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ステラさんと共に騎士団の方々へ挨拶に行けば、彼らは温かく迎えてくれた。近衛を任されるだけあって精鋭揃いらしい。彼女は護身術を彼らに教えてもらったようで、私も習うことを勧められた。
彼らはとても気さくで、なんとかやっていけそうだと安心する。冗談混じり、殿下に何かされそうになったら助けを呼べとまで言われてしまったのには苦笑するしかない。とんでもなく不敬な気がするけれど大丈夫だろうか。
結局、護衛の彼らとはかなり話し込んでしまった。それなりに仲良くなったように思う。ステラさんは仕事があるからとしばらくこの場を離れていたが、話が終わる頃には合流してくれた。その後ステラさんに侍女としてどのように過ごせば良いのかを説明してもらい、それが終わる頃にはまるっと午前中が終わってしまっていた。
「あら、もうお昼じゃない。せっかくだし、顔見せがてら殿下に昼食でも持っていく? 私は他に用があるから一緒には行けないけど」
ステラさんが時計を見やって両の指先を合わせた。いつの間にか殿下が起床していたらしい。渋る理由もないので頷く。持っていくとはいえ、料理を運ぶのは私ではない。食事の手配をして殿下へお知らせするだけだ。それくらいなら一人でも大丈夫だろう。
「じゃ、何かあったら呼びに来てちょうだい。書庫か自室にいると思うから」
それから表情を固くして、ステラさんは気をつけてねと手を振った。そんなに覚悟をしなければならない相手なのだろうか。気になることは多くあるけれど、考えても仕方がない。軽い足取りで厨房の方へ向かった。
給仕人に声をかける。殿下の昼食を、と口を開けば気遣わしげな視線を貰った。食事の準備はほぼ完了していたらしく、間もなく厨房から料理が運ばれてくる。
殿下は自室で食事をするらしい。給仕人と会話をしながら長い廊下を歩く。ぴたり。殿下の部屋の前で給仕人の足が止まった。それから私に目配せをする。ここからは私の仕事のようだ。小さく深呼吸をした。
ドアをノックして食事を持ってきたと声をかける。数秒の間。返ってこない返事に給仕さんを振り返るが、彼は黙って肩をすくめるだけだった。
「いいよ、入って」
出直そうかと半歩足を引いたとき、ドアの向こうから声がした。ぐっと覚悟を決め、ゆっくりと部屋に入る。礼をして顔を上げれば確かに殿下――レオン様その人が席に座っていた。彼は真っ直ぐに私を見つめていて、口元は優しげに緩んでいる。
まさか目が合うなんて思ってもいなかった。溜息をつきたくなるような端正な顔立ちに見惚れる。小さい頃夢中になったドールみたいだ。無意識に目を見張った。
背後、続いて給仕人がワゴンを引いてきた音にはっとする。そろりと視線を下ろし、決まり悪さに給仕人へ目を向けてみた。
彼は殿下の前にひと通り料理を並べると、自分の仕事は終わったとばかりに一礼してさっさと出ていってしまった。本来なら給仕人が最後まで食事中の世話をするのだが、ここに限っては違うようだ。
殿下は給仕人を侍らせて食事をするのが好きでないらしい。事前にそう聞いていたとはいえ、私一人残されてしまうと随分心細い。
「おまえが新しい侍女?」
高圧的な台詞とは裏腹、驚くくらい穏やかに問われる。予想と大きく違う態度にぎくりとした。戸惑いがちに視線を上げれば、彼はきゅっと目細める。
慌てて礼をとり自己紹介をする。紡ぐ音が裏返っていないか心配だ。
「ふうん、そう」
私が話し終えると、殿下は一言呟いて食事に手を付けた。
会話のない部屋にカチャリと磁器の震えが響く。ステラさんからは、挨拶が終わったら部屋の外で殿下の食事が終わるのを待っているだけで良いと言われているが、果たして退出してよいものか。なんとなくタイミングが掴めない。
ずり、と踵を後ろに引いてみる。意を決して口を開きかけた時だった。
「おまえ、食事は?」
殿下が上品にナイフを滑らせながら言った。質問の意図が掴めずに首を傾げる。昼食はこの後とる予定だ。そう伝えれば、殿下はナイフを置いてこちらを見た。
「だったら一緒に食べよう。そうして俺を待っているのも暇でしょ」
一瞬何を言われているのか分からなかった。狼狽してかぶりを振る。邪魔をするつもりは微塵もないので下がろうとすれば呼び止められた。
「そうじゃないよ。今おまえに出ていかれるのは、ちょっと寂しい気がしたんだ。もし嫌じゃないなら、ここに食事を持ってこさせて。一緒に食べよう」
