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刺繍

 王都の一角に、煉瓦と漆喰で固めただけの殺風景な館がそびえたつ。

 この館は、十人委員会が高貴な身分の罪人をとらえる為に利用している牢獄であった。

 その牢獄の四階、南向きの窓が大きく開かれていた。


 乾燥した心地よい風が入り込む小さな部屋。

 植物を編んで作り上げた簡素な椅子に、一人の女性が腰かけ針仕事を行っていた。

 質素だが清潔な服で身なりを整え、艶のある茶褐色の髪が緩やかな風にそよぐ。

 一陣の風が通り抜けたのを見計らったかのように扉が叩かれた。

 女が返事をすると、一人の男が部屋に入ってきた。

 男は女に向かって、大げさな仕草でお辞儀をする。


 「ご機嫌はいかがでしょう。マリエンヌ様」

 「元気にしています。ロジェスト殿」

 

 マリエンヌは手にしていた布を机の上に丁寧に並べて微笑む。

 その穏やかな表情を受け、ロジェストは何度もうなずくのだった。

 この、狭いながらも快適な部屋は、江梨香の厳命によりロジェストが大金片手に交渉し、勝ち取った結果である。

 ろくに光が差し込まない地下牢とは、天と地ほどの差である。ロジェストの交渉力に、江梨香は大きな満足を表明した。


 「お喜びください。裁判は貴方にとって有利に進んでおります。今や王都の民の心は、貴方への同情であふれています。その勢いは凄まじく、委員会も腰砕けの答弁しかできません。必ずや無罪を勝ち取れますよ」

 「ありがたいことです」


 マリエンヌは小さく会釈をするが、表情に陰りが出た。


 「何かご懸念でも」

 「いえ。私の事ではない。父上や兄上のことです」


 マリエンヌの言葉を受け、ロジェストの表情に苦みが走る。


 「お二人については、私からは何も言えません。私は貴方のディクタトーレです。そちらにつきましては」

 「そうですね。詮無い事を聞きました。忘れてほしい」


 マリエンヌが小さく首を振ると、ロジェストが慰めの言葉をかける。


 「お気を落とさずに。悪い話ばかりではありません。メルキアでは討伐軍が、苦しい戦いを強いられています。これはヘシオドス家全体にとって朗報です」

 

 勇気づけようとの心遣いに、マリエンヌは感謝する。


 「そうですか。叔父上が奮戦されておられるのですね」

 「はい。それはもう。一度は討伐軍が敗走にいたったとのこと。委員会も動揺している様子」

 「敗走? 王軍がですか」

 「はい。どうやらメルキア軍の奇襲を受けたらしく、部隊は大崩れ。討伐軍の大将を務めているローゼン伯は、王都での評判を落としています。一方で、ヘシオドス家の武勇が鳴り響いております」

 「叔父上は(いくさ)上手ですから」

 「叔父上様のお蔭をもちまして、我々も助かっております」 


 ロジェストはマリエンヌの表情が柔らかくなったのを確認すると、話題を変えた。


 「そうでした。危うく忘れるところでした。エリカ殿からこちらを預かっております」


 ロジェストは鞄から手紙と、甘いにおいを漂わせる袋を取り出し、マリエンヌに手渡す。

 袋の中には江梨香が作ったビスケットが詰め込まれていた。


 「今回は自信作と仰っていましたよ」

 「ありがとう。大事に食べます」


 マリエンヌは袋を机の上に置くと、手紙の封を切り、ゆっくりと目を通してゆく。

 そこには、変わった言い回しの文章が、優しさを伴って綴られていた。


 「私は運がいい。エリカに助けてもらえたのだから・・・エリカは息災ですか」

 「はい。相も変わらず、元気いっぱいですよ」


 間髪容れない返答に、マリエンヌは目を丸くするが、また表情がかげる。


 「ですが、謀反人の私を庇ったばかりに、賊に命を狙われるなんて・・・エリカの身に何かあったらと考えると、この身の置き所が失せる」

 「ご憂慮には及びません。本人が全く気にしておられませんから。断言いたしましょう」

 「それでも、心苦しいのです」


 マリエンヌはゆっくりと瞳を閉じた。


 「エリカ殿はアスティー家において、常に身辺を親しいご友人や忠実な臣下に守られております。どんな手練れの賊でも、手出しはできません。身の安全については大貴族並みの待遇です。ご安心を」

