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 午後。

 執務室から私室へ帰る殿下の後ろをついて歩く。時折通り過ぎる窓に殿下はちらりと視線をよこしていた。外に気になるものでもあるのだろうか。何度か繰り返すうち、窓の反射を見てきちんと私が後ろに控えているか確認しているのだと気がついた。足音と気配でわかるだろうに。目に見えるか手で触れるかしないものは安心できない(たち)らしい。


 また殿下が窓の方を見た。たおやかな天気だ、なんてゆるりと呟いてみる。そんなに心配しなくともここにいますよ、という細やかなアピールだがどうだろう。

 外へ出れば忽ち寒気に迎えられるのだろうけれど、室内から覗き見る小さな中庭は静かながらも明るい。殿下は私の言葉に振り返ると、そうだねと目尻を緩めた。


「久しぶりに、庭の花でも」


 殿下が言いかけたとき、廊下の向こうから使用人が数人歩いてきた。クスクスと何やら楽しそうに会話をしている。皆それぞれ箒やら塵取りやらの掃除用具を持っていた。

 途端殿下が表情を消し、俯き押し黙って早足で前へ進み出す。慌てて殿下の後を小走りに付いていくが、先程までとは一転私のことなど忘れているようだった。

 うぐ、と殿下の喉が鳴った。使用人たちも殿下に気が付き頭を垂れている。彼は一瞥もせずにその前を通り過ぎた。にこやかに挨拶を交わせとまでは言わないが、なにも避けるように突っ切らなくとも良いのに。そうする理由があるのだろうか。殿下が通り過ぎるまで、使用人たちは微動だにしなかった。

 一心に自身の爪先を見つめながら、ようやっと使用人たちから十分に離れたとき、殿下は足を止めた。唇が白い。肩で息をしている。かく言う私も僅かに息が上がっていた。


「うぁ、かっ……は、は、ぐ、おぇ」


 がくりと膝をついて殿下が(むせ)んだ。上手に換気ができないようで、息を吸うたびに(つか)えるような雑音が混じる。咄嗟に動くことができず、私の間抜けな母音が漏れた。その声に自分ではっとして殿下へ駆け寄る。寄り添うようにしてしゃがみ込みその背に手を当てれば、ぎょろりと殿下の眼差しが私を捕らえた。


「……は、触ん、ないっで、よ」


 嗚咽の隙間、弱々しく拒絶される。言われた通り背に回していた手のひらをおとなしく離す。一層睨まれた。涙の滲む目尻に乗せて、なぜ離したのかと批難されている気分だ。

とりあえず医者を呼ぶべきだろうかと殿下に尋ねる。


「勝手なことしないで!」


 あたふたと立ち上がろうとした私に殿下が怒鳴った。ぐいとドレスの袖が斟酌なく引っ張られる。お陰で中腰の体勢からそれ以上足も背筋も伸ばせない。

 ぜいぜいと苦しそうにしながら殿下が立ち上がる。袖は掴まれたままだ。触れられたくないのではなかったのか。彼はそのままふらりと歩きだした。



 病人のような足取りで辿り着いたのは殿下の寝室だった。乱暴にドアが開かれる。殿下は倒れ込むようにして部屋へ入ると、ようやく私の袖を離した。


「気分、悪い」


 ぽそりと言葉を落とされる。呼吸困難からいくらか落ち着いた様子だ。それでも殿下の顔色はいつも以上に優れない。やはり医者を呼んでくるべきなのではと打診したが、絶対にやめてほしいの一点張りだった。


「呼んだって意味ないし他の誰にも会いたくない。少し寝れば良くなるの分かってるから」


 そうは言っても、なにか悪い病気だったらと思うと心配だ。


「病気? そうかもね、これは病気だ。おまえが思っているような病気じゃないけど」


 ツンとそっぽを向かれた。閉じられたドアの前に立ち尽くす私に背を向けて、殿下はベッドの向こう縁に腰を下ろす。

 側にあるナイトテーブルには瓶が置かれていた。中に入った錠剤はカラフルで様々な形をしている。複数種類を同じ瓶に入れるなんて不思議だ。


「でも、そっか、おまえは心配してくれるんだね」


 薬から殿下へ意識を戻す。彼の背中が小刻みに揺れていた。それから晴れやかな顔がこちらを振り返った。驚くほどに情緒が安定していない。幾分テンポよく殿下は話しだす。


「あいつらさ、俺のこと馬鹿にして笑ってたでしょ」


 あいつら? さっきの使用人たちのことだろうか。私の疑問を見透かしたのか殿下が頷く。


「そ、さっき居た使用人。いつも暴言を吐いてきて……。俺に聞こえるように。あいつらだけじゃなくて、他の使用人も、護衛の奴らも、侍女も。みんな俺のことが嫌いなの。俺を好きなやつなんて、どこにもいない」


