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 考えてみれば至極当たり前のことで、ずっと側にいてと再三言われていたのだから殿下が快諾するはずもなかった。普段の私ならば、やっぱりそうか、とため息を噛み殺して引き下がっただろう。そして何事もなかったかのように淡々と業務を続けるのだ。

 けれど今日は違う。それなりの覚悟を持って殿下の前に立った。それは昨日きっぱりと辞職を決断したことも理由だが、最後ぐらいは彼の思い通りになるものかという半ば意地のようなものもあった。いくらかの消耗を許してでも辞めてやる。見下すような態度の殿下をキッと睨み付けた。


「なに、その目」


 殿下が眉を顰めて応戦してくる。彼の組まれた両腕が微かに強張った気がした。どうか暇をくださいともう一度頼み込む。緊張を無理矢理抑えつけた甲斐あってか平坦な声がまっすぐに飛んだ。


 一瞬の間があって、殿下は持っていた本から雑に手を放した。どしゃりと何枚もの紙が潰れるのに目もくれない。彼は乱暴に席を立つとこちら目がけてツカツカと歩み寄ってくる。半歩の距離まで迫ったとき、彼の腕が大きく振り上げられた。

 ばしん。

 大きな音と衝撃が身を貫く。予期せぬ理不尽に姿勢を保てるはずもなく、いとも簡単に私の体はぐらついた。さらに殿下の腕が向かってくる。とどめとばかりに肩を押されて視界が低くなった。打ち付けた腰が痛い。


「ね、おまえはずっと俺の侍女でいるんでしょ。約束したよね。今更知らないなんて言わせないから」


 しゃがみ込んだ殿下に前髪を掴まれる。慈悲なく額を押し込まれ顎が上がる。殿下の荒い呼吸が近づいた。


「俺から離れて、それで、どうするつもり? 別の人に付くの? その辺の適当な家と婚姻でも結ぶ? それともあいつの妾にでもなる? でもね、全部だめ。許さない。ここまで俺に優しくしておいて、それであっさり突き放すんだ? 俺はこんなにおまえが必要なのに、俺のこと捨てるんだ? どういうつもりか知らないけど、簡単に逃げられると思ってる? ……逃がすわけ、ないでしょ」


 殿下の暗い口元がゆっくりと吊り上がる。頭上から陰が差したかと思えば、座り込んだままの私の上に殿下が乗った。細身とはいえ男だ。両腕で体を引きずって逃れようとしたが僅かにドレスが擦れるだけに終わった。


「どこへもいけない身体にしてあげる」


 耳の下、首の柔らかいところに噛みつかれる。押しのけようとした手首を掴まれいよいよ身動きが取れなくなってしまった。


「ほら、ちゃんと俺のこと見て。今ここで、俺だけって言って。そしたら止めてあげてもいいよ。簡単だよね。おまえがいつもやってたことだよ」


 (はた)かれたばかりの頬に冷たい手のひらが触れる。親指でするするとあやす様に撫でられた。見上げれば殿下は目を細めている。彼の首が軽く傾けられると、パサついた髪は柔らかく歪む。

 口を閉じたまま、甘く媚びる音が彼の喉から鼻を抜けた。一瞬で、心臓が絞めつけられたように痺れる。呼吸が浅くなる。その美しい顔から目が離せない。抗わなければと息を吸えば、殿下の匂いが絡みつく。

 だめだ。いけない。このまま惑わされてなるものか。何としてでも逃げなくてはと唇を固く結ぶ。そんな私の様子に気が付いたのか、殿下は不満げに鼻を鳴らした。


「へえ? そう」


 ぴたりと指が止まる。急激に冷えた表情が俯いていく。肩口に彼の額が押し付けられたかと思えばそのままぐっと後ろに倒された。ふっと殿下の重みが下腿と手首から消える。ドレスの裾が捲られて、白く細い指先が足首から上へそっと伝う。

