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午後になると殿下は執務室でデスクワークをするらしく、殿下付となった私は至極暇である。殿下から何か言いつけられていればそれをする時間に充てられるのだが、本人に問うても特に無いようだった。政務に関する書類を手伝えるはずもない。掃除は使用人たちがすることになっているし、洗濯だって同様だ。それならばステラさんの手伝いでもしようかと彼女のもとへ向かった。
「手伝ってほしいことね……今は特にないかも。あ、そうだ! もう二時間くらいしたら殿下の休憩に合わせて紅茶でも持っていっておいて。それまでは適当にしてていいわよ」
ステラさんは軽く伸びをした。書庫で調べものをしていたらしい。午後の日差しを浴びて火照った本たちから、微かに湿気た匂いがした。せっかくだから、一冊借りていこうか。適当に目についたものを手に取る。これでいいか。何やら作業をしているステラさんを振り返る。本を胸元に掲げて借りていきますねと声をかければ、快活な返事と共にひらひらと片手が振られた。
書庫のドアをギィと閉じて廊下を歩く。換気のために開けられたのだろう窓から、そよりと空気が入り込んでくる。ドレスの裾が揺れた。外の風に当たれば肌寒いが、ふんわりと眠りを誘う色をした陽に目を細める。本を読むどころか、歩いているうちに寝てしまいそうだ。
そういえば、侍女が使うためのラウンジがあったな。殿下付きの侍女は私とステラさんしかいないため年中ほぼ貸し切りだと聞いている。忙しい折手伝いにくるらしい他の侍女たちは、仕事が終わればさっさと自分の持ち場に戻ってしまうらしいから。
ラウンジに足を踏み入れる。座り心地の良さそうなソファと品の良いローテーブルに迎えられた。部屋の端には簡単な調理スペースが鎮座している。おやつも完備らしい。自然と上がる口角をそのままに、お菓子を少し取り分けてからソファへ腰を下ろした。
はらり。本を開く。その活字を緩やかに目で追った。何の深慮もなく手にしたものだが、読み進めるうちその世界へ飲み込まれていく。ページをめくる音さえも耳に届かなかった。つい先刻まで背後に迫ってきていた睡魔も、今は遥か遠くに小さくなっている。テーブルに置いたお菓子のことも忘れて物語に没頭した。
凡人の集中力というものは往々にして長く続かない。のめり込んだ自分の世界がいくら楽しいものであっても幾ばくか時間が経てば、はっとする瞬間が来るのだ。そして今まさに私はその時を迎え、それは幸運なことであった。充実感に満たされた頭の隅、はっとして顔を上げたのはこの部屋へ入ってから丁度二時間が迫る頃だった。
殿下にお茶の用意をしなければいけない時間だ。ぎょっとして立ち上がる。膝に乗せていた本が情けなくソファへ転がった。ああいけない。拾い上げて丁寧に栞を挟む。それから本をローテーブルに置くと、急いで執務室へと向かった。
息を切らさない程度に歩いては来たが、気持ちが焦ってしまって控えめな動悸が煩わしい。執務室の前で立ち止まり、数秒の間をおいてからノックした。ドアの向こうまで聞こえるように殿下へと声をかける。
「ま、待って」
殿下の上ずった返事がすり抜けてきた。タイミングが悪かっただろうか。大事な作業の最中だったのではと気を揉んでいると、再び殿下の声がかかる。
「いいよ、入ってきて」
心なしか覇気のない声色だった。おじおじ入室をする。そろりと顔を上げれば、殿下は机に向かって顔を俯かせていた。書き物をしているらしい。やはり邪魔をしてしまったのだろうか。唇をきゅっと結ぶ。けれど来てしまったからには本来の目的を果たさなければと休憩を提案した。緊張と居心地の悪さに若干噛んでしまったが仕方がない。
「そうだね、俺も休憩にしようと思っていたんだ」
瞼を伏せたまま殿下が返事をした。柔く小さな音だった。ペンを握る手は先程から動いていない。煮詰まっているのだろうか。
執務室の壁際に寄る。そこには小さめのシンクとお湯を沸かす設備が整えられていた。隣には殿下専用のティーセットが置かれていて、彼の好みらしい茶葉や豆も常備されている。何を飲みたいか尋ねた。
「紅茶。おまえの好きに選んで」
