水の跳ねる音
酒場でロジェストと分かれたアランは、報告と進言を行うべく、アスティー家に赴く。
フリードリヒに面会を求めると、夜会に出席しているとの旨を告げられた。
帰りがいつになるか分からないが、事の重大さを思えば、報告を明日に回すわけにはいかない。フリードリヒの帰りを気長に待つことにした。
酔い覚ましに夜風に当たろうと、アスティー家の庭に出る。
エンデュミオンの夏の夜空は、漆黒ではなく濃紺色に染め上げられる。緑の巨星シャンクティーの輝く夜空の下、落ち葉一つ見つけられない庭を散策しながら、アランは先ほどのロジェストが発した言葉を思い返す。
「私はエリカ殿が怖い」
「あの女は古き神を打倒し、新たなる神を目指している」
アランはエリカについて深く知っていると、放言する気はさらさらないが、恐ろしいなどとは感じたことは一度もない。
異邦人ゆえか、行動原理が読めない箇所は多々あるが、その性格の根幹には、育ちの良い子女が持ち合わせている善良さが備わっている。
間違っても神と戦い、それに取って代わるなどという、大それた存在ではなかった。
ロジェストはエリカのどこに、その様な異形の姿を見たのか。
興奮した酔っぱらいの戯言として、深く考えずに聞き流すべきなのかもしれない。
だが、常に自信満々で傲岸不遜を絵にかいたような兄が、誰かが怖いなどと口にしたことは、今までなかったのも確かである。
本人には決して告げることはないが、アランはロジェストの見識を高く評価している。
だからこそ、この裁判に推薦したのだ。
その兄の見立てだ。勘違いとも考え難い。
アランは碌に前も見ずに、思考の迷路を彷徨いながら庭をそぞろ歩く。
どこをどう歩いたか定かではないが、いつしか庭の最深部にまで足を踏み入れていた。元来そこは、アスティー家の者しか立ち入れない場所であった。
近くで水が跳ねる音がして、意識が視界に振り向けられた。
音のする方に目をやると、広い池に淡く光る無数の水の輪が飛び交っていた。
それは、一見して魔法と分かる光景であった。
「誰?」
女性の問いかけと共に、宙を舞っていた水の輪が、一斉に池に落ちていく。
多くの魚が跳ねているような音が響き、暗がりの中から、白いローブを纏った金髪の少女が浮き上がる。
「・・・セシリア様」
アランは反射的に一礼した。
「アラン様。どうしてここに」
セシリアの問いかけに、自分が本来足を踏み入れてはならない場所に迷い込んだことを自覚した。
「申し訳ございません。考え事をしておりまして、誤って入り込んでしまいました。ご無礼、平にお許しを、直ちに退散いたします」
立ち入ってはいけない領域を犯してしまった。他の者に見られ、セシリアに言い寄っているなどと言いふらされては、目も当てられない。
自身の失態に焦り踵を返すが、セシリアの問いかけに足が止まる。
「お待ちください。アラン様。別にとがめだてたりは致しません。丁度よかった。伺いたいことがあったのです」
振り返るとセシリアが近寄ってくる。
「どのようなことでしょうか」
水に濡れたセシリアのローブは、魔力を帯びているためか月光の様な光沢を放ち、その光を受けた水が、袖や袂からしたたり落ちていた。
その姿はまるでお伽話に出てくる水の精霊だ。
幻想的な姿に、アランは思わず見とれてしまった。
だが、セシリアの問いかけに、現実世界へと引き戻される。
「アラン様は今日の、マリエンヌ様の裁判をご覧になられたのでしょう」
「はい。全て見ておりました」
「マリエンヌ様はお助けできますか。教えてくださいませ」
「エリカ様がお雇いになられたディクタトーレが、全力を尽くしております。ご心配には及びません」
現実はそうたやすく事が運ばないが、その様な事をお伝えしても憂慮が深くなるだけだ。
「お金はどうですか。足りていますか。わたくしからも兄さまにお願いしているのですが、どうにも首を縦に振ってくれません。わたくしが自由にできるお金は僅か。それも、なぜかエリカは受け取ってくれません」
銀貨一枚でも多く集めたいエリカが、セシリアの援助を断るとは意外であった。
「そうでしたか。しかし、当面の活動資金には問題ありません。先日ニースより、追加の資金が到着いたしました。エリカ様は全財産をこの裁判に傾けておられます。潤沢とまでは言えませんが、暫くは資金不足には陥りません」
「そうでしたか。エリカも頑張っているのですね。わたくしにはとても真似の出来ない事です」
薄い微笑みを浮かべて、セシリアは視線を空に向ける。
アランはその姿を見て、先ほどまで抱いていた疑問をセシリアにぶつけてみたくなった。
「セシリア様。一つよろしいでしょうか」
「はい。なにか」
セシリアは真っ直ぐにアランを見据える。
「セシリア様から見て、エリカ様はどのようなお方でしょうか」
「どのような。そう問われると困りますね。どのような」
唐突な質問にセシリアは視線を外し、左腕を右手に添え、右の掌で口元を押さえながら考え込む。
