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かねてよりこの国の第一王子は病弱であると聞いていた。だから私も皆も訃報に驚きこそしたが、いつかはこうなると国民たちは薄々と気付いていたのだ。こんなに早くその時が来るとは思っていなかったけれど。
しばらくは、なんとなく邸内の雰囲気も暗く静かになりそうだ。まあ正直なところ、明るかったことなどあまり記憶にないので別段普段と変わりはないのかもしれない。
当然、次期王として推されるのは第二王子ヨシュア様である。王太子交代に伴って、彼もきっと今頃は忙しくしていることだろう。と、考えていたのに。
休憩のため侍女用のラウンジへ足を踏み入れた瞬間目にしたのは、供も付けずに寛ぐヨシュア様だった。どうしてこんな所にいらっしゃるのか。思わず開いた口をそのままに目を瞠ってしまう。
「あ、どうしてって顔してる」
ぴたりと心中を言い当ててから、彼は華やかに表情を緩めた。細い指がふわりと柔らかそうな髪を掬う。それからちらりと覗いた耳に目を奪われた。相変わらず煌びやかな雰囲気のある人だ。ひっそり殿下と比べた。あまり似ていない。
「そんなの、きみに会いたかったからに決まってるのに」
嬉しいですとでも言えば良いのだろうか。とりあえず社交辞令が口をつく。
「またまたー、思ってもないくせに。そういうところが良いんだけど」
思わずどきりとしてしまったのを隠すように返事をしたが、心の内を見透かされてしまったらしい。こんなに軟派な人だったかと記憶を探ったが、いかんせん関りが少ないので何とも言えない。
ゆっくりと後ろ手でドアを閉めてから、どうしたものかとこっそり息を吐いた。ヨシュア様がこんなところにいるのは非常に拙い。万が一侍女専用のラウンジから王太子が出てきたところを見られれば、何か良からぬ噂がたたぬとも限らないのである。時期が時期ということもあるし、自身の身分をもっと重んじてはもらえないだろうか。忙しさに参って息抜きに来たにしても、もう少し隠れ場所を考えてほしい。
できるだけ失礼にならないように気をつけながら、何のつもりでここにいるのかを尋ねてみる。多少怪訝に思ったのが滲んでしまったが、彼は一切気にした風もなく私に微笑んだ。
「だから、きみに会いに来たんだってば。嘘じゃない。報告したいことと、あとはまあ……お願いもあったしね」
せめてものおもてなしとして紅茶を淹れてみる。コトリと差し出せば、ヨシュア様はじっとその水面を見つめたまま大人しくなった。数秒の間、動こうとしない彼を眺めていたが毒味が必要だったかもしれないと気付く。慌てて口を開いたところで、私が声を出す前に紅茶は音もなく彼の口に含まれた。
よくわからない間のとり方をする人だ。
報告とお願い。何だろう。殿下絡みだろうか。
どうにか殿下に見つかる前に帰ってもらえないか思案しながら会話を続ける。もう彼のペースに呑まれてしまっているので、手を打つには遅いと言えばそれまでなのだけれども。
ヨシュア様はひらりと手招きをして、向かいのソファへ座るよう促した。王太子を前にして座る度胸はないのだけれど、逆らう度胸だってない。他に誰もいないからと諭されて恐る恐る腰を下ろした。緊張する。今誰かが部屋に入ってきたら、間違いなく飛び上がるだろう。私がソファにきちんと身を沈めたのを見届けると、ヨシュア様はぐっと身を乗り出して私をその瞳に捕えた。
「俺ね、王太子になったんだ」
今更である。
すでに国中の誰もが知っているほどの事実だ。それをさも大きな秘密でも共有するように、ヨシュア様はきらきらと弾んだ調子で囁く。どう反応するのが正解なのか。答えに窮して閉口する。散々迷った挙句、当たり障りなく祝いの言葉を並べればヨシュア様は眉を下げて苦笑した。
