18
「なんで何も言わないわけ?」
午後、執務机に向かっていた殿下は唐突に眉をひそめた。煩わしそうに頬杖をついた拍子、微かに揺れた机が軋む。
質問の意図が汲めずに首を傾げた。
殿下がたどたどしく執務をしている間、特に会話がないのは珍しいことでもなかったが、沈黙が痛いだなんて今更訴えるつもりだろうか。あるいは殿下が私に話しかけていたのを無視してしまった? いや、静かな部屋で殿下が声を出せばさすがに分かる。それとも何か言うべきことを失念していただろうか。
あれこれと心当たりを探ってはみたものの結局成果はなく、早々降参して軽く謝罪を口にする。答え合わせを求めたが、返ってきたのはピリリと冷たい視線だった。
「もういい」
彼は拗ねたように視線を落とす。書き仕事を再開しようと筆記用具を持ち直してはいるが、それから少し待ってもインクの滲みる気配がない。ここで引き下がるのは簡単だ。しかし楽な方を選べば被害が拡大するのは学習済みである。
鍛え上げてきた微笑みを向け、努めて穏やかな声色でもう一度詫びた。刺激しないように、否定しないように、時折明白な好意を仄めかしながら会話を繋げる。もはや金科玉条といったところか。
「おまえはさあ、やっぱり、俺のことなんてどうでもいいんでしょ」
くたりと白い額が天井に向く。髪の束がはらりとその肩口を滑った。
「俺が誰と何してても平気なんでしょ。俺は、おまえには俺だけって言ってくれないと嫌なのに、こんなにつらいのに、俺にはおまえだけじゃなくても良いんでしょ。そうだよね。だっておまえは俺のことなんて好きじゃないから」
だらしなく天を仰いだまま、ぎこちなく殿下の眼球だけがこちらを向いた。上品に生えそろった睫毛の隙間から恨みがましさが滴る。そんなことはないと申し開きをしたが、聞き届けてくれた様子はない。殿下は長い溜息をこれ見よがしに吐いた。
「ほらね、いつも口だけ。俺がこんな風に面倒くさいこと言った時だけ、おまえは俺のことを好きって言う。おまえじゃない女を食事に呼んだって、着替えを頼んだって、寝室に入れたって、おまえはなんの反応もくれなかった。おまえじゃない女と二人きりでいるのをいくら見せつけたって、おまえは気にしてさえくれない。……あ、今、やっと思い当たる節があるって顔した。それが証拠でしょ。おまえが傷付けばいいと思ってこんなことしても、苦しくなるのはいつも俺だけ」
確かに言われてみれば、他の侍女が殿下に呼ばれる機会が増えていた気がする。てっきり私を構いにくるヨシュア様を避けてのことかと思っていた。違ったらしい。殿下を見上げれば、ただ嫉妬をしてほしかったのだと濁った瞳が訴えている。とろんとそれが瞼の奥に隠れた。
少しの間じっとそうしていたかと思えば、殿下はずるりと姿勢を戻して億劫そうに立ち上がる。酔ったようにふらつきながらこちらへ向かってきていた。彼の手が力なく私の肩を掴む。縋るようにして崩れていくものだから、私もつられて床へ膝をついた。
「どうしたらいいの」
鎖骨のあたりに髪が当たって落ち着かない。手触りのいい髪束をどけるようにして撫でつける。ふるりと殿下の肩が震えた。
「どうすれば、ずっと俺のこと考えててくれる? 俺だけ、って思ってくれる? 俺ばっかりつらい。ほんと酷いよね、おまえは」
聞き取るのがやっとなほど不鮮明に呟かれた言葉は湿り気を帯びていて、胸のあたりがしっとりとする。返答するまでの時間稼ぎに彼の背中へ手を回した。きゅっと腕に力を入れれば、下からくぐもった嗚咽が聞こえる。
解決策の提案を期待されているわけじゃないのは承知していたから、私にできることはただ、そのままの彼を肯定することだけだった。
それから殿下は増々私を避けるようになった。反対に殿下の部屋へ足繁く通う侍女が増えている気がする。
