闇を照らす一筋の光
私は湿気た暗闇の中にいる。
頭上の小さな窓からは夏の日差しが、壁に当たってはいるが、私にまでは届かない。
私は暗闇の中で目を閉じている。
粗末な寝具の間を、鼠が走る音が聞こえた。私が食べ残した残飯を漁るのだろう。
鼻が曲がるほどの異臭にも慣れてしまった。
私は歌を歌う。小さな声で。
覚えている限りの歌を。
それが、この牢獄から逃れる唯一の方法。
歌を止めると、鼠の鳴き声と、どこか遠くから響いてくる誰かの悲鳴が、私の心を恐怖で支配する。
私は歌を歌う。覚えている限りの歌を。
小さな声で。日の光が差し込まぬ暗闇の中で。
神々の恩寵も、暗く深い地の底にまでは届かない。
私は、マリエンヌ・ヘシオドス・クールラント。
歌を歌うことしかできない、謀反人の娘。
それは、前触れなく、春雷の様に鳴り響く。
悪夢が突如として襲い掛かり、わが家を飲み込んだ。
けたたましい音と共に自室の扉が開かれる。入ってきたのは長年、傍で仕えてくれているラナ。その顔は青ざめていた。
悪夢に飲み込まれた時。私はツユクサの咲く季節に行われる婚儀の準備をしていた。
私の婚儀。
「お逃げ下さい。お嬢様」
それが、私が最後に聞いたラナの声。
訳も分からず、護衛のセオドアに手を引かれて下屋敷を抜け出す。
「上屋敷にて御当主様とお兄様が捕縛されました。謀反の疑いです」
「謀反。どうして」
どうしてそんな事に。
「ともかく、落ち着くまでは身をお隠しください」
「どこへ」
「ひとまずタナトス家へ」
「わかりました」
タナトス家は我が家と古い付き合いのある家。長女リリーナとは友人でもあった。
だが、今にして思えば、私達が目指すべきはタナトス家ではなく、城門であった。城門をくぐれば生きる道もあったやも知れぬ。
危機に際しては、古き友情も儚くもろい。
それをこの目で見た。
庇護を求めた私たちに、タナトス家は剣でもって応える。私の目の前でセオドアは、タナトス家の家臣に斬られた。
そこから、どう逃げたかは覚えていない。
足を踏み入れたことのない、下町に身を潜ませた。貴族の衣装を売り払い、空腹を満たすために屑を漁った。
いっそのこと、ひと思いにこの命を絶てばよかった。
王都を流れる川に、この身を投げればよかった。
私にはそんな度胸も覚悟もない。
貴族の誇りも守れず、庶民の様にも生きられない。何もできない存在。
私は幻を見た。
悪夢の中にも救いがあることを知った。
どこかの娘に助けられた気がした。
黒髪に黒い瞳の、不思議な顔立ちをした娘だった。
幻であるのに、娘の名は鮮やかに耳に残っている。
「クボヅカ・エリカ」
彼女はそう名乗った。
異国の名。
私はアルカディーナの称号を持つという彼女の為に手紙を書いた。
不思議な手紙だった。
あて先は、故郷で暮らす殿方に向けてであったが、年頃の娘が殿方に出す手紙ではなかった。全ての形式を無視したかのように、自由で、乱雑で、親し気で、楽しい手紙であった。
エリカは私が書いた手紙を褒めると、こう尋ねた。田舎暮らしは平気かと。
私は平気と答えた。
私が生まれ育ったのは、丘と葡萄畑が連なるメルキア。その地が私の故郷。
エリカは私に王都を離れて共に暮らさないかと誘ってくれた。何処にも行き場のない私は礼を述べた。
嬉しかった。戯れでも、嘘でも、幻でも嬉しかった。
そして、幻は終わりの時を迎える。
私は組み伏せられ、この暗い牢獄に閉じ込められた。
幻の終わりにエリカが何かを伝えようとしていたが、もはや覚えていない。
心の弱い私が見た、ひと時の夢。
それが異国人の形を借りて顕現した。
私はこの暗い牢獄の中で、ただ死を待っている。
牢獄に入れられ、一つだけ賢くなった。
それは、牢獄の石壁に刻まれた文字を見つけた時。
私よりも前の住人が記したものだ。
「看守の言葉を信じるな。彼らは貴方に向かって希望を持つような事を語るだろう。しかし、信じてはいけない。彼らは我々の心をもてあそんでいるのだ。僅かな希望を与え、そして奪う。貴方が人としての誇りを保ちたいのであれば、彼らに向かって傲然と名誉を持って相対せねばならない」
私は先の住人の忠告を聞き入れることにした。
看守たちに視線を送らず、返答もしなかった。忠告主の言うように、看守たちは私に優し気な言葉を掛ける。
「きっと恩赦が降りるだろう」
「もっと快適な部屋に移されるだろう」
「助命に動いている者がいるだろう」
「罰金だけで釈放されるだろう」
甘言の雨。
私は心を動かさず、無関心を貫いた。
恩赦は下りず、部屋は今以上に悪くなり、全ての人から見捨てられる。
それが、私の運命。そう考えることにした。
挫けそうになると、顔も名前も知らない誰かの言葉を読み返す。
十人委員会からの尋問でも、憐れみを求めたり、泣き叫んだりもせず、知らないことは知らないと答え、嘘もつかなかった。
ただ、傲然と名誉を持って相対した。
私はうまくやっただろう。だから看守たちは、そんな私に苛立ったようだ。
わざと、私に聞こえる様に拷問の様子を話したり、処刑の手順について語りだす。
私は恐ろしくなり、今度は耳を塞ぎたい衝動と戦わねばならなかった。
だが、耳を塞ぐわけにはいかない。塞げば看守たちが喜ぶだけ。
無関心のみが唯一の正解。
だが、私は物言わぬ彫像ではない。気を紛らわす何かを欲した。
そんな私は、何かの拍子に、子供のころ聞いた歌を口ずさんでいた。
