お金がない
王都エンデュミオンの中心地、エンデ・アリディオンの傍には、王国が世界に誇る巨大図書館。エンデュミオン王立図書館が存在する。
五代前のティメジテウス大王の御代に建設され、以後、その規模と蔵書を増やし続けていた。
王立図書館は、幾ばくかの手数料を払い、許可書を発行してもらえれば、奴隷でない限り誰でも自由に、蔵書の閲覧が許されていた。
日本の図書館との違いは、借りて帰ることができないだけだ。
利用者は、図書館にしつらえられた読書室か、写本室、中庭などで思い思いに書物を広げる。
そんな図書館の、南向きの回廊越しに設置された写本室で、四人の女性が一つの机を囲んでいた。
女たちは、様々な書物を書き写しているようだ。
「はぁ。思ったより大変よね」
江莉香は、深いため息と共に机にうつ伏せになる。
「お行儀が悪いですよ。エリカ」
「寝るのなら屋敷に戻ってから寝なさい」
机の向かい側のセシリアとコルネリアが嗜める。
「ごめんなさい」
謝る割には、頬を机に乗せたままだ。
「もう少しです。頑張りましょう」
隣の席のユリアが元気づけてくれるので、嫌々ながらも体を起こし、高価な金属製のペンを握り直す。
本職のディクタトーレであるロジェ先生を雇ったからといって、江莉香のすることが無くなった訳ではなかった。
むしろ、ここからが本番とばかりに忙しくなる。
原因は、これからの領地経営の為にも、王国の法律の勉強が必須だと気が付いたためだ。
その為にコルネリアの実弟マールが学んでいるお師匠様に入門し、円卓で行われる裁判を傍聴することにしたが、それだけでは足りそうにない。
更にセシリアの勧めで王立図書館で、法律関係の書物を片っ端から読むことにしたのだった。
これは良い方法ではあったのだが、すぐに大きな問題が立ちはだかった。
「こんなにぎょうさん。覚えきれへんわ」
王国には所謂、成文法と呼ばれるような明白な法体系はなく、前例とその時々の状況や情勢で変化する、慣例法により裁判が行われていた。故に同じような裁判のケースでも、量刑が全然違うことも珍しくないのだ。
困った江莉香は、取りあえず法律関係の書物を全部写し取ることにした。
「覚えられないのなら、写してしまえばいいじゃない」
エリックに話すときも、記憶をたどるよりも、実物があった方が確実で便利だ。
幸い、著作権やら商標権やらが未発達のこの世界。いくらコピーしても誰にも怒られず、どこかの怖いダース・ミッキーに訴えられる心配もなかった
初めは、ユリアと二人で写していたのだが、話を聞きつけたセシリアとコルネリアが、協力を申し出てくれた。
こうして最近の江莉香は、円卓で裁判を傍聴しながら講義を受けるか、王立図書館で写本をしているかのどちらかであった。
この発想は更に妙案ではあったが、別の問題も引き起こした。
「ううっ、腕と指がつりそう」
江莉香はしびれた腕をさする。
こんなに文字を書き連ねたのはいつ以来だろう。まだ、指と腕が付いてこない。
「そうですか?」
「普段から文字は書きなれているでしょう」
セシリアは首を傾げ、コルネリアは顔も上げずに文字を書き連ねていく。
「だって帳簿を付けるのとは、手間ひまが違うもん。全然進まない。もっとこう、パパッと写せないかな」
どうして、こっちの世界にはPCとofficeソフトが無いんだろう。作業が遅々として進まない。
それさえあれば、どんなに遅くとも三倍のスピードで書き写せるのに。いや、十倍かも知れない。こう見えてもブラインドタッチで打ち込めるんだから。
「素早く書き写しても、写しに間違いがあれば意味はない」
「そうですよ。書き終えた後で間違いに気が付くぐらいなら、ゆっくりでも確実に書き写すべきです」
泣き言をいうと、反論のしようのない指摘が飛んできた。
「そんな正論、聞きたくないよぅ。ううっ、誰か活版印刷術を開発して。出資はするから」
「何ですかそれは」
今日もユリアの日本語センサーは敏感だ。
「大量に写本を作る方法」
「そんな方法があるのですか」
「ある。実現の難易度がメチャ高いけどね。機械工学とか金属加工とか、色々やった末にたどり着ける」
「そうなのですか」
「うん」
江莉香はペン先をインクに浸して、写本の続きに取り掛かる。
今、写しているのは、貴族の離婚調停にまつわる記述だ。結構、えぐい事が書いてある。
写しにくいなぁ。でも、ちょっと面白い。
「しかし、そんな方法があると、私は困ります」
「どうしてよ。楽でいいでしょ。たくさん作れるし」
この世界では、書物はまだまだ高価な代物だ。
