12
日も昇りそうな時間になってから、ようやっと殿下の寝室を後にした。第二王子の訪問は昼過ぎの予定である。少しくらいなら寝られるだろう。殿下のおねだりを撥ね付けられなかった私も全く悪くないとは言い切れないかもしれないが、最低限の睡眠時間くらいは保証されてほしい。余計な体力を消費しないようゆるゆると就寝の身支度をして床についた。
翌朝、ステラさんの豪快なモーニングコールで目を覚ました。なかなか起きてこない私を心配して訪ねてきてくれたらしい。寝ぼけたままの頭でつらつらと言い訳をすれば、ステラさんは少しだけ呆れ気味に笑う。
「まったくもう。そんなの私の仕事じゃありませんって断ればよかったのに。まあ、いいわ。どうせ殿下もギリギリまでベッドの中でしょうし、ヨシュア様をお迎えする準備も順調だし。もうしばらくは寝ていても大丈夫よ。ちょっとだけ早めにお昼ごはん食べて、それから仕事になさい」
人差し指を立ててそう言ってくれたステラさんに頷いてお礼を言う。彼女がそれを聞き届けると、ドアはパタンと音を立てて閉まった。
昨日の残業地獄は何だったのか、いとも簡単に半休が手に入った。部屋で一人そのことに動揺しつつも、喜びを顕に二度寝を決め込んだ。
かと思えば睡眠時間はあっという間に溶けてゆく。気がつけば日は高く昇りきっており、今にも歌いだしそうなくらいに機嫌が良い。
もぞもぞとベッドから這い出て仕事に出る準備をする。ラウンジで黙々と食事をとっていれば、ステラさんがひょっこりと顔を出した。彼女も今から昼食らしい。
日頃の些細な不満から最近の楽しみまで、ステラさんの口はよく回る。もちろん良い意味で。彼女はちゃっちゃと皿を空にするとガタリと快活に立ち上がった。
「じゃ、食べたら殿下のところに行ってきてちょうだいね。そろそろ着替えなりなんなりさせておかないと、ヨシュア様が予定より早くご到着なさってしまうといけないから」
ぱたん。ドアが軽快な音をたてる。私は皿に残ったスープを平らげると殿下のもとへ向かうことにした。
入室の許可と合鍵があるとはいえ、一応ドアの外から声をかけてみる。予想を裏切らず返事はない。耳を澄ませてはみるものの、届くのは遠くから聞こえてくる侍従や使用人たちがたてる物音や話し声だけだ。普段よりも随分と活気があるらしい。いや、色めきだっていると行ったほうが正しいのかもしれない。尤も、第二王子が直々にこの邸を訪ねなさることなんて滅多にないのだからさもありなんといったところだろうか。
ドレスのポケットから鍵を出す。殿下付きになって日は浅いけれど、すっかり慣れてしまった動作だ。あの殿下がドア越しに話しかけただけで素直に起床するはずがないのだ。さっさと鍵を開けて部屋に足を踏み入れた。そしてその先の寝室まで進む。本来ならば然るべき礼をとって一言なにか添えるべきなのだろうけれど、私以外誰もいないのだから適当で良いだろう。万が一見られていたとしても咎められやしない。ステラさんに似てきたかな、と内心苦笑した。
ベッドの方を見ると殿下が眠っていた。
手始めに窓際へ寄ってカーテンを開ける。薄暗かった室内が一気に白黄色の光に包まれる。殿下を振り返るが、眉一つ動かなかった。
相変わらず綺麗な顔だ。もとより色素の薄い肌と髪が輝き、透き通るように美しい。美術品としてなら今よりも価値があったろうに、と不敬極まりないことを考えて頭を振った。王族より価値のある美術品なんてあるものか。
そっと殿下に近づいて声をかける。起きてくださいと控えめに肩を掴んで揺らせば、ううんという悩まし気な声とともに殿下が目をうっすら開けた。それを好機とたたみかける。もう昼を少し過ぎているのだ。ヨシュア様もじきに到着すると聞いているから、殿下にもそろそろ動いてもらわなければならない。
「うわ、眩し……いいよ、用意とか。適当で」
殿下は目を手の甲で覆った。そのまま寝ているつもりらしい。けれどそういう訳にもいかないのである。私は殿下の手首を掴むと無理矢理に引き寄せた。折れそうなくらいの細腕は、いくらなんでも私よりはしっかりとしていたようで簡単には剥がれてくれない。
