聖アンジュ修道院
トレバンの街を出たエリックは、最後の目的地、聖アンジュ修道院を目指す。
城壁を離れ暫く進むと、城内の不穏さを微塵も感じぬ穏やかな景色だ。
メデス商会の話によると、修道院は街から北西の位置にあるらしい。
石畳の街道を外れ、踏み固めただけの田舎道を進むと、辺りは平地から丘陵地帯へと変わった。
勾配はきつくなり、曲がりくねった道の両側には葡萄畑が広がっていた。
夏の日差しを一杯に浴びた葡萄たちは、秋になるとたわわな実を付けるのだろう。
メルキアは東部が麦畑が広がる盆地、西部は起伏にとんだ丘陵地帯であった。
「帰りはどうする。このまま、西部を抜けていくか」
「はい。戦いが起こるとすれば南部ですから、安全な西部山岳地帯を抜けましょう」
エリックの提案にマリウスは同意する。
戦いが起こるかどうかは分からないが、無理をして騒動に巻き込まれるのは御免だ。
「道は分かるか」
「申し訳ありません。私も西メルキアは初めて訪れますので、詳しくは・・・確かドルン河の支流に抜ける道があったはずです」
マリウスは北部国境を掠める進路を提示した。
「よし、その道で帰ろう」
安全が第一だ。
夏の日差しの中、馬をいたわる様にゆっくりと進んだ。
その頃、バルザックの命を受けたイスマイルは配下を引き連れて、トレバンの街でエリックの姿を追い求める。
奴は立派な緑と白の衣装を身にまとっていた。街を歩いていれば相当目立つはずだ。
暫くの間、街中を捜索するが、エリックの影を捕らえることができなかった。
「イスマイル様。エリック・シンクレアは既に出立いたしております」
宿を探っていた部下からの報告に舌打ちをする。
「勘のいいやつだ。危険を察知したか。城門へ向かう。奴が街を出ていた場合は厄介だぞ」
「はっ」
自慢の黒馬に跨ると、鞭を当てる。
城門に駆け付けたイスマイルは、厄介な報告を受け取ると、馬上から門衛を問い詰める。
「奴らは、どちらに向かった」
「どちらかまでは・・・」
恐縮する門衛の言葉を最後まで待たず、配下と共に城外に駆け出た。
「おのれ、どちらに逃げた」
視線を左右に彷徨わせる。
奴が密偵だとすると、進路は南だろう。
探り出した情報を討伐軍本隊に届けるに違いない。しかし、南にはヘシオドスの軍勢が展開している。その中を突破することは難しい。
自分が密偵であれば、一度、西か東に抜けてから南を目指す。時は掛かるが危険は少ない。
北はこの時期でも万年雪を頂く山脈地帯。余程の愚か者でもない限り、足を踏み入れはしないだろう。
暫く思案したイスマイルは、エリックが無謀かつ勇敢であった場合に備えて、配下の一人を南に向かわせた。
配下には、参集している軍勢にエリックの捕縛を命ずる指示を与える。
更に、配下を四方に走らせ、目撃情報を探させた。
騎士と従者の二人連れだ。すれ違えば人の記憶に残るだろう。
その間に、長時間の捜索に備えて装備を整えることとした。
追跡の準備が整った頃、配下が戻って来た。
街道にはそれらしき男たちの姿は見えないという。
「奴らも馬鹿ではない。呑気に目立つ街道を進みはしないか」
進むとすれば、人気の少ない間道だ。
イスマイルは腹心を呼び寄せた。
「こうなっては致し方ない。お前は五人ばかり連れて東を探れ。私は西だ。相手が二人と油断するな。何処に奴の仲間が潜んでいるか分からん。捕縛したら、そのままバルザック様に報告せよ」
「はっ」
配下を二つに分け、イスマイル自身は西に向かうこととした。
エリックは、いくつかの小さな村々を抜け、翌日には聖アンジュ修道院の門をたたくことができた。
出てきた修道士に来訪理由を述べると、これまでの訪問先とは明らかに違う対応であった。
聖堂内で暫く待っていると、修道院長自らが奥から駆け出してきた。
ボスケッティ神父のように恰幅のいい初老の男だった。
「マリエンヌ様が捕らえられているとは本当ですか」
挨拶も無しに、院長はエリックに詰め寄った。
「はい。王都で謀反の疑いで捕縛されたとのことです」
「噂は本当であったか」
院長は悔し気に石床を足で踏みつける。
「我等は、マリエンヌ殿を弁護するための費用を集めています。ご助力を頂けまいか」
「なんと。誠ですか。ああ、失礼いたしました。こんな所で立ち話とは。奥へどうぞ」