全ての書物が手書きの上に、紙もなく、薄く剥いだ木の板や、動物の皮、布地で書物が作られているからだ。
活版印刷術が登場すれば、書物の価格は一気に下がるだろう。
そもそも、こうして写本に勤しんでいるのは、書店で販売されている本が、高くて手が出ないためだ。
「私達修道女は、写本が生活の糧の一つです。簡単に写本が作れるようになると、お仕事がなくなってしまいます。困ります」
「なるほど。言われてみたらそうよね」
「マールも困りますね。あの子も写本で生活費を稼いでいますから。この部屋にいる者の大半も、その様な職についている者たちですよ」
コルネリアが顔を上げて辺りを見渡す。
整然と並べられた机では、多くの人たちが、せっせと写本を作っている。
「そっか。写本が一つの産業なのか」
「家業にしている者も少なくない」
「そうなんだ」
紙はともかく、活版印刷術が確立されちゃうと、多くの人が職を失うのか。
魔導士の書は便利だけど、この世界に激震を走らせる力を持っている。扱いは慎重にしないとね。
ああ、だから魔導士の書は、こっちの人が簡単に読めない様に、小難しい漢字を羅列した日本語で書かれているのかもしれない。私でも内容を理解するのに、ちょっと考える時がある。こっちの人には解読不能の暗号文だろう。
エリックが魔導士の書が、異端の書物である疑いがあると言っていたけど、ある意味では正解だね。
私だって多くの人を失業させてまで、儲けたい訳ではないから、新規の産業には注意しないと。
気を取り直して、書物を書き写す。
意味が分からないところを訊ねると、三人が寄ってたかって教えてくれた。読解の勉強にもなるから、この作業は有意義だといえる。
女たちの席から少し離れた回廊では、アラン卿が列柱に背を預け、書物を読みながら周りに視線を配っていた。
控えめに評価しても絵になる。
その姿に、通りがかる女たちが熱い視線を送るが、麗しいアランの先で、腕組みして厳しい眼力を周囲に振りまくクロードウィグと目が合い、慌てて視線を外している。
その光景を片目で見ながら、写本に勤しむ。
本来であれば、勉強よりもしなくてはならないことがあるのだが、やりたくても出来ない。
それが金策だ。
何事も、先立つものが無ければ始まらない。
当然の様に、最優先事項であったが、現状では、個人資産を集結させるほかに手立てがなかった。
ギルドに迷惑を掛けない為には、ドーリア商会にも話は持って行けないし、マリエンヌの個人的な知り合いを当たろうにも、誰が知り合いなのかもわからない。
ともかく調べようと行動すると、アランを通じて、フリードリヒからストップがかかった。
理由を訊ねると、恐ろしい返答が返ってきた。どうやらマリエンヌの実家、メルキアへ討伐軍が派遣されるらしい。
討伐軍って。
まだ、裁判も始まっていないのに、有罪確定で刑を執行するようなものじゃない。
どうなってんの。この世界の司法。
せめて、判決が下りてから討伐でしょうに。
とにかくそんな訳で、ヘシオドス家との関りをことさらアピールする行動は、まかりならんとのお達しの上、完全撤収もほのめかされてしまった。
こうなっては話の持って行きようがない。
何も聞かずに金を出してくれなんて、両親にだって言えやしない。
当然の様に、一門からは銅貨一枚ももらえない。
口出しするなら金も出せといいたいが、そもそも、止められていることを、ゴリ押している身としては、口が裂けても言える立場ではない。
結局、使える資金はニースから送られてくる分を合わせても、金貨にして四十枚あるかないか。
これだけで、この裁判を何とかしなくてはならなかった。
誰にも話していないが、近ごろストレスでお腹が痛くなってきた気がする。
当初は、手持ちだけでしばらくは、なんとかなるだろうと楽観していたが、毎日のように資金が減少していくのだ。
ロジェ先生には、追加の資金の他に、あれを買っておけとか、この品物が必要だとか言われる。
それらを、言われるがままに買っているので、財布がどんどん軽くなっていく。そして悲しい事に王都の物価は高い。ここはシンガポールか。
もしかしたら本当に金貨百五十枚必要なのかな。どうしよう。
いや、今更後には引けない。
途中で止めて後悔するぐらいだったら、全力を出して悔いが無いようにしよう。
「勝利か素寒貧か」
これはそういう勝負なんだ。
いや、勝利しても素寒貧はセットなんだけどね。それであれば、尚更に勝利しなくてはいけない。
だけど早くエミールが追加の資金を持ってきてくれないと、リングに立つ前に素寒貧になっちゃう。
早く来てくれないかな。
続く