ね、と殿下は上目遣いに私を誘った。反射的に快諾しそうになるが、ぐっと飲み込む。殿下と同じ席につくなんて、あとで不敬だと怒られやしないだろうか。
「そんな不安そうにしないでよ。あいつらに何を吹き込まれたか知らないけど、危害を加えるつもりなんてない。ただ俺はおまえと食事がしたいだけなんだ。嫌なら無理強いはしないし」
返答に困っていると殿下がしゅんと息を吐く。どうやら誤解させてしまったらしい。不安なのではなくて、不敬なのではと思っただけである。冷や汗をかきながら弁明した。
「なんだ、そんなこと気にしなくていいのに。俺が誘ってるんだから」
殿下はふわりと微笑む。花が咲いたみたいだ。そう言われてしまっては断れるはずもない。言われるがまま、給仕人を呼んで食事のお願いをした。
困惑気味に料理を運んできた給仕人にお礼を言って、殿下の向かいに座る。椅子を引く音がやけに大きく聞こえた。
一体どうしてこんな状況に。初日から殿下と向かい合って食事をするだなんて想像もしていなかった。
緊張で指先が冷えてきた。早々に食事を再開した殿下に倣って私も料理へ手を付ける。咀嚼音が殿下の耳にまで届いていないか気がかりだ。沈黙が続く。きっと私が楽しい話題を提供しなければならないのだろうが、私の頭はちっとも思いついてくれない。
ちらりと殿下を盗み見る。長い睫毛が時折上下して、薄く形良い唇の隙間から赤い舌が覗いた。目を奪われる。けれどよく見れば、アーモンド型の目元には隈が目立ち、色素の薄い肌は血色を欠いている。それさえも綺麗だ。
ふと、殿下が顔を上げた。そのカサついた口端が意地悪に上がる。
「見惚れた?」
はい、と気づけば肯定していた。すると殿下は二度瞬きをして、それから微かに頬を染めた。迷いなく肯定されるとは思っていなかったらしい。つられて私も顔を赤くする。脊髄で会話をするんじゃない。心中自分を叱咤した。
逃げるようにして俯けば、殿下の手元に目がとまる。白い手首に何本か赤茶色い線が入っているように見えたのだ。汚れだろうか。けれど殿下の手首はすぐに袖口へ隠れてしまった。あんなに不自然にソースが飛び散るはずもないし、見間違いだったのかもしれない。
「俺の取り柄はこの見てくれだけだからね、おまえが気に入ってくれて嬉しいよ」
殿下はゆっくりと小さく笑みを湛えた。そこに自嘲の気配は感じられず、ただ純粋に喜んでいるようだった。その分一層なんと返せば正解なのかわからない。曖昧な相槌を打って首を振った。
殿下のお皿が空になったのを見届け、私は部屋を出た。給仕人に片付けをお願いする。本来ならばこの後に昼食だったのだが、殿下とご一緒してしまったのでもう入りそうにない。
とりあえずステラさんに報告をするため彼女を探しに行った。
「大丈夫だった? 辞めたくなったりしていない?」
自室で刺繍をしていたステラさんの、私を見た第一声がこれである。何も問題は無かったと報告すれば、彼女は安堵の溜息を吐いた。
「良かった! あなたが理不尽な目にあっていないか心配してたのよね。今日の朝はちょっと機嫌が悪かったみたいだし」
ステラさんは大袈裟に肩をすくめる。昼食を一緒に食べたことを言っておくべきだろうか。ちょっとの間悩んで、結局恐る恐る報告をした。
「ちょっと待って。昼食に誘われた? 誰の話?」
ステラさんは大きく目と口を開けて私に詰め寄った。それから信じられないとでも言うように頬に手を当てる。やはり同席するのはいけないことだったのだろうか。不安になってくる。
「強引に食べ物を口に入れられたりはしてないわよね?」
真剣な表情でステラさんは私を覗いた。そんなことはされていない。ステラさんの中で、殿下の人間性はどうなっているのか。慌てて否定すれば、続けていくつか同じような質問が降ってくる。その全てに否と答えてから、私も同じように自身の頬へ手をやった。そんなに酷いことをする人には見えなかったけれど、最初だけなのかもしれない。
「もしかするとあなたの運と殿下の機嫌が最高に良かったのかも。だって、今日朝食を持っていったときには皿を全部ひっくり返されたのよ? それでその後、自分でやっておいて突然泣き出すんだから付き合ってられないわ」
心底面倒臭そうに眉を顰めるステラさんに苦笑する。先程まで見ていたあの綺麗な顔が暴力的に歪むのを想像してみた。けれど想像が付かない。素直な感想を漏らせば、彼女は意味深に優しく私の肩を叩いた。