二人は簡素ながら装飾が施された応接室へ通され、自己紹介をする。
院長はエリックの名前に聞き覚えはないらしく、妙な視線を受けることも無かった。
気分が軽くなったエリックは、院長に事の経緯を語る。
「ああ、おいたわしや」
話が終わると、院長は禿げ上がった頭を抱える。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
今までの誰よりも、マリエンヌ嬢に同情が深い。
「失礼だが、院長殿はマリエンヌ殿とご面識が」
素朴な疑問は、大きな反応を生む。
院長は椅子から腰を浮かして力説を始めた。
「面識も何も、マリエンヌ様は幼き頃、この修道院でお預かりいたしておりました。とても素直で心優しいお子でございました。はい」
「そうでしたか」
「成人なさってからは、滅多とお会いできませんが、季節の折にかけてお手紙を頂いております」
院長は何を思ったのか書棚を漁り、マリエンヌが贈ってくれたという手紙を見せてくれた。
そこには綺麗な文字で王都での暮らしや、院長をいたわる文言が並んでいる。心優しいというのは本当のようだ。
そこから暫く、マリエンヌ嬢の思い出話が始まった。
会ったことも無い女の話を長々とされても、相槌の打ちようもないのだが、これほどまでに同情があるのであれば、期待できるのではないだろうか。
「院長殿。そのマリエンヌ殿の危機です。何卒、ご助力を」
「お任せください。何を惜しむことがあるでしょうか」
胸を叩いた院長ではあったが、エリックが提示した金額に凍り付いた。
「フィリオーネ金貨、ひゃ、百枚・・・」
想像以上の金額を提示され、青ざめる院長にマリウスが慌てて付け加える。
「もちろん。全額出していただきたい訳ではなく、無理なく出せる金額だけで結構でございます」
「無理なく・・・」
「そうです。既に他の家々から金貨十枚の御助力を得ておりますし、院長様一人が背負うことではありません。王都ではアルカディーナ様が私財を提供しています」
「アルカディーナ様が私財を」
院長は目を丸くした。
「はい。既にフィリオーネ金貨にいたしまして、五十枚は提供されています。当座の資金には困らないでしょう。ご安心を」
「なんと、有難い事です」
「だが、それだけでは乗り切れないとのこと。僅かでも構わないので助けてほしいのです」
マリウスとエリックの言葉に、院長は落ち着きを取り戻した。
「分かりました。当院で出来る限りの事は致しましょう」
「ありがとうございます」
はっきりとした金額までは不明だが、それなりの額を出してくれるだろう。
「その。王都でマリエンヌ様を助けて下さっている、アルカディーナ様のお名前を伺っても」
「ああ、これは失礼しました。近頃、聖別されたので、ご存じないかも知れないが、エリカ・クボヅカという名です」
エリックの返答に院長は、ポカンと口を開けた。
「エ、エリカ・クボヅカ・・・」
エリックの名を聞いても反応が無かった院長が、明らかに動揺する。
「まさか、ディクレクト・アルカディーナ・ドルン。北方民の襲来からその身を捧げてドルン河を守り切った。伝説の魔法使い・・・そんなお方が・・・誠でございますか」
院長の言葉に今度はエリックがポカンとする。
この人は何を言っているのか・・・いや、守り切ったことに間違いはないが、伝説の魔法使いとは大げさな。
エリカの功績が大きいことに異存はないが、彼女一人で守ったわけではないぞ。
僅かではあるが反感が首をもたげ、憮然とした返事となる。
「嘘は言っていません」
「ああ、そのようなお方からご助力いただけるとは、まさに神々の恩寵です」
院長は興奮のあまりに、エリックの目の前で聖句を唱えだした。
どうやら、俺だけではなく、エリカの名前もメルキアで独り歩きしているらしい。
困ったものだ。
先の戦役が正しく伝わっているのであれば、文句もないが、こうもお伽話と同じでは、恥ずかしさが先立つ。
まぁ、ひとつ、いい土産話が出来たと思っておこう。
この話を聞かせた時に、エリカがどんな顔をするか楽しみである。
続く
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