ユリアの一日
まだ夜も明けきらぬ暗闇の中、ユリアは粗末な寝床から体を起こした。
長年の習慣で起きる時刻を身体が覚えている。
寝床の下に揃えられた履物に足を入れ、身支度を始める。
身支度と言っても、顔を洗って歯を磨いて髪を整えるだけで、黒に近い灰色の修道服を頭からかぶると、準備は完了した。
日の光がぼんやりと空を照らし出した頃、ニースの教会に住むすべての修道士が集まり、朝のお勤めが始まる。
メッシーナ神父が、神聖語で聖句を読み上げると、皆でそれに続く。
神々と精霊の恩寵に感謝し、昨日までの自らの行いを省みて悔い改める事で、より良い人として新たに生まれ変わるのが、朝のお勤めであった。
祈りが終わると、教会の清掃に移る。
現在、ニースの教会は大規模な建て直しの最中だ。
木くずや、砂、石の破片がそこかしこに散らばっている。それらを集め、取り壊されることとなっている今の礼拝堂を、濡らした布で磨いていく。
清掃が終わるころには日も登り、信心深い村人たちが礼拝堂に集まると、ミサが執り行われる。
ユリアはメッシーナ神父の聖務を傍らで助け、最後に賛美歌を歌う。
これが終わると、ようやく朝食の時間だ。
教会の食事は多くの村人がそうであるように、朝と夕の二食だ。
献立は常に同じで、パンとスープ、ヤギの乳を無言で口にする。修道士の食事風景はどれ程の人数が居ようとも、異様なまでの静けさの中で進む。
物心ついたころから修道院で暮らしていたユリアにとっては当たり前の日常ではあったが、最近は江莉香とビスケットを食べながらお喋りをすることの楽しさを覚えてしまい、物足りなさも覚えるようになった。
朝食が済むと、修道士たちは各々に与えられた聖務に勤しむのだ。
多くの修道士は教会やノルトビーンの畑の世話に向かうが、中には教会建設に携わる修道士もいる。
ユリアは広場を横切り、新しく建てられたギルド本部に向かう。ギルド本部とは言うが、実質的にはニース騎士領の政庁の役割も兼ねている。
ギルド本部は堅牢な石造りの建物で、向かって右手が帳簿などを管理する部屋、左手が砂糖の保管庫になる。
ユリアは中央に開かれた大きな入り口を通り、右の部屋に入った。この部屋が、彼女の奉仕の場であった。
さて、今日も一日頑張りましょう。
「おはようございます。シスター・ユリア」
足元から小さな声の挨拶が沸き上がりました。
視線を下げると、黄金のような波打つ髪を、白の頭巾で覆った少女が、床を磨いていた手を止めて、挨拶をしてくれています。
「おはようございます。ネルヴィア」
挨拶を返すとネルヴィアは、まだ新しいラジック石の床を丁寧に磨いていきます。
ネルヴィアはアルカディーナ様の家臣になったクロードウィグの娘です。北方人の為、正確な年齢が分かりませんが、私よりは年下のはず。
御領主様に奴隷として買われ、それ以来、砂糖作りやお屋敷の家事などをして暮らしています。
まだ、ロンダー王国の言葉は得意ではないので、口数はとても少ないですが、可愛らしい女の子です。
私が何を話しているかは分かるので、意思の疎通にはそれほど困りはしません。
「ネルヴィア。そっち、終わった? 」
机の陰から突然黒い髪が飛び出しました。
「ああ、ユリアいたのね。おはよう」
「おはようございます。エリカ様・・・エリカ様も床磨きを」
以前と変わらぬ女中のような恰好で、アルカディーナ様が床を磨いておられました。
「うん。折角綺麗なんだから、このまま保ちたいわよね。石工の親方の話だと、この石は磨けば磨くほど艶が出るらしいわよ。どうなるか楽しみよね」
「そうなのですか」
「壁とかも磨けたらいいんだけど、流石にそこまでは大変だし、床なら掃除のついでに磨けるでしょ」
何か素晴らしい事を発見でもなさったように、微笑まれる。
「エリカ様。余っている布は何処ですか」
「何? 手伝ってくれるの」
「はい。当然です」
「ありがとう。じゃあ、これを使って」
「お任せください」
アルカディーナ様が差し出された布を受け取り、共に床磨きに励むことに致しました。
ギルド本部の一階は、半分が砂糖の貯蔵庫ですが、それでも帳簿の部屋は広いお部屋です。今後ギルドが大きくなることを見越して、建物を大きくお造りになられたからです。
今の所、アルカディーナ様と私、バルテン様が専用に使う机以外は、新しく雇ったギルド員たち用の共用の大きな机が一つあるだけで、室内はガランとしています。
私のギルドでのお仕事は、オルレアーノに有る砂糖の店の差配です。
砂糖の売り上げや、在庫状況、店で雇う売り子の報酬や、店番の順番などを決め、家主に家賃を支払い、偶にやって来る参事会からの通達に従う。月に一、二度の割合でオルレアーノに向かい、お店の状況を確認して報告します。
ニースでは工房で作られた砂糖の管理を任されています。
