鐙
会場からの大歓声を聞きながらエリックはエミールと共に自分の乗馬の最後の点検をする。
ロランが見ているから間違いはないが、それでも命を預ける生き物だ。最後は自分の目で見なければならない。
「よし、問題ないな。今日は頼むぞ」
馬の鼻筋を撫でてやる。
この馬は気性は大人しいが、集団で走り出すと先頭を走りたがる性格をしている。競馬向きの性質だろう。
馬の世話を続けるエリックの前に何頭かの馬が足を止めた。
「ニースのシンクレアではないか」
「これは、オルヴェーク卿。お久しぶりにございます」
騎馬武者の先頭にいたのは、いつかエリカの王都エンデュミオンへの招聘に遣わされた使者だった男だ。一際は立派な黒馬に跨っている。
「其の方に関して奇妙な話を聞いたのだがな」
「はい。なんでしょう」
下馬する様子も無く、淡々と尋ねてくる。
「貴様が、フリードリヒ様の馬廻りの任を与えられたという話なのだがな。本当か」
「はい。先ほど、将軍閣下直々に命じられました」
「ほう」
周りの騎馬たちも騒めきだした。オルヴェーク卿も若殿の馬廻り衆なのだろうか。
エリックの疑問をよそにオルヴェークは視線を馬に移した。
「それは、貴様の乗馬だな」
「はい」
「よし。不肖ながら、この私が貴様の馬術を試させてもらおう。これからは轡を並べる同僚なのだからな。我らにその腕を見せよ」
同僚という事はオルヴェークも馬廻り衆ということだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
「わかりました」
「良い意気込みだ。私は十番目の出場だ」
「十番目・・・ですか」
「何か問題か」
「いえ」
蒐での競馬に限らないが、競馬では出場の順番が後ろに行くほど賞金が上がる。それにつられる形で参加する馬も立派なものになる。
最初の四、五回は誰でも気軽に参加できる前座みたいなものだ。
競馬は六回目あたりから熾烈な争いになっていく。今回、エリックが出ようと思っていたのは七番目の回だ。
ここからは、回が一つ上がるたびに馬と騎手の強さが上がっていく。
一つ上ならともかく三つも上なのか。この馬はいい馬だが、十番目に出られるかと言うと心もとない。エリックは内心ほぞをかんだ。
「オルヴェーク卿。何やら面白そうな話だ、私もその話に加えていただきたい」
「そうだな。私も新たに加わった仲間の力を見せてもらいたいものだ」
後ろにいた騎馬たちが、エリックの馬を見て勝算ありと思ったのか一斉に声を上げた。
「好きにすれば良いではないか。走らせるのは馬と各々の力量だ」
エリックの返事も待たずにオルヴェークは馬を進め人混みに消えていった。
「エリック様」
「エミール。七番目は取り消す。十番目の競馬に申し込んできてくれ」
心配そうに声を掛けるエミールに笑顔を向けた。
上手く笑えただろうか。
「エリーック。いたいた。おーい」
遠くから耳なじみのある、呑気な呼びかけが聞こえる。
なんだろう。あの声を聴くと張りつめていた力が抜けていくようだ。
エリックは駆け寄ってくる人影に自然とほほ笑んだ。
「なんだ。馬が沢山いるんだから、ふらふら歩き回るなよ。蹴られても知らんぞ」
「ご挨拶ね。ちゃんと気をつけているわよ。それより。何番」
「何番? 何の話だ」
エリカとの会話はいつも唐突だ。
「だから、エリックが出るレースは何番レースなの。今ね、セシリアとコルネリアと一緒に観てるんだけど、馬券を買ったらもっと盛り上がると思ってね。ねぇ。何番」
「ちょっと待て、バケン? ・・・ってもしかしてとは思うが、賭けをするつもりか」
「うん」
「うん。じゃない」
笑顔一杯で頷くエリカの頭上に手刀を軽く振り下ろす。
相変わらず何を考えているんだ。
「なによ」
「よりによって、セシリアを賭博に誘ったのか」
「誘ってないわよ。私が買いたいだけ」
「変なことをセシリアに吹き込まないでくれよ。お嬢様がエリカみたいになったら嫌だ」
「どうゆう意味よ。で、何番目なの」
「はぁ。十番目だ」
「結構後ろの方に出るね。勝てそう」
「任せておけ」
胸を張って答える。勝負はやってみないと分からない。やる前から弱気になってどうする。
「OK、じゃ頑張ってね」
「ああ」
立ち去ろうとするエリカにエミールが耳打ちした。
おい。余計な事を言うな。
止めようとしたが、エミールの動きが早くエリカが表情を変えた。
遅かった。
「どういう事」
「どうという事も無い。腕を見せろと言っただろう」
問い詰められたので、大人しく経緯を話した。