今度は尊大で投げやりな口調だった。それなのにどこか媚を含んでいて甘くぞわりとする。予想しなかったおねだりに手が止まった。振り返って見るが、殿下は一向に顔を上げる気配がない。困惑のまま、紅茶の葉が並ぶ中から一種類を選んで淹れた。バニラに似た香りが湯気に混じって空気に溶ける。ふわりと吸い込んだ息を吐き出すのが勿体ないくらいだ。カチャリとカップをソーサーに付け、殿下の所へ運んだ。
いつの間にか、殿下は仕事机から窓辺のソファに移動していた。中途半端に閉められたカーテンの隙間から明かりが伸びている。
どうぞ、と短く声をかけてサイドテーブルに紅茶を置く。殿下はお礼の言葉を口にこそすれ、こちらにはちらりとも視線を寄越さなかった。何か気に障った、というには随分暗然としている。落ち込む知らせでもあったのだろうか。あるいは体調が悪いのか。
時折小さく震えるだけの睫毛を追えば、その奥で水面が揺れた。心なしかじわりと白目に赤が滲んでいる。
まさか何の慮りもなしに泣いているのかなどとは問えやしない。浮かぶ言葉を選び取っては打ち消す。気落ちすることが、具合があまりよろしく、と途中まで口に出しては諦め、なんとも濁った調子になってしまった。殿下からの答えはない。居たたまれなくなって使った茶葉の処理でもしようと足裏を擦り引いた。
ぱしり。殿下の手が私の手首を掴む。
「どうして今離れようとしたの」
その音は十分に声帯が使われていないような、不安定な囁き声だった。陰鬱さに軽くぞっとする。周りの皆が口を揃えて警戒する殿下の片鱗を感じた。どうにか口を動かして茶葉を片付けようと思っただけなのだと正直に答えたが、どうにも弁明のように聞こえていけない。殿下は、ふうんと若干の鼻声で相槌を打った。それからぱっと私の手首を放して紅茶を啜る。納得してもらえたのだろうか。再び踵を返そうとすれば、やっと殿下がこちらを向いた。
「話、聞いてくれるんじゃないの」
成人しているはずなのに、どうにも子供のような表情だった。
「何か気落ちなさるようなことが、って。聞いてくれるつもりで言ったんじゃないわけ?」
殿下は拗ねるように眉を寄せた。不機嫌そうな眉間のしわも、彼にかかれば苦悶の美青年を演出する手助けだ。惚けた溜息をかろうじて飲み込んだ。それから慌てて私で良ければと頷く。殿下は心持ち表情を和らげた。私の答えに満足したらしい。
ゆらりと殿下が自身の座る隣を撫でる。意図が分からず呆けて眺める私の腕をずるりと引っ張った。ぽしょりと視点が低くなって、ドレスの裾が恥じらう。紅茶の香りが近づいた。
「俺は出来が悪いから」
動揺に動揺が重なっていく私をよそに、殿下が吐き出すように呟いた。恐れ多いので隣を見上げることはできない。けれど彼の潤んだ瞳は頭の中で容易に再現できた。
「何を為すにも兄たちの何倍も時間がかかるんだ。あの紙束の山がその証拠」
殿下が机上に目をやる気配がした。続けて短く詰まった嗚咽が混じりだす。それでも殿下の独白は止まない。
「今日だってたくさんの人に迷惑をかけたんだ」
「俺が間違えたから、俺が満足に自分の仕事も出来やしないから」
「疎まれるのも当然なんだけど」
「やっぱり俺なんかいない方が良かったのかな」
「ひとつ仕上げる間にも催促が二度はくるし」
「だからって、誰も手伝ってはくれないんだけど」
「ほんと情けなくて、自分が嫌い」
私はただ黙って彼の話を聞いていた。切なげに、縋るように垂れ流される言葉は、噛み砕いてみれば存外陳腐なものだった。要するに彼は上手くいかない仕事が嫌になったらしい。そして放り投げて逃げ出したいのだと、そういうことかもしれない。誰しもが持ち得る悩みだけれどそれが彼にとっては他人より深刻なのだろう。
紅茶は冷めていた。鼻が慣れてしまったのか匂いもしない。私は目を細めて殿下の指先をそっと握った。
唇をおもむろに動かす。思いつく限りの優しい言葉を投げつけた。寄り添うように、支えるように、逃げ道を見つけられるように、耳触りの良い台詞だけを擦り付ける。解決には微塵も近付いていないが私にとってはどうでもよかった。ただ頭の中でステラさんや侍女仲間の心配する顔が警鐘を鳴らす。少しでも殿下を否定すれば理不尽な目に合うかもしれないと思った。ただ彼を慰めた。保身のためだった。
「ん、ありがと」
弱々しく殿下が微笑む。安堵と優越感が鈍く奔った。