生簀の魚
国境の砦群を突破した討伐軍は、メルキアの主要都市トレバンを目指し、森林と畑が点在する丘陵地帯を行軍する。
物見の情報によるとメルキア軍は、トレバンの近くを流れる川の傍に、堅固な陣営地を築いているとのことであった。
最終決戦は、その川を挟んでの攻防となるであろう。
討伐軍総司令官ローゼン伯を含め、討伐軍首脳部の予測は一致していた。
しかし、そうは考えない男がメルキアにはいた。
まとわりつく熱気を切り裂く雨の中、討伐軍が小さな林を抜ける小道に差し掛かった頃である。
兜をかぶっただけの軽装備の男たちが、突如として木々の合間より飛び出し、メルキア討伐軍の隊列に向かって襲い掛かった。
決戦の地はトレバンと考えていた討伐軍は不意を突かれ、数、装備で勝っているにもかかわらず、ヘシオドス軍の攻撃に対応できない。
隊列の各所で混乱が起き、討伐軍の兵たちは右往左往するだけであった。
その乱れた隊列に向かって、今度は重装備の騎兵隊が現れた。
騎兵隊の先頭に、群青のパルサーを肩から掛けた武人が馬を立てる。
ヘシオドス伯の弟で、兄に代わりメルキアを預かっているバルザック・ヘシオドス・クールラントその人である。
バルザックは、馬上から戦況を一瞥すると、雨音に負けじと号令をかけた。
「全軍。突撃せよ」
右手にかざした長剣を振り下ろし、馬の腹を蹴った。
左右から、地響きのような喊声が沸き上がると、人と馬と鉄の塊が討伐軍に向かってなだれ込む。
軽歩兵からの襲撃の対応だけで手一杯の討伐軍にとって、メルキアの騎兵隊の突撃は、戦況を決定付ける一撃として穿たれた。
討伐軍は瞬く間に潰走に移る。
「討伐軍が逃げます。追撃を」
部隊指揮官らしき騎士を切り捨てたバルザックの元に側近が馬を寄せ、血走った目を向ける。
戦果を確定するのは戦闘ではなく、その後の追撃戦にあることは、武人であれば常識である。
だが、奇襲を成功させたバルザックは、興奮とは対極に位置していた。
「無用だ」
「お言葉ですが、ここで叩けるだけ叩いておくべきです」
尚も食い下がる側近に、命令を下す。
「くどい。放棄された糧食は地面にぶちまけろ。計画通り、雨が上がる前に撤退する。急げ」
「はっ」
バルザックの強い視線を受けた側近は、命令を伝達するために馬を走らせた。
「蛮族相手の戦ではないのだ。勝てばよいというものではない」
ヘシオドス家としては、所領を蹂躙する討伐軍に手心を加える必要はないが、討伐令を出した王との対立を、決定的なものとするわけにはいかない。
討伐軍に一撃を与え、厭戦気分を蔓延させたのちに、和睦に持ち込むのが理想である。
同じ貴族のローゼン伯の面目はつぶしても、この際、致し方ないが、主君である王家の面目までつぶしては、この国で生きていけない。
敗北は避けねばならないが、同時に快勝も避けねばならない。討伐軍を完全に駆逐すると、王家も引っ込みがつかなくなる。
それだけは避けなくてはならない。
一族の存亡をかけた戦いになるかは、その後の相手の出方次第である。
今回の討伐軍の格と規模からすると、ヘシオドス家を滅亡させるのではなく、懲罰的な意味合いが強いと踏んでいる。
ならば、程よい勝利を梃に、形だけの詫びを入れ、王家と和解する。このような、微妙な駆け引きが求められているのだ。
そのほかの理由としては、手持ちの兵が足りないことも大きな要因だ。
メルキアの主力軍は討伐軍の目を欺く囮として、トレバン近郊に展開している。
砦の攻防戦でも少なくない損害を受けており、敗走した兵は再編成しないと使い物にはならない。
バルザックが奇襲作戦に動員した手勢は、騎兵隊を含めても千名前後であった。