 「それならよいのですが・・・これ以上危険が及ぶことになれば、私のことはお忘れください。そう、エリカに伝えてほしい」


 マリエンヌの要請に、ロジェストは苦笑いを浮かべた。


 「お伝えはできますが、決して、了承することはないでしょうな。これには確信があります」

 

 ロジェストはしばしの合間、マリエンヌとの歓談を続ける。

 問われるまま、エリカの日常の生活風景を話してやると、彼女はとても喜ぶのだった。

 その後、エリカへの手紙を預かる。

 これが許されるのも、ロジェストの交渉力と、エリックが用立てた大金のお陰であった。


 「それでは、今日はここでお(いとま)を。次お会いするときは解放された後でしょう。もうしばしのご辛抱ですよ」

 「ありがとう」

 「では」


 立ち上がったロジェストをマリエンヌは呼び止めた。


 「はい。なんでしょう」

 「これを、エリカに」


 マリエンヌは、小箱の中から小さな布切れを取り出しロジェストに手渡す。

 布には色鮮やかな刺繍が施されていた。


 「これは、見事な出来栄えですね。鳥。いや、ベニヤンクの(おおとり)ですかな」


 布には赤と黄の糸で、首の長い大きな水鳥の羽ばたきの瞬間が精緻に描かれていた。


 「ええ。これをエリカに」

 「お預かりします」


 ロジェストは刺繍を鞄にしまい込む。

 エリカ殿には何よりの土産になるだろう。

 その様子を満足げに眺めていたマリエンヌが口を開く。


 「ベニヤンクの(おおとり)は正と邪が対立した時に、必ず邪に首を向け戦う不死の聖獣。邪悪を退け幸福を呼び込む力があるとされています。私の故郷ではこれを壁に貼り付け、魔除けとします。エリカの身を守り、幸が訪れますようにと、念を込めました」

 「エリカ殿もお喜びになるでしょう」

 「頼みます」



 ロジェストが立ち去った後、マリエンヌは何度も何度も江梨香からの手紙を読み返す。

 部屋の片隅の戸棚の上には、以前の面会時に受け取ったビスケットの袋がそのままになっていた。

 ビスケットが口に合わないわけではない。

 いや、これほど嬉しい菓子は、かつて口にしたことが無い。

 それ故に、全てを食べてしまうのが惜しまれるのだ。

 だから毎日、少しづつ口にしていた。

 彼女の食べる速度よりも、江梨香の差し入れの回数の方が、勝っていただけ。

 マリエンヌは袋からビスケットを一つ取り出すと、時間をかけて食べた。

 程よい甘みが口いっぱいに広がる。


 夕刻になり、質素な夕食を食べ終わった頃。

 再び部屋の扉が叩かれ、返事をする間もなく黒服の男たちが入ってきた。

 彼らは十人委員会の役人たちだった。


 「囚人マリエンヌ。委員会からの呼び出しだ。出頭せよ」

 「分かりました」


 マリエンヌは、手にしていた江梨香からの手紙を小箱にしまうと、男たちの後について部屋を出て行った。

 机の上には、作りかけの刺繡が残された。



 その頃、マリエンヌの元を辞したロジェストは、ベニヤンクの(おおとり)の刺繍を江梨香に手渡していた。

 喜んだ江梨香はさっそく、部屋の壁にベニヤンクの鳳を掲げたのだった。

 赤と黄色の不死の鳥が、エリカの背後に輝くのを見てロジェストは、江梨香と自身の勝利を確信した。



                続く

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