 それから殿下はじっとりと低い声で、投げられた暴言の数々を口にした。聞くに耐えない文言も混じっている。それが本当なら酷い話だと心底悲しくなるのだが、おそらくは嘘か被害妄想だ。

 すれ違った使用人たちの会話は殿下のことになど一言も触れていなかったし、何より王族に暴言を吐くなど考えられない。証拠や証言が集まってしまったら罰は免れないので滅多な事は言えないのである。確かに城の皆はあまり彼に関わろうとしないけれど、それでも分別のある大人たちだ。そんなことできるはずがなかった。


「俺は弱いから、あいつらがそこで俺を見て嘲っていると思うと怖くて仕方ない」


 殿下は囁く音量でぽつりと零すと両手で自身の腕を抱いた。みるみるうちに表情が曇っていく。薄く白いままの唇が震えていた。


「吐き気がしてきて、うまく息ができなくて、立っていられなくなるし、ここがズキズキする」


 彼は胸の下あたりをぎゅっと抑えた。嘘を言っているようには見えない。演技だとしたら見破れる自信はないけれど。少なくとも私には、彼がありもしない悪意に本気で怯えているように見えた。なるほどこれは病気だ。

 殿下の目の前に回り込んで目線を合わせる。私は嫌っていませんよ、と困り顔で微笑んでみせれば、殿下は期待するように須臾の間息を止めた。被害妄想だと正しく糾弾するよりも、

甘やかして許容する方がお互いに楽だろう。息を吐き出すと同時にその顔が皮肉気味に引き攣る。


「どうだか。確かにおまえは俺のことを悪く言わないけど」


 でしょう? 覗き込めば辛そうに殿下の瞳が揺れた。そっと彼の頬に触れる。びくりと華奢な肩が跳ねた。視線が行き場をなくしてさまよっている。私と正面で向かい合うのは苦手らしい。

 

「じゃあ、俺のこと好き?」


 上目遣いに殿下が尋ねた。頬にやった私の手を自分の手でやんわりと上から押さえている。甘え縋るような態度にくらりとした。気道の狭まる感覚がして、熱い。

 なんとか息を吸い込んで、もちろんだとだけ吐き出し頷いた。私の答えに殿下が拗ねたようにして頬から手を剥がす。不満だったらしい。


「そうじゃなくてちゃんと言って。いいよ、べつに。ほんとは好きじゃ、ない……でしょ」


 ベッドがぎしりと鳴った。私を見上げる殿下が試すようにせがむ。たどたどしく彼の望むままの台詞を与えてやれば、ほっとしたような笑みが咲いた。先程まで苦痛と闘っていたらしいというのに、その影はもうどこかに行ってしまったようだった。


「信じてもいい?」


 清々しいまでに勝ち誇った表情で殿下が言う。私に頷く以外の選択肢などない。彼は私の様子に満足すると、ゆらりと立ち上がって、もう寝るからと背を向けた。まだ日も落ちきっていない夕方である。やはり気分は優れないままだったのだろうか。

 シャツに手をかけてから思い出したように殿下の首だけがこちらを向く。水を持ってくるように言い付けられた。了承して寝室から出て水を取りに行く。ガラガラとワゴンを引いて再び殿下のもとへ戻ると、すっかり着替え終えた殿下が迎えてくれた。

 水を差し出す。殿下はグラスを受け取るとあの薬瓶の蓋を開けた。じゃらじゃらと錠剤を鷲掴み飲み込む。ばらばらと口に入り切らなかった残骸が絨毯に転がっていく。それを二度、三度繰り返してから彼は恍惚とした表情で蓋を閉めた。

 その薬は一体なんだろう。たまらず聞いてしまう。そんなに飲んでは身体に毒だろうに。おろおろと胸に手を当てた。


「大丈夫。全部医者から貰ったやつだから」


 そういう問題ではない。言いかけてやめたが、殿下は私の言わんとすることを正確に読み取ったらしい。彼の眉間にしわが寄る。


「俺だって、好きでこんなこと……あー、ふわふわする。気持ちわる」


 殿下はベッドへ倒れ込んだ。枕に埋もれた唇から呻吟が漏れている。アドヒアランスなんてあったものではない。窘めるように殿下の名前を呼んで、きちんと羽毛を被せた。何を飲んだのか知らないが、良くないことをしているのは確かだ。


「なに、また心配してくれてるの?」


 クク、と押し殺した笑い声が布団の下から聞こえる。気分が悪いなら大人しく寝ていてほしい。溜息とともに(うべな)う台詞を降らせた。

 殿下の目が閉じたのを確認して部屋を出る。不覚にも頂いてしまった寝室の鍵をドレスのポケットから取り出す。鍵穴に挿し入れて回せば、カチャリと案外軽い音がした。


ODはやめましょうね

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