奇襲部隊はバルザック子飼いの最精鋭ではあるが、この数では追撃戦を仕掛けても、どこかの段階で態勢を立て直すであろう討伐軍に、逆襲されかねない。
それよりも、一度勝ったという事実こそが、今後の展開の役に立つのだ。
ヘシオドスの奇襲部隊は、雨が上がる前に、トレバンに向けて安全に後退した。
そして、バルザックの目論見は当たる。
一時的とはいえ敗走したローゼン伯は、態勢を立て直したものの、トレバンの街に近づくことができなくなった。
レキテーヌ侯爵ユスティニアヌスは、この報せを王都の屋敷で受け取った。
ヘシオドス家の事件が佳境になったと判断しての上洛であった。
「ローゼン伯は攻めあぐねておるようだ」
ユスティニアヌスは夕食後の葡萄酒を器の中で回し、その芳醇な香りを楽しむ。
「ヘシオドスの兵は、メルキアでは強いですからね」
息子のフリードリヒが答える。
「まさに。あの強さを領外でも発揮できれば、ヘシオドス家はもっと威勢を誇れるのだがな。メルキアから一歩でも外に出ると、たちまち普通の兵だ」
メルキア兵の地元での強さと領外での平凡さは、王国の貴族であれば知らぬ者はいない。
「メルキアの地形と天気は独特です。現地で生まれ育ったものに有利かと。特に今の季節は暑くてかないません。熱気が蒸す上に、風は吹かない。日が暮れても一向に涼しくなりません。今頃、ローゼン伯は汗だくでしょう」
フリードリヒが視線を北に向けると、中庭からエンデュミオン特有の、涼しく乾いた夜風が部屋に流れ込んできた。
「さもあらん。ローゼン伯と兵どもには同情を禁じえん。彼の地は冬になると、叩きつけるような風と雪が荒れ狂うしな。ああなると一瞬で道を失う。メルキアに攻め込むのであれば秋しかない」
「王宮の内部で、討伐を急ぐ理由があったように思えます」
「掴めぬか」
「申し訳ございません。推測の域を出ない報せばかりです。今しばし、時をください」
「よい。奴らは息をするように陰謀をたくらむ。簡単には尻尾は出さぬであろうよ」
「この後は、どういたしましょう」
息子の問いかけに、ユスティニアヌスは腕を組む。
「戦局の天秤はヘシオドスに振れたか」
「はい。バルザック殿が強引に動かしました」
「流石は、あのヘルガ殿のご子息といったところか。実にしぶとい。建国以来の名門クールラント一門の面目躍如だ。新参のセンプローズとは、貴族としての年季が違う」
「我らも見習いたいものです」
「焦るなよ。数百年の重みは、数十年程度でひっくり返せるものではない」
「心得ております」
息子の返答に満足する。
「ならよい。今後のことは、お前の手はず通りに進めよ」
「ありがとうございます」
ユスティニアヌスの決断に、フリードリヒは笑顔を浮かべた。
「最も見込みの薄い道が開けるとはな。わからぬものだ」
「バルザック殿の奮戦も、エリカにとって朗報となるでしょう」
「あ奴もヘシオドスに負けてはおらぬか。しぶといことよ」
「元をただせば、あの者の暴走から始まったことでございます」
「暴走は若者の特権だ。我らの掌中に収まるのであれば、だがな」
「放っておくと飛び出しかねません」
「困ったものだ」
ユスティニアヌスは愉快そうに笑った。
「だが、手に負えないぐらいで丁度いいのかもしれぬな。生きが良い魚が旨いのと同じだ」
「エリカは生きの良い魚ですか」
「そうだ。我らセンプローズという生簀から飛び出さぬのであれば、あれの好きに泳がせよ」
「心得ました」
息子の返答に満足すると、ユスティニアヌスは残りの葡萄酒を飲み干した。
続く
本作へのレビューを頂きました。
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