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日が落ちても殿下の姿が見えないのだと、近衛たちが額に冷汗を滲ませている。私のところに来てはいないかと一縷の望みをかけてここまでやって来たらしいのだが、残念ながら殿下はここにいない。先にステラさんやハイドラさんにも殿下の行方を尋ねたが徒労に終わったらしかった。
「街に下りていった、という証言がありましたのでもしかすると……」
近衛の一人が顔を伏せて震えた。そういえばそんなことを微睡みの中聞いた気がする。よくよく思い返せばハイドラさんとそんな会話をしていたかもしれない。まさか本気で殿下自ら私を探しに出掛けたのだろうか。酷く朧気な記憶を辿って目を細めた。ところで下りたというのは、供も付けずにだろうか。
「はい、おそらくは。使用人が見かけただけですので詳しくは分かりませんが。まぁ、本当に下りているかも怪しいですし」
近衛兵はやれやれと顔に手をやった。何か言いたげに不満そうな表情をしている。それだけでこの人も殿下をあまり良くは思っていないのだとわかった。日夜監視のもととまでは言わないが、主の行動把握すら出来ていないというのは職務怠慢な気もする。仮にも殿下は王族なのだけれど、周囲の人間はどうもその認識に欠けてるように思えてならない。
私は溜息を吐きたくなるのを堪えて押し黙った。近衛たちは落ち着かない様子で私をちらちらと見ている。どうやらただ話を聞きに来ただけではなさそうだ。けれどこちらから本題を尋ねてやる気にもならない。
「ちなみに本日、殿下には?」
会っていない。そう答えると、彼は残念そうな顔をする。
「そうでありますか、ならば城内にはいないと考えるのが妥当でしょうか。だとすると城下ですが」
そこまで言って近衛兵は人差し指で頬を掻いた。視線が泳いでいる。口をゆっくりと開けては閉じてを繰り返し、困ったようにへらりと笑った。十中八九、頼み事の予感がする。
「あの殿下が一人で行けそうな場所は粗方探したのですが見つからず、その、つきましてはですね、貴女様にも捜索へ加わっていただきたく」
ほらきた。心中で口端を歪める。
殿下が無事ならば日付が変わる頃にでも戻ってくるだろうし、無事でないのなら大事件だが今更もうどうしようもない。付き合いの短い私には殿下の行きそうな場所の心当たりも皆無だ。よって私が探したところで事態が好転するとは思えない。
なんて理由をつけたが、つまりは面倒なわけで。得意の淑女スキルで断ろうと表情を作れば、その気配を察知したのか近衛兵は慌てて言葉をつなげた。
「捜索隊に加わっていただけるだけで良いのであります! 何か指示をする必要もありませんし、あのーええと、正直、貴女様が殿下を探していたという事実さえあれば。多少歩いていただくことにはなってしまいますが、捜索ルート自体は我々が決めますので、この通り」
近衛たちが一斉に礼をした。こんなシチュエーションで味わいたくはなかったが、中々圧巻である。雰囲気と居心地の悪さに押され、私は仕方なく了承の旨を伝えた。
明るい城を背に門をくぐる。周囲は数人の近衛たちで固められていて少しだけ息苦しい。せめて気楽に話のできる人がいればとハイドラさんを探したが、残念なことに見つけられなかった。
誘導されるがまま、暗い街を歩いていく。黒とも藍色ともつかぬ空を見上げた。灰色の雲が摺り硝子様に塗りたくられて、ただでさえ微弱な月光が減衰している。時たま路地裏から吹き抜けてくる風が冷たい。ザッザと隊列が迷いなく進む足音に、自分のそれも混じっているのが不思議な感覚だった。
何もかもがはじめてでドキドキする。昼間とは違う顔の街に、普段ならば決して訪れることのない区画に、人々が息を潜める感覚に。不謹慎だとは分かっていながらも胸を弾ませずにはいられなかった。