ニースで作られた砂糖の行く先は、大きく分けて三種類になります。
オルレアーノの店で売られる分。ドーリア商会が同じ商人相手に売る分。最後が教会の配当です。
教会は、ギルドからの報酬の一部を砂糖で受け取っており、これらはオルレアーノの聖アナーニー司教座教会に納められています。
私は教会に収められた砂糖の行き先までは存じませんが、砂糖をどこかで売っているわけではないでしょうし、ましてや食べることも無いでしょう。
私たち修道士は普段、砂糖など口にいたしません。
あの、大量の砂糖は何処へ向かうのでしょうか。不思議です。
砂糖の貯蔵庫で、次の市の日にオルレアーノへ運ぶ砂糖を確認が終わり、帳簿の部屋へ戻る途中、肩を落とした行商人らしき男の人とすれ違いました。
その人はため息をつきながら、とぼとぼと立ち去って行かれました。
恐らく、ニースに直接砂糖の買い付けに来た商人なのでしょう。
帳簿の部屋の一番奥に、アルカディーナ様が帳簿を確認するためのお席があり、大抵はここで、訪れる商人とのやり取りが行われています。
二階に応接室を設けてはいますが、あの部屋は領主様がお使いになられることが多いのです。領主様にご用事のある方が、優先されます。
「また、買い付けですか」
「うん。気の毒だけど、ここでは砂糖を売らないのよね。毎回説明するのもめんど・・・心苦しいわ」
そう言うとエリカ様は大きなため息をついて、机に肘を突かれる。
あまりお行儀が良いとは言えません。
「ホームページでもあれば、サイトに「ニースでは砂糖の取引はしていません」って書いておけば解決するんだけどな。わざわざ来てもらったのに申し訳ないっていうか、ニースでも販売した方がいいのかな・・・悩みどころなのよね」
肘をついたまま、上目遣いで独り言のように呟き始める。
エリカ様が、独り言を呟かれる時は、私の意識の全ては耳に集中します。なぜなら、油断なさっているのでしょう。普段よりお言葉に神聖語が多く交じるからです。
お言葉の全てが神聖語であることも珍しくありません。
「そうですね。工作隊の皆さんのおかげで、峠道が歩きやすくなりましたけど、街道からは離れた村ですから」
私はエリカ様から更なる神聖語を引き出すために、相槌を打つのです。
上手く行くときもありますが、行かない時もあります。
「そうなのよ。どうしたもんかな」
ニースの砂糖は、オルレアーノでお客に直接売る以外は、全てドーリア商会が販売を取り仕切っています。
その事を知らない商会の人や行商人が訪れ、皆さん肩を落として帰っていくのが、こう言っては失礼かもしれませんが、見慣れた光景となっています。
「砂糖をどの商人に売るかは、オルレアーノで決めてるみたいで、モリーニさんもノータッチだから、ここでは対処できないのよね」
「確かにそうですね。ところで、ほーむ何とかとか、のーたっちとは何でしょうか。お教えください」
「あっ・・・」
今日もまた、新たなる言葉を覚えることが出来ました。満足です。
ギルドのお仕事は、細かく複雑なものが多いですが、お昼前には終わり、エリカ様はお食事をとられます。
それまでは、御領主様のお屋敷で召し上がっていましたが、ギルド本部が出来てからは、本部で済ませてしまうことが増えました。
昼食の内容は、パンとチーズに薄めた葡萄酒という簡単なものです。
普段は一日に二食の私も、ギルドで働いている間は一緒に頂いています。
当初はエリカ様だけがお食事をなさっていたのですが、一人で食べるのは気が引けると仰り、いつしか私もご一緒することになりました。
食事が終わるころになりますと、小さな来訪者がいらっしゃいます。
「エリカ」
小さな女の子が、ギルド本部に走り込んで、エリカ様に抱き着きます。
このニースでアルカディーナ様を呼び捨てに出来るのは、御領主様の一族と魔法使いのコルネリア様だけです。
「レイナ。お昼ご飯は食べた? 」
「うん」
抱き着いてこられたのは、御領主様の妹君のレイナ様です。
お二人はとても仲が良く血の繋がった姉妹の様で、血縁者のいない私としては、微笑ましいと同時に、とても羨ましい光景です。
「エリカ。ビスケット頂戴。ネルヴィアの分も」
レイナ様の後ろからネルヴィアが現れる。
主人と奴隷の間柄ではありますが、年の頃が近い為か、お二人の仲は親密でいつも一緒にいます。
「お勉強が終わったらね」
「えー。昨日もしたから、今日はいい」
「駄目よ。毎日しないと直ぐに忘れるからね」
「忘れないもん」
「よし。よく言った。今日はレイナの実力をテストをしてあげよう」
お二人がじゃれ合っていると、子供たちが続々とギルドの中に入ってきます。
さて、ここからが私のお昼からのお勤めになります。
集まったのは村の子供たち。
この子らに読み書きを教えるのが、アルカディーナ様から私に与えられた奉仕活動になるのです。
