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殿下はベッドに沈んでいた。見るからに肌触りの良さそうな布と綿とに挟まり、その膨らみが規則的に浅く上下する。
白湯です、とナイトテーブルにそっとカップを置いた。無色透明な液体が湯気をくゆらせる。殿下はそれを認めると目元だけを器用に甘くへたらせた。彼得意の、音の伴わない礼だった。
殿下は私をじっと見つめてからゆっくりとこちらへ両手を伸ばす。意図するところは汲めないけれど、無視するよりはとその指先を握った。途端に彼は食べ物を床に落としてしまった時のような表情をする。ご期待に添えなかったようで。
「そうじゃなくて。起こしてってこと」
愛想の削げ落ちた口調だった。
仰せのとおりに、なんて口には出さずに眉を下げる。殿下の腕をしっかりと掴んだ。ぐいと引っ張ってはみたものの、本人の助力無くしては軽く背を浮かせるだけで精一杯だった。思わず責めるように殿下を見つめてしまう。彼は同じ目をしていた。どきりとして、たじろいでしまうのを隠すように目を伏せた。
肘のあたりを掴んでいた手をするりと離し、ベッドシーツと殿下の背との間に指を潜らせた。殿下が少しだけくすぐったそうに体を浮かせる。そのまま指を奥まで進めれば、なんとか彼を抱き起こす体制になった。介護みたいだ。
どうにか殿下をベッドの上に座らせた。彼は傍らに置かれたカップに口をつける。血色の悪いかさついた唇が湿っていく。怪我をした場所が痛むのか、彼はカップから口を離して眉間に皺を寄せた。さらりと細い髪が不機嫌に流れる。
「痛い」
切れた赤唇縁がいたわしい。適切な処置は終えている。耐えられないくらいならばもう一度医者を呼ぶかと問えば、殿下はいらないと突っぱねた。
「痛かった」
咎めるような呟きが刺々しい。ごめんなさい。簡単な謝罪が口をついて出た。
「すごく、痛かった」
ごめんなさい。
大きな溜息が聞こえる。殿下を路地裏で見つけたときの、私を恨むような目が思い出された。ハイドラさんの用意した部屋で安穏と時間を消費した結果手に入れたものだった。面倒なことになるとはあの時点でも予想していたが、まさか殿下がこんなにもボロボロになってくるとは思わないじゃないか。苛立ちと罪悪感が混ざって、別の割りきれない何かになっていく。
殿下が自身の袖を捲る。切り傷を手当したのであろう包帯と、青黒い痣が覗いた。可哀想に、痛いだろうな。単にそんな感想が浮かんだ。
殿下がそんな私を見て小さく笑う。そこには心なしか甘心の色も滲んでいた気がした。
「俺が眠くなるまで話でもさせて。いいでしょ? ほら、座って。騎士の誰だったかに言われたんだ。おまえを休ませろって。べつにね、俺だって毎日休まずおまえを働かせたいわけじゃなかった。好きに休暇ぐらいとらせてやろうと思ってた。だけどいざおまえが外に出たら不安でさ、俺のことなんてどうでもよくなって、もう優しくしてくれなくて、他の奴らみたいに俺から離れていって、おまえは俺じゃない誰かと過ごすんだと思ったら、俺、だめだったんだよね。こうして側にいてくれてても、おまえは仕事だからそうしてるだけかもしれないんだけど。でも、側にいてくれないよりずっと良い。今日、おまえが街に下りたっていうからさ、はやく戻ってきてって手紙を届けさせたんだ。読んだ? ……そっか、知らないんだね。じゃあおまえに届く前に邪魔されたんだ。いいよ、それはおまえのせいじゃない。嫌われ者の俺が悪いだけ。全部、俺のせいなの。おまえは気にしないで。手紙をだしても戻ってくる気配がないから、すごく不安で仕方なかった。おまえにまで避けられるようになったんだって思った。このまま帰ってきてくれなかったらどうしようって。死にたくなった。俺が何かしたなら謝るし、気に入らないところがあるなら直さなきゃって思って、だけど俺一人じゃそんなのわかんないから、やっぱりおまえに会うしかなくて。おまえを探しに行こうと街に下りた。ここの警備、ほんとザルだよね。俺が普通に街へ一人で下りれるんだから。簡単に外に出してもらえたとき、やっぱり俺って大事にされてないんだなって分かっちゃった。