ひゅう、ひゅう、ごろ、ひゅう。風の音に異様な和音が混じった。なんだろう。反射的にその出処を探そうと視線を振り回す。ひゅう、げほり、ずず。気を抜けば霧散してしまうくらいの零細な違和だった。
近衛たちは気にするどころか聞き捉えた様子さえない。私にしか聞こえていないのだろうか。ともすると幻聴か。這い寄る寒気を意識しないよう軽く息を吸い込む。吐き出す息を溜め込んだ視界の端、穏やかでない色が映り込んだ。いくら視界が悪いとはいえ白い石畳によく映えるそれは、私の足を止めるには十分すぎる。模様と言い張るには難しく、実物を見たことのない私でも容易にそれが何なのかは想像できた。
「いかがなさいましたか?」
近衛が私を気遣うように覗き込んだ。そっと石畳を指さす。近くには風の通る路地があった。近衛は私の示す方向へ目を向けてああ、なんだと事も無げに呟く。
「血痕でありますね。お嬢様方には稀有でしょうが、この辺は街の中でも治安の良い方ではないですから。死体ならばともかく、血痕なら探せばいくらでも」
安心させるつもりなのか、近衛は軽快に笑った。私もつられて微笑を返せば別の近衛が意外そうに目を丸めた。不穏な単語を聞いても動じないのが珍しいようだ。
抑々(そもそも)血痕如きで怯む私ではないのである。先程から聞こえる笛の音とも喘ぎ声ともつかぬ音だって無視できない。考えたくはないが、万が一ということもある。近衛にとってはありふれた物でも、私にとっては一々確認すべき事項だった。
そのまま行列を再開せんとする近衛を引き止める。少しで良いから血痕の側にある路地を探索しないかと近衛たちを説得すれば、彼らは仕方なくといった様子で路地へと進路を変更してくれた。大通りと比べ狭い道幅ゆえ、半数は路地の入り口で待っているようだった。
何も無ければそれでいい。そう思いながら歩を進める。街灯の恩恵を受けない路地が薄気味悪く続いていた。ひゅう。一歩一歩、奥へ入るにつれて音は大きくなる。最初こそ聞こえないと肩をすくめた近衛たちも、流石に気がついたようだった。慎重に目と耳の感覚を研ぎ澄ませる。ひゅう。路地を曲がった更に細い道。そこから音は流れてきていた。先を行く近衛を止め、目を凝らす。
ひやりとした。冷たい色に取り囲まれ、蹲った人影がある。今にも夜の怪物に呑み込まれてしまいそうなそれは、あまりにも見覚えのあるシルエットだった。
殿下、と声をかける。
ひゅう。
返事の代わりにあの音が伝った。風は吹いていない。ごろりと力なく彼の頸が動く。上げられた顔がこちらを向いた。殿下が薄く笑った。弾かれたように駆け寄れば、彼は益々嬉しそうにひゅうと息を漏らした。そのかさついた唇はべっとりと血に塗れている。破れた衣服は高貴さが薄れて粗末に見えた。
「み、ないで」
ずるりと布を引き摺りながら殿下が私に手を伸ばす。自らでなく私の目を塞ごうとしているあたり、本当に見られたくないらしい。ならばその潤む瞳と緩む頬は何事か。ちぐはぐな彼をあやすように、羽織っていた外套で包んだ。後ろで近衛たちがばたばたとどこかへ連絡をしている。見つかったことの報告や殿下を運ぶ馬車の手配だろう。
「ずっと探してた」
殿下が目を閉じてくたりと私に凭れた。探していたとはこちらの台詞だ。殿下の額は冷たい。
「ここが何処だか分からなくなっても、おまえさえ見つけられればと思ってた。なのにおまえは何処にもいないし」
ゆっくりと殿下の言葉が石畳に溶けていく。すぐ裏の大通りから馬の嘶きが木霊する。
「散々な目に遭ったよ、おまえのせいで」
顔を上げた殿下は恨みがましく私を見ていた。よく見ればシミひとつなく青白かった頬が腫れている。浮浪児に殴られでもしたのかもしれない。眉を下げて謝罪の言葉を紡ぐ。彼は力なく、ゆるさないから、と私の手を握った。
救護班が到着すると、殿下は応急手当を受けてから馬車へと運ばれていった。次いで私もそれに乗り込む。がたりごとりと揺られながら来た道を戻っていく。不安を煽る和音はいつの間にか止んでいた。