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風向き

 公判を終えたロジェストが、アスティー家の長屋に戻ったのは、昼を少し過ぎたあたりであった。

 大量の資料を詰め込んだ鞄を仕事机の上に乗せると、手足として使っている学生たちも、背負ってきた公判記録の板を、部屋の中央の作業机に並べはじめる。

 彼らには、この公判記録を清書して資料としてまとめる作業が待っていた。


 「ふう」

 「ロジェ先生。お疲れ様です」


 息を吐いたロジェストに、マールが水の入った器を差し出す。


 「ああ、すまない」

 

 器に満たされた水を一気に飲み干すと、疲れがほんの少し洗い流されてゆく。


 「今日の弁護はお見事でした。先生の弁論に委員会は全く反論できませんでした。勉強になります」

 「そうだな・・・」


 称賛の声に、ロジェストは浮かない表情を浮かべる。

 その表情からマールは不穏な気配を感じた。


 「・・・先生。何かご懸念でも」

 「いや、懸念というほどの事ではない。ないのだが」


 マールの疑念を払拭するようにロジェストは手を振るが、声に力がない。


 「なんでしょう」

 「些細なことだ。いや・・・些細ではないか。マール。君は今日の公判をどう感じたかね」

 「それは、先生の弁論が冴えわたり、委員会側はたじたじといった様相でしたね。傍聴に集まった人たちも大きな感銘を受けておりました。私もその一人です」

 「委員会の腰が引けたのは、私の弁舌の所為だけではない。それが何かわかるかね」

 「先生の弁舌以外ですか」

 「そうだ、その力に委員会は腰砕けになったのだ」


 ロジェストの問いかけにマールは考え込む。


 「ああ、なるほど。今日は特に人が集まりました。先生に同意する野次もたくさん飛んでいましたね。聴衆の多くが私たちに、いや、マリエンヌ様に味方してくれているようです」

 「王都の民の同情が集まっていることに間違いはない。その傾向は初めからあったが、今日は格別だった」

 「はい。でも、怒号のような野次もありましたね。裁判長が何度も注意して、ちょっと異様な光景でした。自分はあのような裁判の経験がありませんので、少し怖かったです」

 「私も初めてだ」

 「そうなのですか」

 「ああ、恐怖を感じたことまで、同じだよ」


 マールの顔に驚きの色が広がった。


 「公判で野次が飛ぶことは珍しくはない。だが、声にならない野次を感じたのは初めてのことだ」

 「声にならない・・・ですか」

 「君は感じなかったかね。何かが背中に重くのしかかってくるような感触を」

 「それは自分も少し感じました。何と言えばいいのでしょうか。多くの人が発する熱気というか、川へと流れ込んだ大量の水が音もなく流れていると言えばいいのか、そんな感じでした」

 「面白いたとえをする。君は意外に詩人だな。私には荒れ狂う春先の風に感じた」

 「春の嵐ですか」

 「ああ」

 「と、なれば、風向きが変わったということですね。今までは我々にとって逆風でしたけど、ついに我々の背中から風が」

 「そうだな。風向きは変わった。勝利は間近だ」

 「よし」


 マールは両頬を叩き気合を入れた。


 「みんな。先生がおっしゃるには勝訴は間違いないとのことだ。だが、油断はできない。ここで一気に畳みかけるぞ」


 作業机に板を並べる仲間たちに檄を飛ばすと、カレイが笑いながら答えた。


 「やる気十分だね。そんな君には、一番ややこしい箇所の清書を任せた」

 「望むところさ」


 腕をまくり席に着いたマールの前に、大量の板が積み上げられていく。

 

 「おいおい。いくら何でも多すぎるぞ」

 「平気平気。今のマールなら夜が明ける前には終わるよ」

 「僕、一人にやらせるつもりか」

 「だって今日の公判は、頭からお尻までややこしいところばっかりだったからね」


 長屋に若者たちの笑い声が広がった。

 学生たちのやり取りに、笑みがこぼれたロジェストも、自分の鞄から資料を取り出し検証の準備を始める。


 「ロジェスト先生」


 席に着いたロジェストに、エリックの従者のマリウスが近寄る。


 「なにか」

 「追加の資金が到着いたしましたので、お渡しいたします」


 机の上に置かれた袋の口を開くと、数枚の金貨が姿を現した。


 「私の裁量で使っていいのだな」

 「はい。エリック様がメルキアで集めた資金の一部です」

 