ああ、良いから。そんな顔しないでよ。継承権も爵位も期待できない王族なんて、居ても居なくても一緒だ。むしろ居ないほうが良いのかもしれないね。それは悲しいけど事実だし。……でも、おまえは俺を大事に思ってくれるんでしょ? おまえが俺を見捨てないでいてくれればそれで良いよ。おまえは今までの侍女と違って、俺がどんなに面倒くさくても優しくしてくれるから。ごめんね、いつも。本当にごめんなさい。迷惑かけてるのは分かってるし、ちゃんとしなきゃって思うんだけど、甘えてしまうんだ。だから絶対に嫌われたくなくて、おまえを探した。街なんてまともに歩いたこと無かったから、すぐに迷子になった。でもおまえさえ見つけられれば良かったから必死になって走り回って、気付いたら何時間も経ってた。何度か転んだからそこかしこが痛かった。周りが暗くなって嫌な匂いがしてきて、怖くなった。情けないよね。ガラの悪い奴らにも声をかけられたよ。全員酔っ払っていた。変装なんかして来なかったから身分が良いのはひと目で分かる。奴らは俺の持っているものを全部奪うと、楽しそうにどこかへ行った。拘束して誘拐されなかったのは、運が良かったのかもね。それで、おまえはこんな歓楽街には居ないと思ったから大通りから外れて路地に入ったんだ。しばらく誰にも会わなかった。体は痛いし疲れたし心細いしおまえは見つからないしで、泣きそうだった。うそ、泣いた。たくさん。もう動きたくないと思うまでおまえを探し続けて、足元も覚束なくなってきたから座り込んだ。真っ暗だったよ。おまえを何度も呼んで、呼んで、呼んだのに……おまえはまだ来てくれなかった。ほんと、酷いよ。しばらく路地でじっとしていたら、いきなり子供が目の前に現れた。たぶん、浮浪児だった。乱暴に立たされて、生まれて初めて殴られた。息ができなくて、寒いのに熱くて、意識が飛ぶかと思った。飛んだのかもしれない。わかんないけど。金をせびられて、素直に持っていないと答えたらナイフで切りつけられた。自分でやるよりもっと痛かった。……違う、忘れて。何でもない。頼むからなんにも聞かないでよ。自分でなんてしてない。服も散々だったでしょ。あれお気に入りだったんだけどな。ああそうだ、あれと同じものを頼んでおいて。うん、ありがとう。それで、子供は俺が本当になにも持ってないって分かると気の済むまで殴ってどこかへ行った。俺はそれを目で追うことすらできなかった。仕方ないよね、痛くてそれどころじゃなかった。でもいつまでも倒れてたらまた何をされるか分かんないし、せめて身を潜めるだけでもと思っておまえが見つけてくれたところまで移動した。もうおまえに会おうなんて考えてなかった。会いたかったけど、無理だと思った。このまま死ぬんじゃないかなって辛くなったけど、おまえに嫌われたんだったら、ここで死ねるのも良いと思った。俺がおまえを探してる途中で死ねば、おまえは優しいから、一生俺のことを悔いて生きてくれそうだよね。ふふ、当たりの顔だ。それでも、良かったかなぁ。それで、そんなことを考えてたらおまえが来た。どれくらいかは分かんないけど、たぶんそんなに時間は経ってなかったと思う。おまえが俺のことを呼んで、すごく泣きそうな顔をしてた。俺の方がずっと辛かったよって悪態を吐いてやろうとしたけど、変な音しか出なかった。おまえが俺に駆け寄ってきたとき、凄く会いたかったはずなのに、俺を見てほしくなかった。転んで脅されて殴られて、ボロ雑巾みたいだったから幻滅されると思った。おまえは俺の綺麗なところが好きでしょ? それなら綺麗な俺だけ見ていて欲しかった。いいよ、そんなに慌てなくても。嘘じゃないでしょ。大丈夫、怒ったりしないし悲しくもない。おまえが俺を嫌わないでいてくれる明確な理由があるのは、むしろ安心するから。だからね、あんな俺を見ても今おまえが俺の側に居てくれるのがとんでもなく嬉しい。まあ、そのおまえのせいで人生で一番酷い目にあったけど。それで、質問」
殿下の口調は穏やかだった。半分ほど残っていたはずの白湯はすっかり水になっている。
「俺のこと、もう好きじゃ、ない?」
その聞き方はずるい。私はいつもの通りに反射で答えを口にした。