これは良くない。仕事が減って楽ではあるが、主の評価がこれ以上落ちるのは後々私の評価に響きかねないのである。仮にも上に立つものとして風聞に気を使ってもらわねば下に付く人間にまでしわ寄せが及ぶ。
だからそのままにしておくのは危険だと感じたのと、先日の” 苦しくなってほしい” という要望も思い出して、私は嫉妬していますという素振りを見せることにした。そうすれば少しは落ち着くかもしれないと考えていた。
結果だけ言えば、作戦は失敗に終わった。
「俺はもっと苦しいよ」
殿下は私を見下ろして言う。なんとなく嫌になった。もうやっていられないと思ってしまった。ずっと美しいと認めていたその目が、私をねめつけたその目が、気に入らなかった。
辞めよう。ある種の閃きだった。逃げればいい。ここはきっと、それが許される。
思い付きのままにステラさんのもとへ向かう。彼女は中庭で花を眺めていた。呼びかけに振り返った彼女へ、辞めたいのだと告げる。驚かれた。
「どうしたのよ、いきなり」
ステラさんは心配そうに私の手を握る。じんわりと温かく柔らかい感触に、なぜだかとても安堵した。ぽつりぽつりと話をする。逃げたいと思うまでの経緯を、取り繕うことなく打ち明けた。すこし、正直に喋りすぎてしまったかもしれない。
「なるほどね。確かに近頃のあれはちょっと目に余るって私も思ってたのよ。嫌気がさすのも無理はないわ。できるなら引き止めたいところだけど、あなたを辛い目に合わせたいわけじゃないし。大丈夫、あなたはよく頑張ったわ。殿下には、自分で言える?」
優しい声色で語りかけられる。慣れているんだなと分かった。私はこくりと頷く。お別れの挨拶くらいはきちんとしなければ。心配ないというように笑みを作った。
「俺も一緒に行っていいかい?」
気配無く背後から聞こえた声にびくりとする。振り返ればハイドラさんが立っていた。彼は大袈裟に驚いた私たちに苦笑すると、爽やかに謝罪をしながらこちらへ寄ってくる。
「盗み聞きをするつもりはなかったんだが、どうしても気になってしまってね。相手はあの殿下だ。万が一ってことがあるだろう? 心配なんだ。ついていくよ」
実を言えば強引な一面を見て以来、彼がほんの少しだけ苦手だ。けれど温和で頼りがいがあり、何より顔が良い。後ろで控えていてくれるのならばとても心強いし、ステラさんも良い提案だと賛同している。同行をお願いしようかと迷ったが、殿下に余計な刺激を与えても困ると思い直して断った。
「それもそうか。じゃあ、何かあったら遠慮なく頼ってくれ」
ハイドラさんはあっさりと納得すると、元気づけるように私の頭を撫でた。便乗してステラさんも撫でてくれる。二人にお礼を言って、とりあえず自室に戻ることにした。
「送っていくよ」
ハイドラさんが追いかけてくる。邸内なので必要はないが、拒否するのも失礼な気がしてお願いした。
道中、私の実家に縁談を申し込んでおいたという報告を聞いた。初耳だ。好意的だなとは感じていたが、まさかそう来るとは予想していなかった。せめて事前に教えてほしかったけれど、黙っておくことにする。
「だから君が辞めるって決めてくれて嬉しいよ」
怖いと思ったが、嫌な気持ちではなかった。その日の夜はぐっすりと眠った。
明けた次の日、私は覚悟を決めて殿下のもとへ向かった。殿下を起こすのは未だ私の役割なので、彼が起床しているのは確認済みである。
緊張して汗ばむ手のひらを握りしめてノックする。素っ気ない返事があったのでドアを開けた。彼は一人で本を読んでいた。顔を上げて入室してきた私を認めると、殿下は表情を歪める。私の雰囲気がいつもと違うことに気が付いたらしい。明らかに動揺を見せた殿下から、喉の引きつる高い音が鳴った。
先手必勝とばかりに私は口を開く。暇がほしい旨を伝えた。
「俺の許可なく辞められるわけないでしょ。勝手に離れていくなんて許さない」
聞き終えた殿下の第一声はこれだった。嘲りを湛えて笑んでいる。簡単には逃げ出せないのだと悟った。