 自信に満ちたその声からは、この後も追加資金が送られてくる予感が漂っている。


 「ありがたい。私の知人のディクタトーレから、本件へ参加したいとの打診を受けている。それに使わせてもらおう」

 「承りました。エリック様にはそのようにお伝えいたします」

 「頼む。いや、ディクタトーレを増やす話は、案の一つで止まっていたか。実際に増やすとなると、エリカ殿の許可をもらわないといかん。今、彼女はどちらにおられる」


 ロジェストは席から立ち上がる。


 「ただいまエリカ様は、中庭で来客の方と懇談中です」

 「そうか、では、後にするか」


 腰を下ろそうとするロジェストにマリウスが答える。


 「終わられたかどうか、確かめてまいります。しばしお待ちを」

 「ああ、頼む」


 颯爽と身をひるがえしたマリウスが確認を取ると、懇談は終了したとのことだった。



 マリウスに先導され、アスティー家の回廊を進むと、向かい側から奇抜な色遣いと奇妙な格好をした一団とすれ違った。

 道を譲り、一団に対して簡単な会釈をする。

 すれ違った一団の後姿を目で追うロジェストに対して、マリウスが彼らの正体を語る。


 「あちらは、王都の芝居小屋の座長の方々です。先日の音楽祭で随分と稼いだらしく、そのお礼を兼ねてエリカ様に挨拶に来られたようです」

 「音楽祭・・・」

 「確か先生は、お出でにならなかったのですよね。音楽祭」

 「ああ・・・あの手の催しは少々苦手でね」

 「そうでしたか。私はエリカ様の警護役として参加いたしましたが、それはもう大盛況でした。あの方々にとってはエリカ様は、幸運の女神なのでしょうね」

 「違いない」

 

 座長たちを見送った二人は、中庭へと足を踏み入れる。

 一族の者だけが立ち入りを許される区画を進むと、周りを小さな池に囲まれた石造りの東屋が現れる。

 そこからは、聞きなじみのない歌声と音色が流れてきた。

 誰かが音楽を奏でているらしい。

 池の縁にたどり着くと、音楽が鳴りやんだ。


 「はい。おしまい。お粗末様でした」


 エリカの声が、東屋から降ってきた。

 どうやら彼女が奏でていたらしい。


 「エリカは歌も得意なんだな。家では鼻歌ぐらいしか聞いたことがなかったが。いや、変な歌なら歌っていたか。あれとは違って今回はよかったぞ」

 「変な歌とはご挨拶ね」

 「お見事です。エリカ。わたくし、とても感銘を受けました」

 「ありがとう。セシリー」

 「初めて耳にした音色だ。これがエリカの国の音楽ですか。音色に魔力の波動が混じっているとは。面白い。実に面白いですよ。エリカ」

 「えっ、そうなの。自分ではわかんない」

 「エリカ様。もう一曲。もう一曲お願いします」


 エリック。セシリア。コルネリア。そしてユリア。

 エリカを取り巻く、首脳陣たちの声が聞こえる。


 「だぁめ。今ので最後って言ったでしょう」

 「お願いします。高等神聖語の声楽なんて、滅多と聞けません。いえ。教皇様でもお聞きになられたことがあるかどうか。あと一曲だけ。最初に歌われた歌でいいですから」

 「人前で歌うのって、結構恥ずかしいんだからね。カラオケでいい気分になるのとは違うんだから」

 「からおけ? それも歌ですか。では、からおけでお願いします」

 「違う。おしまいったら、おしまい」

 「そんな」  



 しばらく待っていたが、会話が終わりそうにないので、マリウスが咳払いをした。

 途端に皆の視線がこちらに集まる。


 「エリカ様。ロジェスト先生がお見えです」


 その声に、中心に座っていたエリカが勢い良く立ち上がった。


 「ロジェ先生。お疲れ様です。どうでしたか」

 「ご心配なく。すべて順調です」


 東屋に進み、エリカの隣に腰かける。

 彼女の周りには、多くの楽器が転がっていた。


 「流石ですね。あっ、そうだ。今しがた芝居小屋の座長たちがみえられて、お礼に楽器と上納金をもらったんですよ。良かったら使ってください」


 エリカは楽器の間に転がっていた袋をつかみ上げると、ロジェストの前に差し出す。

 受け取った袋は重く、中には大量の銀貨が詰め込まれていた。


 「よろしいので」

 「はい。最終の追い込みに使ってください。エリックのおかげでメルキアからも資金が到着していますし、王都の人からも寄付が来てます。どんどん使ってください。お金に糸目はつけません。一回言ってみたかったんですよね。これ」

 「それはそれは」


 どう答えていいのかわからずにいると、コルネリアが口を開く。


 「その台詞は、北部戦役の折にも聞きましたが」

 「あれ。そうだったっけ」


 すっとぼけるエリカに、コルネリアの目が細くなる。


 「もう忘れたのですか。商会を通して、あるだけの兵糧をかき集めたではないか。その時です」

 「そう言えばそうだった。ありったけ集めたんだった。その兵糧もジュリエットへのお礼として役に立ったからね。今回も同じように押し切るわよ」

 「好きにしなさい」

 「と、いうわけでお願いします。ロジェ先生。恐怖の連座制度拡大解釈路線でやっちゃってください」


 頬を上気させたエリカを正面に見据えたときに明確に感じ取った。


 風向きが変わったわけではない。

 この女が無理やりに、強引に、容赦なく、完膚なきまでに風向きを変えたのだ。

 彼女自身の意思の力で。

 やはり恐ろしい(ひと)だ 


 ロジェストは、圧倒され息を呑んだ。



              続く

 

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― 新着の感想 ―
[一言] この手法に目を付けた大商人や貴族がパトロンとなって、吟遊詩人ギルドをぶち上げたりして… 後のマスメディアである 別に歌じゃなくても、金を握らせた奴が酒場なんかで「ここだけの話なんだが…」と…
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