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 噂というものは、どうしてこうも当人の確認もなしに尾ひれ背びれを飾ってゆくのか。

 お邪魔しましたと出ていこうとするステラさんの誤解を必死に解き、なんとかあの部屋から逃げては来たものの、助かったのは一時でしかなかった。

 ぽろりと彼女が同僚に一言二言私たちの様子を話したところから、ありもしないロマンスが周囲に波及しているのである。ヨシュア様もヨシュア様で、噂については否定も肯定もせず意味深に対応するものだから余計に誤解が広まっていくのだ。彼はこの状況を楽しんでいるのかもしれないが、あいにく私は楽しめるほど達観していない。

 噂など雲のごとく集まり霧のごとく散ずるものだ。そう思ってしばらくは気にしていなかったのだが、とうとう殿下の耳にまで届くようになってしまったのはいけない。やっぱりあいつの方が、全部嘘だったんだ、どうせ俺なんて、と殿下の卑屈さも増すばかりでご機嫌取りの難易度が日に日に上がっている気がする。




「飲み込めない」


 昼食を口に含んで何度か咀嚼した殿下は、ぺしゃりと中のものをこぼした。じわり。クロスがソースと唾液で汚れる。

 あまりの不作法に思わず眉を顰めた。いつものことながら給仕が不在なので、部屋にいるのは殿下と私だけだ。ゆえに私が始末をするしかない。心底嫌だ。それが惚れ惚れするくらいに整った唇からこぼれ出たものだとしても。他人の咀嚼した残骸に触れたいとは思えない。私だって食事中なのだ。何か言われてから動けばいいかと見なかったことにした。

 殿下はじっと動かない。助けを求める素振りどころか、こちらを見ようともしない。テーブルをひっくり返される前に食べきってしまおうと料理を詰め込んだ。



 私が食事を終えても殿下は茫然としたままだった。時折震える長い睫毛と、ゆっくりとほんの少し上下する胸以外に動く様子はない。

 観念して食欲が無いのかと尋ねてみたが、彼は同じことを言うだけだった。


「飲み込めない」


 苦しそうに、不可解そうに、殿下が息をする。彼は緩慢な動きで料理を掬った。それをじっと見つめてから、舌先でつつく。はしたないと咎めれば、彼は一思いに料理を口に放り込んだ。そして何度か噛みしめ、転がし、吐き出す。

 ぺしゃり。嫌な音だ。


「わかんなくなっちゃった。今までどうやって飲み込んでたのか、わかんない。味も、あんまりしないし。ごっくんって、俺、もうできない」


 からん、と殿下の掴んでいたフォークが落ちた。それと一緒に料理の滓が飛び散る。とうとう殿下が白痴に見えてきた。


「ね、食べさせて」


 ゆらりと殿下の伏し目がちだった瞼が上がる。視線が合った。私が食べさせたところで嚥下自体は本人にしかどうしようもないと思うのだが、ここで首を振る選択肢は当然無い。新しいフォークを持って彼の傍へ寄る。

 少量を掬って殿下の口元まで持っていく。潤いの足りていない唇が薄く開く。その隙間にそっとフォークを差し込めば、ぱくりと料理が消える。むず痒さを覚えつつフォークを引き抜いた。

ゆっくり噛んでくださいね、だとか何とか言いながらフォークを皿に置く。殿下は懸命に咀嚼している。そんなに焦らなくても良いのに。舌を上に寄せて、奥に引いて、息を少し詰めて。それだけで飲み下すことなど容易だろうに、彼にはできないらしい。十分に噛んだ頃合を見計らって彼の背に手を当てる。

 私の声に殿下が従うようにして喉を鳴した。こくりと控えめに首筋が張る。無事に成功したと思ったのだが、口と喉元の動きを見るに失敗したらしい。


「う、ぇ」


 殿下が小さく嘔吐いた。奥歯が噛みしめられている。縋るように見上げられた瞳に薄く膜が張っていた。そしてぺしゃり。

 無残な形になってしまった料理から目をそらす。もう一度と震える声でせがまれた。出来るようになるまで続ける気らしい。


 ようやっと成功したのは皿の料理が半分になる頃だった。そろそろ腕も疲れてきた。一度成功したのだからあとは何とかなるだろう。同じようにして数口殿下に料理を飲み込ませた。