「あのね。競馬は詳しくないけど、それでも三階級上の馬と戦うなんて勝てるわけないでしょうが。なんで受けちゃうかな」
「挑まれたのに、引き下がれるか。競うのは同じ馬廻り衆の人たちなんだ。逃げたと後ろ指さされるなんて負ける以上の屈辱だ」
「はぁ。これだから、男ってやつは」
エリカは大げさにため息をつき両手を上げた。
「この馬以外の馬は? 」
「どういう意味だ」
「どうもこうも無いわよ。この子じゃ勝てないんでしょ。他の馬は」
「ロランの所にいるが」
「よし。ロランの所に行くわよ。馬券どころじゃなかったわ」
返事も聞かずにエリカは踵を返した。こうなったら梃子でも動かない。
他の馬にしても勝てるとは思えないが、仕方がない。
エリックも馬を連れて後に続いた。
ニースの馬を集めている場所でエリカがロランに食って掛かる。
「ロランさん。エリックに最高の馬を用意して。一番早い奴よ」
「急になんだ。若が選んだ馬は良い馬だぞ。十分に戦える」
「十番目のレースでも勝てるの」
「・・・十番目? 七番目では」
「違うのよ。それがね・・・」
エリックが血気に逸って上位の馬たちと戦うことになったと伝えた。
「そんなことが。若。流石に十番目とは戦えませんぞ」
「ほら」
エリカが勝ち誇ったように振り返る。
「やってみないと分からないだろう」
「まだ、そんなこと言ってるの。勝てないって顔に書いてあるわよ」
エリカの言葉に思わず顔を撫でてしまった。
そんなエリックをしり目にエリカは村から連れてきた馬を物色し始めた。
「なによ。あの馬連れてきてるじゃない。どうしてあの子にしないのよ。おっきいし速いんでしょ。クロードウィグもいい馬って言ってたし」
エリカが指さしたのは父ブレグの馬だった。
「この馬はな気難しい。今日も興奮気味で気が立っとる。競馬には向かない」
「レースで何を甘っちょろいこと言ってるのよ。速いんでしょ。これにしなさいよ」
「上手く扱えなかったら、意味が無いと言っとる」
「それを乗りこなしてこそでしょうが」
エリカとロランがエリックそっちのけで激しく言い合う。
「分かったわよ。ちょっと待ってなさい」
頑ななロランに業を煮やしたのか、エリカは鞍置き場から自分の鞍を取り出すと、父の馬に括り付けた。
「はい。エリック。乗って」
「それは、エリカの鞍だろう」
「そうよ」
「なぜ、エリカの鞍を使うんだ。使うのなら自分のを」
「もう、察しが悪いわね。これよ。これ」
エリカは鞍から延びた革と鉄でこしらえた部品を引っ張ってみせた。
「これって、鐙か」
「そうよ。使ってみて」
エリカが事あるごとに勧めてくるのが鐙だ。確かに女子供が使うには便利な道具だろうが、今更俺には必要ない。
「これがあれば、この子も扱えるわよ。たぶん」
「たぶんってなんだ」
「いいから、やってみてから文句を言いなさいよ。はい。乗って」
追い立てられるように父の馬に近づく、周りの喧騒に当てられたのか今日は朝から興奮気味だ。エリカが煩いのでとりあえず跨ってみる。こんな部品一つで乗馬の技術が上がるわけはないのだが。
「身体を両足の土踏まずでしっかりと支えるのよ」
「わかった。わかった」
エリックは靴を鐙にはめ込むと、馬が激しく身をよじった。エリックは足を閉め身体を保持しようと力を籠めると不思議な反応が返ってきた。
「こんなもので、大人しくなる訳なかろうが」
ロランの発言にエリカが食って掛かる。
「便利だって言ってるでしょ」
「そりゃ、お前さんにはな」
「皆にも便利よ。私の国、うんん。周りの国の人もみんなこれ使ってるし。競馬でも使うわよ」
「皆の笑い物にならんといいがな」
「何で笑うのよ。落馬して死んじゃうほうが問題よ」
エリカとロランが言い合いを始めた。
「少し、その辺を走って来る」
「えっ、あっ、若」
エリックは返事を待たずに馬の腹を蹴った。
「何だこれは。ただの足置きかと思ったが、全然違うのか、これは」
エリカのような馬に乗ったことの無いものが使うには良いだろうと思っていたが、これは違う。父の馬はいつも通り気性が荒く乗りにくいが、両足をしっかりと踏ん張れるので、操れる。
父の馬は馬格も他の馬より一回り大きく一歩一歩が大きく速い。これまでは跨るだけで一苦労だったが、鐙を使ってみると今までにない感覚だ。その場を軽く一周してエリックは決めた。
そうだな。これで行こう。
続く
おかしいな。
昇進の話と競馬の話で一話の予定だったんだけど、まだねスタートすらしていない。
どうなってんだ。( ゜Д゜)?




