勝手を承知で、友人として君に最後の頼みをしてもいいだろうか」

「なあ、人間には戻れないのか? 二人には又三郎が要るんだよ」

「僕はもう、吹かれるままの風でいい。君に、息子と、鳴上清子を託したい」

「馬鹿野郎!」

 俺は又三郎に平手打ちを飛ばした。しかし、平手が彼の石膏のような頬に当たると思われたとき、朝日が浅草の街に差し込んだ。その光線が風神を捉えると、銀幕が照明に照らされたように、風神の姿は消えてしまった。

「又三郎! お前は――」

 また風が吹いた。そして、俺はスカイツリーから雷門の前へと、瞬く間に飛ばされて、ふわりと落とされた。門の内側にあるはずの風神の幕が、無くなっていた。

尻餅をついた俺の元に、

「君、大丈夫か!」

 と、交番の警官が駆けてきた。その後ろに、鳴上清子がいた。鳴上は、

「純ちゃん、又三郎は!?」

 俺は頭を振った。あいつは風になった、とは言わなかった。

「純ちゃん。私――」

 鳴上は泣き崩れた。彼女の髪がそよ風に揺れた。その瞬間の顔が、あでやかに思われた。

抱いてやりたかったが、今はまだ、出来なかった。

 俺は、スマートフォンを取り出して、時間を確かめた。始発の出る頃だった。

「仕事があるから」

 誰にでもなくそう言って、地下鉄の階段を下った。


(終)


およみいただき、ありがとうございました。

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