昨日言ったではないか、明日はいい子にすると。非難するようにそう揺らせば、迷惑そうな瞳とかち合う。
「言ってない。気のせいじゃないの」
仮に私の気のせいだったとしても、今日の夕方まではいい子でいてもらわなければ困る。しばらく不毛な争いを繰り広げ、先に音を上げたのは殿下の方だった。どうやら体力面では日頃不摂生をしている殿下よりも侍女として働き詰めの私に利があったらしい。ぐったりと上体を起こした殿下は恨めし気に私を見上げた。すかさず水を差しだしてから口を濯がせ、温めた濡れタオルを顔面に押し当てる。弱弱しい抗議があった気がするが、知ったことではない。
一通り朝の支度を済ませ、着替え係を呼びに寝室を出ようとする。礼をして顔をあげた直後、殿下が私を呼び止めた。彼は何か言いたげに口を半開きにさせてから俯く。
「い……、で、ね」
しばらくの間ののち、やっとのことで絞り出された言葉は聞き取れない。無礼を承知で聞き返したが、何でもないとやはり教えてはくれなかった。やや気になるけれど時間も時間だ。そろそろ急がなければと退室することにした。
殿下の着替えと食事を済ませ、なんとか間に合ったとほっとする暇もなく第二王子ご到着の知らせが届いた。取り次いでくれた侍従仲間にお礼を言って窓から門の方を見下ろせば、立派な身なりの衛士が見えた。
いまだに気分が優れないと駄々をこねる殿下を半ば引きずって貴賓室へと連れていく。座ってヨシュア様を待っている間もいかにも不服ですといった態度だ。何をそんなに嫌がることがあるのかと問うてみたが返ってくるのは不機嫌な溜息だけだった。
「いつまでそこにいるつもりなの? 同席なんてしなくていいから、さっさと出てって。邪魔だし、あいつが帰るまで自室で休んでれば。ん、そうだ、そうして」
それどころか、殿下は私を睨みつけると棘のある口調で追い払おうとする。評判の第二王子を近くで見たい気持ちはあれ、主にそう言われてしまっては下がるほかない。半休どころかほぼ全休というボーナスも嬉しい。
恭順的な態度で頭を下げる。そうして出口に近寄ってドアを開けようとした時、がちゃりと遠慮ない音と共に伸ばした手が空を切った。思わず間抜けな声が漏れる。
「レオン! ……っと、ごめん」
晴れ晴れとした呼びかけが室内に響き渡ったかとおもえば、即座に廊下を掛ける足音と焦ったような侍従たちの声が聞こえた。ついでに背後からは舌打ちが届く。ドアの代わりに突如出現した彼は、私に向かって朗らかに謝罪の言葉を口にした。
いきなりのことで一瞬固まってしまったが、十中八九この方がヨシュア様だろうと急いで道を開けて礼をとる。そのまま身分に相応しい返事をしながらじっとしていた。相手は第二王子だ。いくら私の精神力がステラさんたちのお墨付きでも、緊張でどうにかなりそう。
もうヨシュア様も見られたことだしここにいる意味はない。さっさと退出できないだろうか。そんなことを考えてちらりと殿下の方を見やれば、さっさと行けと顎でしゃくっている。許しを得た罪人の気分だ。いやそれは大袈裟すぎるけれど。
殿下の合図に気が付いたヨシュア様は再び私を振り返った。
「ああ、そういえば部屋を出るところだった? 下がって良……あれ、きみ」
ヨシュア様がじっと私を見下ろす。殿下とは違うタイプの華やかな美形だ。一歩詰められた距離にどきりとして俯けば、容赦なく屈んで覗き見られる。ひっ、と情けない声を上げて己の主に助けを求めたが、殿下はそれを鼻で笑うだけだ。
名を尋ねられたので恐る恐る答えれば、納得のいった様子でヨシュア様はニッと口角を上げた。
「なるほど、きみがレオンのお気に入り! うんうん、だったら下がる必要なんてない。用事がなければここにいなよ。前から話してみたかったんだ」
ヨシュア様がキラキラと表情を輝かせた。対照的に殿下の表情は曇っていく。そして私は非常に悪い居心地の中、是と答えるのだった。