心が少しだけ軽くなった気がした。
だから私は歌う。
恐ろしい言葉が聞こえない様に、私に聞かせるために、私に勇気を持たせるために、私を励ますために歌う。
小さな声で、知りうる限りの歌を歌う。
きっと最期の時にも歌うだろう。
歌だけが私の最後の友達。
捕らえられて何日たっただろうか、十日、二十日、それ以上か。もうわからない。
看守に連れられ、一人の男が私の牢獄に入って来た。
男は私が放つ悪臭に、鼻を押さえようとしてやめた。
「初めまして。マリエンヌ様。私はロジェスト・アンヴァーと申します。この度、マリエンヌ様のディクタトーレを仰せつかりました」
「・・・ディクタトーレ」
裁きの場で、咎人の味方をしてくれる者の名称だったか。
私はこの男の来訪を、看守たちからの新手の嫌がらせだと判断した。
よくも、色々と思いつくもの。
「弁護をお引き受けする前に、一つだけお伺いしなければなりません。貴方は此度の陰謀について何かご存じですか」
同じような質問は何度目だろう。
暗がりで良く分からないが、若い男のようだ。
返答しなくてもいいのだが、答えなければ、彼はいつまでもこの場に立ち尽くすことになる。
それは少し可哀そうに思える。
「知らぬ」
「ありがとうございます。これで何の問題もありません。貴方の弁護が可能となりました。心安らかにお過ごしください」
私の返答に、ディクタトーレを名乗った男は、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべて礼をいう。
その態度に苛立ちを覚えた。
「だれの指図です」
「誰とは、依頼主の事ですね」
私は頷く。
ヘシオドス家の者は自分の身を守る事で精一杯。助けなど来ない。いったい誰の名を出すのだろうか。意地の悪い想いが首をもたげた。
「エリカ・クボヅカ様です。あの方に雇われております。捕縛の際にご一緒していたそうですね」
男は予想外の名前を出した。その名は想像していなかった。
私は再び幻を見ているのだろうか。
この牢獄という暗闇の中では、何が幻か現実かすべてがあやふや。
「エリカ様から、こちらを預かってきております」
男は懐から袋を取り出し、私の手に握らせた。
それは、ずっしりとした重さがあり、食べ物の匂いがする。
「・・・これは」
「エリカ様がお作りになられた砂糖菓子です。しっかりと焼いてあるので日持ちするそうです」
「砂糖菓子・・・」
その言葉にめまいを覚えるが、両足に力を入れて踏みとどまる。
「それからエリカ様よりご伝言がございます」
「伝言・・・」
「本来であればお手紙でお渡しすべきなのですが、この袋の持ち込みだけで、賄賂が尽きてしまいました。ですので口頭で述べさせていただきます。申し訳ありません」
男は咳ばらいを一つした。
「安心してください。なんとか本職のディクタトーレを雇ったからね。裁判の準備も進んでいます。絶対無実を勝ち取って見せるから。なんとしても釈放して見せる。貴方が故郷に帰れるように頑張る。もし、行く所が無かったらニースに行きましょう。きっと気に入ると思います。誰が何と言おうと、私は貴方の味方よ。エリカ・クボヅカ・・・以上になります」
「フッ、フフフフ」
私は乾いた笑いが零れることを止められなかった。
「手の込んだ嫌がらせを。ご苦労なこと」
「嫌がらせではありませんよ」
「ではなんです。遂に私は錯乱したの。其方も私が作り出した幻か」
「違います。錯乱しているようにもお見受けしません。それに・・・」
「それに、なんです」
「嫌がらせで砂糖菓子は持ち込まんでしょう」
男は私が手にした袋を指し示す。
「言っちゃなんですが、高いですよ。それ」
私は袋の口を開く。中には固焼きしたパンのような食べ物が、たくさん入っていた。
「では、これからも様子を伺いに参上いたします。裁判に関してはお任せください。私は一流のディクタトーレですから、必ずや貴方様を牢獄から連れ出して見せましょう」
男は一礼して牢獄から出ていった。
私は袋を片手に、呆然と立ち尽くしたまま。
何も考えられない。
香ばしい匂いに誘われ、袋の中身を取り出し口に含んだ。
頭を殴られたような衝撃が走り、それまでぼやけていた視界と意志がはっきりしてきた。
そして、あの時のエリカの言葉が脳裏に蘇る。
「分かったわ。マリエンヌ。私では今の貴方を助けることはできない・・・」
そう、彼女には何もできないだろう。
「でもね。何も悪い事をしていないのなら、私は貴方の味方よ」
今、はっきりと思い出した
これは夢でも幻でもない。
強烈な甘さが、私にそれを教えてくれた。
そして、顔が熱く、眩しい。
私は目を細めた。
天井近くに開いている窓から、光が降り注いでいることに驚いた。
こんな牢獄にも光は差し込むのかと。
私は砂糖菓子を頬張りながら、この牢獄に入れられて初めて泣いた。
悲しいのか嬉しいのか、それすらも分からず泣いた。
希望は残酷であると誰かが言っていた。その言葉は本当であった。
私は希望を手にしてしまった。
私を助けようとしてくれる人がいると、ここから出られるかもしれないと、故郷に帰れるかもしれないと、そんな希望を。
私は負けてしまった。
傲然と名誉を保つ人間ではなくなってしまった。
だが、なぜだろう。
今、私は幸福だ。
一筋の光を浴びて、私は幸福だ。
続く




