統治権
降りしきる雨の中、江梨香がニースへと帰って来た。
家の軒下で、剣の素振りをしていたエリックが出迎える。
「お帰り」
「ただいまー」
エリカが愛馬の羽黒から飛び降りると、足元で泥水が飛び跳ねる。
馬の扱いも少しは上達したな。
「大変だった」
旅用の大きな外套を外すと、エリカの長い黒髪が水に濡れていた。
「随分と降られたみたいだな」
「あっ、うん。雨もそうだけど、オルレアーノが大変だった」
頬からは、雨粒が滴り落ちる。
「そうか。まずは身体を拭うといい。台所にお湯があったはずだ。それとも風呂に入るか。今ならお湯があるはず」
「お風呂か。どうしよっかな」
しばし考え込むみ。
「やっぱりいい。お風呂に入ると眠くなるから。エリックに聞いてもらいたいこともあるし、後にする」
これは珍しい。エリカが風呂よりも優先するとは。何の話だ。
「分かった。馬の世話は俺がしておく」
「ありがとう。お願いね」
ずぶ濡れのまま、小走りに家の中へと消えていった。
「お前も雨の中、ご苦労だったな」
羽黒の背中を撫でてやると、大したことじゃないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
馬の世話を終え、書斎でエリカの話を聞くことにする。
適当な服が無かったのか、エリカは昔に着ていた使用人の服に着替えていた。
「それで、何が大変だったんだ」
大きな机を前にした椅子に座ると、エリカも自分の椅子に腰かけた。
「えっとね。どこから話したものか。じゃ、まずはいい話から。マリエンヌは、ニースで暮らしてもいいことになった。将軍様の許可も貰ったわ」
何重にも巻かれた布の中から、一本の書簡を取り出す。受け取り中を開くと、マリエンヌ嬢の処遇について書かれた文書が現れた。
公式な文書だ。これでどこからも文句は来ないだろう。
「良かったじゃないか」
「うん。だけど、名前は変えなきゃならないみたい」
「仕方がない。マリエンヌ嬢は、死んだことになっているからな。これぐらいは受け入れてもらわないと」
「だよね。次は、よくない話」
いい話の次は当然そうなるだろうな。あまり聞きたくはないが、そうもいかないか。
「なんだ」
「私の領地に、モンテューニュに、修道院を建てなきゃならなくなっちゃった」
そう言うと、エリカは無念そうに息を吐いた。
俺としては、何が悪い話か分からない。続きを待つが、何も言わない。
「それが、悪い話なのか」
「だって、マリエンヌの身柄と引き換え条件だったのよ。司教様の陰謀よ。してやられたわ」
例によって、どこが陰謀なのか、全く分からない。
修道院建設の話は前々から出ていた。ついにその時が来ただけでは。
まぁ、エリカの話が分からないのは、いつものことだ。最後まで聞こう。
「マリエンヌをここで預かりたかったら、私が代表の修道院、じゃない。私が代表の修道会を作れだって。そこでならマリエンヌの面倒を見てもいいって。半分、脅迫よ」
「エリカが代表の修道会・・・それは本当なのか」
唖然として、口が開いたままになる。
「冗談だったら、どれほどよかったか。ああ、もう。完全に教会に飲み込まれちゃう。これがニースなら断固拒否できたんだけど、私の領地だからね。断るに断れなかったのよ。ごめんね、エリック。もしかしたら、ニースにも迷惑がかかるかも」
「いや、凄いことじゃないか。断る必要もないだろう。それが悪い話なのか」
「悪いわよ。最悪よ」
「どこがだ」
俺も教会について詳しいわけではないが、自分の修道会を持っている教会の人間なんて、そうはいないだろう。恐ろしいまでの厚遇じゃないのか。
「だって私の領地が、半分教会の物になったようなものじゃない。司教様からも、バッチリしっかり、管理するってお言葉を頂いたわよ」
「教会がモンテューニュ騎士領を管理? どうしてそうなる。修道院を建てたとしても、エリカの領地には変わりないだろう」
「見かけ上はね。だけど、私も坊主の端くれだから、司教様の監督下なのよ。なんだかんだ言って来るに違いないわ」
「考えすぎだと思うがな」
「どこがよ」
自分の意見を否定されたと思ったのか、エリカは若干けんか腰だ。
「どこがと言われても困るが・・・」
「仕方がないと受け入れてはいるんだけど、今後の事を考えると憂鬱」
「そんなに心配なら誰かに聞こう」
「聞くって誰に」
「誰がいいかな。バルテンかコルネリア・・・」