「うん、ありがとー。でも、そういうことじゃないんだよね。俺はね、王太子になったんだ。あーううん、言い方が難しいな。きみに知っててほしいのは、これは上から降ってきた椅子じゃなくて、俺が欲しいと思って奪った椅子なんだってこと。これなら伝わる?」
前に屈むような体制だからか、彼はじっと私を見上げるようにしてのぞき込んだ。上目遣いが上手なところは、兄弟で似ているらしい。嫌いではないけれど、いやな共通点だ。
さて、早くも前言撤回である。今の言葉が本当だとして、国中の誰も知らない事実を知ってしまった。自分が第一王子を葬りましたという告白も同義。” さも大きな秘密でも共有するように?” 本当に大きな秘密だったのだからお手上げである。私にどうしろというのか。できることなら知りたくなかった。さっと全身から血の気が引いていくのがよくわかる。
「ああ、よかった。伝わったみたいだね」
そんな私を見て、言った本人は表情の一つも曇らせることなく寛いでいるのが恨めしい。あるいは冗談のつもりだろうか。一言二言、それとなく探りを入れてみたが不発に終わる。撤回する様子もない。それどころか興が乗ってきてしまったようで、ヨシュア様は上機嫌にティーカップの縁を弾いた。
「大丈夫だよ。知ってるのは俺と、実行犯と、それからきみだけ。別に知ったからって何かを強要するつもりもないよ。広めるのも自由だけど……きみが言いふらしたって誰も信じないし、そもそもきみは猥りに騒ぎ立てるような子じゃないよね」
ふふ、と漏れた笑みが恐ろしい。私はただ呆けたまま、黙って彼の話を耳に流し込んでいる。早いところで耳を塞いでおけばよかったという後悔が心の内を掠めたが、もはやなんの益体もない。
「まあ、大事なのはここから先だよ。どうして俺が面倒ばっかの王太子なんかになりたかったかって話ね。単刀直入に言うと、きみのせいなんだよねー」
ばちりと破裂音が鳴った気がした。私のせい、とは。知らない間にとんでもないことをやらかしてしまったのかと動揺する。急に心臓がうるさくなった。心なしかさっき引いた血の気が戻ってきた気さえする。
「きみを、俺のお嫁さんにしようと思って」
視界が揺れる。ゴクリと飲み込もうとした唾液が気管に入って咽た。げほげほと淑女らしからぬ声を漏らしながら、今にも急に止まってしまいそうな心臓を押さえた。大丈夫かとヨシュア様が心配そうに首を傾げたのが見えたけれど、欠伸をかみ殺したように穏やかな声色で台無しである。
一体何を企んでいるのか。思わず疑いと警戒の目を向けてしまう。
「えーちょっと、そんな顔しないでよ。もっと嬉しそうにしてくれると思ったのに。結構本気なんだけどなー。きみのこと気に入ったからさ、レオンから取り上げて俺と結婚してもらおうと思ったんだよね」
ヨシュア様が堂々とその長い足を組み直す。もしかして、はじめに言っていたお願いとはこれのことだろうか。ならばぜひ遠慮したいのだけれど、そんな権利が私にあるとは思えない。権力とは残酷なものだ。
未だ喉に残る違和感と引きつる顔面を必死で我慢しながら一瞬だけ目を伏せた。
「でも、きみの家柄だと王族の正妻としてはちょっと不足でしょ? 俺は気にしないんだけど、やっぱり周りがうるさいんだよ。で、妾妃ならアリかなって思ったんだけど、知っての通り、妾妃って王と王太子しか迎えられないわけ。それで困ったなーって時に閃いたんだよね。だったら俺が王太子になればいーじゃんって」
さも名案とでも言いたげに、彼は指をたてて宣言した。そんな思い付きで暗殺されては第一王子もたまったものではないだろう。呪われても文句は言えない。
「で、どうかな。なってくれるよね、俺のお嫁さん」
流石とも言うべきか、優雅に微笑むその口元さえ有無を言わせぬ圧力に満ちている。是とも否ともとれない喃語を口ごもらせていれば、突然ガチャリと無遠慮にドアが開かれた。
「ここで何してんの。出てって」
ああ、しまったな。ばっさりとそう言って王太子を切り捨てたのは、普段通り不機嫌な殿下だった。