 いよいよ危険を感じて出来る限りの大声で助けを呼ぶ。淑女らしさなど気にしてはいられなかった。


「俺の部屋にはおまえ以外誰も近づかないの、忘れちゃった?」


 馬鹿にした調子で言ったあと、殿下は迷惑そうに舌打ちをしたが一向に止める気配はない。それどころか開いている方の手で口を塞がれた。

 ここまでかもしれない。傷物の文字が頭に浮かんだとき、ばたんと慌ただしくドアが開いた。


「失礼いたします、殿下!」


 ハイドラさんだ。部屋を見回し瞬時に状況を理解したらしい彼はおざなりに殿下へと挨拶をしてから私の名前を呼び駆け寄ってくる。その勢いのまま私の上にかぶさった殿下を押しのけた。体格も筋力もハイドラさんに殿下が敵うはずがない。あっさりと殿下は床に倒れこむ。


「ちょっと、なにす」

「心配になって様子を見に来て正解だった。もう大丈夫だよ。俺がいるからね。やはり君を一人で行かせるべきではなかったんだ」


 殿下の抗議を遮ってハイドラさんは私に微笑みかける。彼は私を丁寧に助け起こすと、後ろから腕を回して支えるように抱き寄せた。殿下が私たちを下から睨みつけている。その唇はわなわなと震え、何か言おうとしているのか開いては閉じてを数度繰り返す。けれど声にはならず不規則な呼吸が増々乱れるだけだ。


「俺の婚約者に何をなさっていたのです、殿下」


 怒気を孕んだ声色でハイドラさんが尋ねる。ぴくりと殿下の眉が跳ねた。


「婚約者? ばか言わないで。妄想もいい加減にしなよ。そいつは俺の侍女なんだから、俺が何したって良いでしょ」


 どちらも肯定できないが、口を挟める雰囲気ではない。二人が落ち着くのを待とうかと黙っていれば、ハイドラさんと殿下の間で言い争いが始まった。状況は悪化するばかりだ。

 殿下がよろよろと立ち上がる。ハイドラさんは私を庇うように前へ出た。それを見た殿下が鼻で笑う。


「少しは立場を考えたら? おまえは所詮騎士でしかないのに。俺に逆らえる身分じゃないの、分からない? このままこいつを連れて出て行っても良いけど、そうしたらおまえは罪人になってもらわないといけないね」


 ハイドラさんは言葉に詰まる。忘れてかけていたが、殿下は” 殿下” だ。仮にも王族である。立場の違いを出されると痛い。口を噤んだハイドラさんに少しだけ胸がすいたのか、殿下はハッと乾いた声を漏らした。ふらふらとこちらへ歩み寄ってくる。足取りは酷くゆっくりだ。


「じゃあ、俺の。返してもらうから」


 彼は私の前まで来ると、少し屈んで綺麗な顔を無邪気に近づけてきた。かかった吐息の感触に一瞬だけ呆けてしまう。軽い力で腕を引かれた。気の抜けていた私の体は簡単に殿下の方へと傾く。背後の温もりが消えたと同時、ハイドラさんの慌てた声が漏れた。狼狽えて離してしまった手を伸ばしかけたところで何ができるわけでもない。


「いつまでそこで立ってるの。邪魔。出ていって」


 私の手をぎゅっと握りながら、殿下はハイドラさんに冷たく吐き捨てる。言われた彼は悔しそうに私へと謝罪を口にした。ドアノブに彼の手がかかる。恨めし気に殿下を見やりながらハイドラさんは後ろ手でドアを開けた。


「わ、勝手に開いた」


 ドアが重たく引きずられたとき、この場に似つかわしくない軽い声が部屋に響いた。私たちの視線が一斉に声の主へと向く。彼は驚いたとばかりに華やかな目元をぱちりと瞬かせた。


「うーん、侍女ちゃんと、ついでにレオンに会いに来ただけなんだけど。もしかして大変なところに出くわしちゃったかな」


 ヨシュア様は困った風に頬へ軽く手を当てる。

 突然の訪問に私たちが硬直する中、一番に回復したのはハイドラさんだった。がばりと頭を下げてから矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。止める間もなく今しがたここで起こった出来事を説明されてしまった。彼は私を殿下から解放したい一心なのかもしれないけれど、今ここで洗いざらい話す意味があっただろうか。横柄ながら不満を言ってしまえば、せめて私が辞めようとしていることは黙っていてほしかった。


「なるほどねー。じゃあ、俺が助けてあげる」


 ハイドラさんの話を遮ることなく聞き終えたヨシュア様はにっこりと私の方を向いて微笑んだ。背筋が凍る。


「レオン、今すぐ侍女ちゃんを家に帰してあげなさい」


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