「待って」


 繰り返していると、突然フォークを持つ手が掴まれた。そのままするりと握っていたものを奪われる。もう要らないのだろうか。

 やっと解放されると肩の力を抜いてすぐ、取り上げられたフォークは料理を乗せて私の口元に戻ってきた。


「あげる。口、開けて」


 いらない。自分の食事は既に終えているし、いくら何でも他人の食べかけを誰が食べようと思うのか。無残にも散らかされた料理を見てしまった後では尚更だ。さすがに無理だと身を引こうとしたのは失策だった。キッと殿下の目付きが鋭くなる。


「食べなよ、ほら。いるでしょ。俺もおんなじようにして、食べさせてあげるから。ね、俺と、おんなじやつ。食べて」


 フォークの先が唇に食い込む。ぷつりと穴が開きそうだ。痛みで反射的に顔を背ける。殿下が呻いた。まずい。悪手しか打てていない。


「っで! なんで! 食べてよ、ねえ!」


 ぐしゃりと肩を掴まれた。その反動で私の体が傾く。ゆらりと体勢を崩して座り込んだ。金属音が跳ねる。それにはっとしたらしい殿下は、情けなくしゃがみ込んで声を落とした。彼の手が優しく頬を擽ってくる。


「ごめんね。傷つけたかったわけじゃなくて。……あいつとは、こういうことしたって聞いたから。すっごく妬いて、寂しかったんだ。ね、許して。こっち向いて。おねがい。おまえは俺の侍女でしょ。ちゃんと優しくしてあげるから、怒鳴ったりしないから。口、開けて」


 盛大な誤解とともに、再びフォークの先が口元へ向けられる。毎日磨かれている床とはいえ、一度落としたものを食べさせるつもりらしい。こんなことなら初めから素直に従っておけば良かった。もう言っても仕方のないことだけれど。

 躊躇いがちに口を開けばねじ込むようにして食べ物が入ってきた。嘔吐きそうになったのを殿下の手で口を塞がれ、吐くなと無言の圧力がかかる。なんとか無理に嚥下した。


「ん、いい子。えらいね、すごくえらい」


 口内のものが消えたのを確認すると、殿下はふわりと表情を緩めた。もう一口掬おうと立ち上がったのを見て、慌てて止める。

 もうお腹はいっぱいだし、ヨシュア様ともこんなことはしていない。そもそも、これは殿下の食事であるので私が食べるものではない。そんなことをつらつらと並べ立て、なんとか殿下に食事を再開させた。


「ふうん。疑わしいけど、おまえがそこまで言うなら信じてあげても良いよ」


 先ほどまでより幾分機嫌の良くなった殿下は、媚びるように私を見上げる。信じてくださいと懇願するように頷けば、彼は大袈裟に切ない表情を作った。


「俺はおまえとあいつが仲良くしてるって聞いて、食事もできなくなるくらい傷付いたんだよ。ただの噂だから本気にするなって言われても、ちゃんと態度で示してくれなきゃわかんない。心配で仕方なかったのに。おまえはずっと俺の側にいてくれるって信じたいのに、おまえは俺を不安にさせてばっかりだね。ずるいよ、俺ばっかり妬いて。俺ばっかり、おまえのことが必要で。おまえにとって俺は特別じゃないってわかってるけど、俺だって……俺のせいで、おまえが苦しくなってほしいよ」


 殿下はそう言うと席を立った。もう食事はいらないらしい。執務室へ行くから付いてくるなと突き放すような言葉を残して、彼は部屋から出ていく。

 残されたのは、唖然とする私とぐちゃぐちゃになった昼食である。テーブルの上を視界に収めて頭が痛くなった気がした。人を呼んでこよう。きっと一人では片付けられないだろうから。


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