「まず、わたくしの親友です。エリカもそう思ってくれていると確信できるほどに。エリカとエリックがいなければ、今こうして生きてはいないでしょう。骸を晒し、北の大地の一部となっていました」
その言葉はアランに深くのしかかる。
他意は無いと分かっていても、自分の失態を思い出させる言葉に変わりはないのだから。
「わたくしから見ると、エリカはとても強い人です。此度の難局も、きっと乗り切るでしょう。羨ましいです」
「羨ましい。どのあたりがでしょうか」
意外な感想に理由を尋ねると、セシリアは困ったような笑みを浮かべた。
「口が滑りました。今の言葉、どうぞお忘れください」
「はっ」
気まずい雰囲気が流れそうになるのを止めるためにも、アランはもっとも訊ねたかった質問を口にする。
「セシリア様は、エリカ様を怖いと思われたことはございますか」
「怖い? エリカがですか」
「はい」
「彼女のどこに怖さがあるのでしょうか。明るくて、とてもやさしい人です。エリックの話だと、たまに前触れもなく怒り出して、周りの人たちを困惑させることがあるそうですけど、怖くはないでしょう」
「仰せの通りです。妄言でした。お忘れください」
期待通りの返答で、アランは安堵した。
「なぜ、その様な問いをなされたのでしょうか」
どう話すべきか僅かに悩んだが、正直にありのまま話すことにした。
「私の知人が、エリカ様を怖い人だと申しておりました。ですから、エリカ様と親しい間柄のセシリア様はどのようにお感じになられているのかと思いまして、不躾にもお尋ねいたしました」
「わたくしは怖いとは思いません。アラン様はどうなのですか」
「私も同じ思いです。では、私はこれにて失礼いたします。修練中にご無礼致しました」
アランは騎士の作法に乗っ取り優雅に一礼すると、セシリアも膝を折り、貴族の礼で返した。
「はい。ごきげんよう。アラン様。エリカを支えてあげて下さいまし」
「はっ、微力を尽くします」
再度の会釈と共に、アランはセシリアの前から退いた。
その後姿が見えなくなると、セシリアは誰にも聞こえないように呟く。
「怖くはありません。怖くはないれけど、エリカはわたくしが欲しいものを、すべて持っている。それが本当に羨ましい」
その言葉に呼応するかのように、池の水が静かにさざ波を立てるのであった。
アランが庭から戻ると、屋敷の中が騒がしい。どうやらフリードリヒが夜会から戻ってきたようだ。
取次の者に声を掛け、フリードリヒの御前に畏まる。
「待たせてしまったようだな。で、どうであった。初公判は」
フリードリヒは、豪華な夜会服を脱ぎ捨てる。
「はっ、初公判はつつがなく進行いたしました。特に問題はございません。双方が立場を表明しただけで終わりました」
「まだ、始まったばかりか。動くとすれば次からだな」
「はい」
「此度の裁判、貴族だけではなく、市井の者どもの関心も高いと聞く。ロジェストには良い舞台であるな」
「そのことで、お耳に入れたいことがございまして」
「どうした。金なら出さんぞ」
フリードリヒは愉快そうに笑う。
夜会に出たという割には、受け答えが機敏であることに、アランは違和感を覚える。
どう見てもフリードリヒは酒を飲んでいない。夜会に招待されて、酒を嗜まないなどということがあろうか。
アランはそこに別の匂いをかぎ取ったが、おくびにも出さず、ロジェストの拡大解釈について説明した。
説明を聞きながら、フリードリヒは豪華な長椅子に寝転がり足を組んだ。
「ほう。それは思い切りの良い手だ。無謀とも呼べるが」
天井を見つめながらフリードリヒは答える。
「連座制の拡大解釈など、何処に火の粉が飛び移るか分かりません。周り回って我が一門に降りかかることもあり得ます。ロジェストには、止めるようにご命じになられてはいかがでしょう」
アランの進言に、フリードリヒは暫し無言であった。
主を説得しようとアランは言葉を重ねる。
「連座させられると知ったペリューニュ子爵様が、エリカ様を害することも考えられるかと。無論、私が身命にかけて阻止いたしますが、絶対ではございません」
一度呼吸を整えて、結論を述べた。
「このような無益な争いから、エリカ様を引きはがすべきではないでしょうか」
長椅子に横たわったままのフリードリヒが、僅かに頷く。
「お前の言い分はもっともだ。ペリューニュ子爵は荒っぽいお方ではないが、一族の存亡がかかっているとなると別であろう」
「はい」
「ふむ。これは困った。エリカを害されては困る。私はあれを気に入っているのだからな」
「魔法使いは貴重です。ましてや光の魔法の使い手となると尚更かと」
「我が一門にはエリカ以外におらんからな」
「はい。アルカディーナを害されたとなると、教会にも申し開きが出来ません」
「教皇様のお膝元でアルカディーナが害されるか。あってはならんことだ」
フリードリヒの力強い返答に、アランは進言が受け入れられそうだと安堵するのであった。
続く