子供たちはギルド本部の床に座り込み、木の板と炭を手に読み書きと計算を学びます。
私は私が教会で受けたものと同じ方法で、子供たちに教えるのです。
聖句を書き写させたり、時には建国の英雄譚などを使って教えますが、子供たちは落ち着きがなく、私の言う事は聞いてはくれません。
直ぐに隣の子とお喋りをしたり、酷い時は突然、取っ組み合いの喧嘩になることも有りますが、エリカ様が一喝なさると大人しくなります。
今日も、隠し持ってきた木の実を前の子に当てて喜んでいる悪戯っ子の上に、拳骨を振り下ろされました。
「はぁ。これ、日本でやったら、確実にPTAから怖い人が飛んでくるわ。私、教育実習課程は取らない方が身の為かな」
などと、意味不明の神聖語を楽しそうに仰います。
授業が書き取りに進みますと、エリカ様がお使いになられている板を私に差し出しました。
「ユリア。これでいいかな」
「はい。拝見いたします」
実はエリカ様も子供たちと同じように、板と炭を使って文字のお勉強をなさいます。
正直に申しますと、私は必要ないとお見受けするのですが、学者でもあられるエリカ様は、我等庶民が使う言葉も熱心に学ばれます。
ギルドの運営上必要だと仰られるのですが、私などの周りの者がお助けすればよいと思っております。しかし、何事もご自分の目で見た物を信用なさる質ですので、そのような横着をなさいません。
読み書きの手習いが終わると、子供たちが一斉に私とエリカ様に群がります。
「はい。はい。一人、三枚だからね。喧嘩するんじゃないわよ」
子供たちの目的は、お砂糖をたっぷりとまぶしたビスケット。
この、おやつを目当てに子供たちは集まって来るのです。
砂糖をふんだんに使ったお菓子など、貴族の子弟でも滅多に口に出来ない物でしょうに。ここ、ニースの子供たちは、手習いのたびに食べることが出来ます。
大きな袋から取り出した、子供の手のひらほどの大きさのビスケットを、子供たち一人一人に手渡していきます。
このビスケットを配ることにより、手習いが嫌いな子供たちも渋々ではありますが、ギルド本部にやって来るのです。
ギルド本部で手習いをするのはどうかとは思いますが、これは一時の事。建て替え中の教会に、専用の学び舎を建てることになっています。
エリカ様はこの子供たちの中から、将来のギルドをしょって立つ人が現れることを期待なさっています。
私はそのお手伝いが出来ることを光栄に思います。
子供たちが、元気に外に飛び出していくと、今度は私の番になります。
ここからはエリカ様から直々に、高等神聖語を教えていただけるのです。
私のこの待遇は、一部の修道士から大変羨ましがられています。彼らも是非、アルカディーナ様から同じように教えを乞いたいと言うのですが。
「ユリアに教えたから、ユリアから聞いて」
と、全て私に託されます。
こうなっては私といたしましても、いつも以上に真剣に学ばなくてはなりません。
間違った内容を、皆さんにお伝えするわけにはいきませんから。
至福の一時が終わると、私は村の家々を回り病気の人の介抱をし、時には薬を与えます。この薬は教会が用意したものではなく、アルカディーナ様がオルレアーノの懇意の薬屋から仕入れた物を使わせていただいています。
エリカ様は病にとても敏感で、少しでも体調が悪いと誰であろうと分け隔てなく、ご自分がお買いになられた薬を下さいます。
また、このお薬が教会が使っている薬よりも質が高く、他の村では助からないと思われる命の多くが救われています。
これが、ギルドの力、いえアルカディーナ様のお力なのですね。
夕刻になりますと、一日の仕事を終えた村人たちが酒場に集まりだします。
ギルドのお仕事を手伝った者には、手間賃が支払われるため、出来たばかりの酒場は、村人や教会を建てている職人たち、軍団兵の皆さんで大変な賑わいとなります。
その中に、御領主様とエリカ様のお姿を拝見することが多々あります。
御領主様はギルド長ではありますが、ギルドの仕事の大半はエリカ様に任され、ご自身は領主のお仕事をなさっています。
お二人はいつも多くの人たちに囲まれて、楽しそうにお食事をなさっており、どこから見ても仲の良いご夫婦なのですが、違うのです。
お二人はご友人同士です。
村の人たちや修道士の半分以上は信じておりませんが。
教会でその日最後の食事を取ると、お勤めの無い日は自由な時間を頂けます。
私は、本日教えて頂いた神聖語をもう一度繰り返し学び、灯りが尽きると神々へのお祈りをして就寝いたします。
明日も素晴らしい一日になりますように。
続く
ユリアの目から見たニースの日常を書いてみました。
いつも、誤字報告、誠にありがとうございます。何度読み直しても誤字の絶えないポンコツです。(/ω\)