「二人とも物知りだけど、領地と修道会の事まで分かるのかな」
「確かにな・・・ああ。それならば、ロジェ先生はどうだ。あの人は法律の専門家だからな。この手の話にも詳しいかもしれないぞ」
「ロジェ先生か。分かった。そうする」
「よし。決まりだ」
人をやって、ロジェストを探しに行かせた。
「お呼びですかな」
程なくしてロジェストが書斎に現れる。
王都に居たころに比べ、格段に日焼けしている。
彼はニースに来てから、村の子供たちに釣りを教えられたらしい。以来、暇があれば海辺で釣りに興じているようだ。
「ロジェ先生。呼び立てて申し訳ない。エリカの話を聞いてやってくれませんか」
「暇を持て余している身の上です。何なりと」
彼は来客用の椅子にドカッと座りこみ足を組む。身体つきは違うが、弟のアラン卿と同じ長い足だ。
エリカがロジェストに事の経緯を説明した。
「・・・ってな訳なんですけど。大丈夫でしょうか」
「なるほど。エリカ殿の懸念はもっともですね」
ロジェストは上体を起こして、両手を組む。
「でしょ」
「ですが結論から申し上げると、問題ありません」
「本当ですか」
「本当です。まずは法的なことをお話しいたしましょう。この騎士領ですが、これは便宜上、国王陛下直轄のご領地となります。ですから騎士領の統治権は王権に属します。我が国では、王権に対して教会は従う立場となります。ここまではよろしいか」
「はい。なんとか」
ロジェ先生の言葉を理解しようと、エリカは真剣な表情だ。
「領主たるエリカ殿は、王権を代行している形になりますので、教会は騎士領に対して口出しする権利を持ちません。故に、教会はエリカ殿に対して指示する、法的な根拠がありません。修道会に対しては、指示も出来るでしょうが、領地の統治権に関しての横やりは無視しても構いませんよ。問題になれば、エンデュミオンの王立裁判所に訴えればよろしい。確実にエリカ殿の勝訴です。私にも経験がある」
「なっ、なるほど」
「よほど、特殊な例外を除き、大丈夫ですよ」
「あの、因みになんですが、例外は何でしょう」
「それは、教会に寄進された領地です。これは少し複雑でして、教会が統治権の代行者になります。この場合は教会の監督下に入ります。貴方の領地は教会に寄進されたものですか」
「違います」
「ならば、気に病む必要はありません」
「良かった」
エリカの貌に安堵の色が広がった。
「お役に立てましたかな」
「はい。ありがとうございます」
「ハッハ。封建された諸侯に、教会が横槍を入れる事は珍しくありません。エリカ殿の心配はもっともなものですよ。ただ、貴方は教会のアルカディーナだ。教会もそうは無茶を言わんでしょう」
「ですよね」
「ベレッツ島の様に、修道院しかない領地であれば、危険かもしれませんが、そんな領地は例外中の例外です」
「えっ」
せっかく緩んだエリカの表情が再び凍り付く。
「あのー。私の領地。ほとんど人が住んでいないんですけど」
「はい? 」
今度はロジェ先生の表情が固まる。
「確か、エリカ殿の領地は、この村の隣にあったはずでは。無人ということは無いでしょう」
「はい。その通りなんですけど、昔に色々あったらしくて、今の住人は百人いるかいないかで、後は全部、荒れ地と岩山です」
「岩山・・・」
「です」
「そこに、新しい修道会ですか。しかも教会主導の」
「はい。教会って言うか、レキテーヌ司教区主導の」
「同じことです」
「ですよね」
江梨香の告白にロジェストは咳ばらいを一つ挟む。
「失礼。まぁ。百人とはいえ、領民がいるわけですから問題ありません。領民と協力して修道会に対抗すればよいのです」
その言葉に、江梨香がばつの悪そうな表情を浮かべる。
「何か問題でも」
「えーっとですね。恥ずかしながら、私、領民の皆さんには、領主として認められてないかなー。なんて」
「・・・・・・」
ロジェ先生が本当かと、俺の方を見てきたので頷く。
エリカが領民から領主として認められていないことは、残念ながら事実である。
俺の反応を見たロジェ先生は立ち上がり、部屋の中を行ったり来たりして考え込む。しばらくすると、ポツリとつぶやいた。
「領民からの支持が無い領主に、教会主導の修道会・・・これは不味いかもしれんな」
「えーっ」
江梨香の悲痛な声が、書斎に木霊した。
続く
誤字報告、いつもありがとうございます。助かります。




