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王族の枕元に腰掛けている。意識すればするほど冷や汗が止まらなくなる状況で、その上さらに本を読み聞かせろと仰せつかってしまったのは悲運としか言いようがない。とっくに成人したはずの男が、寝る前の読み聞かせをせがむとは。幼少期のあるべき経験が足りていないのかもしれない。緊張を湛えた固い自分の声が殿下の寝室に響く。
「――ところが、ジュリエッタはせっかく貰った毒薬を使おうとはしませんでした。ぐっとあおってしまえば、目の前のロメオから逃げることができるのに。
『どうして』
ロメオは呟きます。彼には理解できませんでした。散々ジュリエッタを傷つけてきたというのに、これからも傷つけてしまうだろうに、彼女がこうして側にいてくれることが。自身から解放してあげられる、せっかくの機会をふいにしようとしていることが」
ゆっくりと文字を追っていく。声に出してはいるが感情移入まではできなかった。本当に童話か? 話が重すぎる。絶対に子供向けではない。純愛に見せかけて暴力的に歪んだ劇を、殿下は嬉しそうに聞いていた。
「続けて」
急かすように殿下がこちらへ手を伸ばす。白い指がはらりとページをめくった。
「ロメオには耐えられませんでした。これ以上唯一の愛する人、ジュリエッタを苦しめたくはありません。彼女を幸せにしたいと何度も願ってきました。けれど、ロメオにはそれが出来なかったのです。彼は自分を律するすべを持ってはおりませんでした。自身に優しく微笑むジュリエッタを見て、ロメオは決意を固めます。今度こそ彼女を守れる男でありたい。そう心に誓って、ロメオはジュリエッタに渡した瓶を取り上げ、毒を含みました。何よりも自身から彼女を守り通すべきだと思ったからです。
『どうして』
そんなロメオの心を知らないジュリエッタはたちまちに青ざめます。ロメオは最期にジュリエッタを優しく抱きしめようとして、崩れ落ちました。カランと瓶が音を立てます。瓶の中にはまだ少し、毒が残っていました。ジュリエッタはすぐにそれを拾うと、躊躇なく飲み干します。ロメオは朦朧とした意識の中、それを見ていました。
『愛しているわ』
ジュリエッタがロメオにキスをします。
『僕も、』
愛しているよ。ロメオの返事はジュリエッタには聞こえていませんでしたが、そんなことは二人にとって問題ではありません。それから二人は幸せそうな顔で、一緒に冷たくなっていきました」
白黒の挿絵には男女が寄り添って眠っていた。めでたしめでたし、とでも付け加えておけば良いのだろうか。こんなものを幼少期に充てがわれればまともな性格に育つ可能性の方が低い。
ぱたん。やけにしっかりした素材の本を閉じる。本はそれなりの重量だったので腕が多少痛む。さて殿下は眠っただろうかと見下ろせば、とろんとした眼でこちらを見つめ返していた。
「もういっかい」
乞う口調は子供っぽい。眠る前のほんわりとした腕はせっかく閉じた本を引き寄せ、また最初のページを開く。
横目で時計を確認して心が沈んだ。明らかに時間外労働だ。喉も乾いた。はやく部屋に帰りたい。殿下より先に私が眠ってしまいそうだった。
「ねえ、お願いだから」
渋る私の袖を殿下が引っ張る。きゅっと掴まれたそこにしわが寄る。この手を振り払えたらどんなに楽か。
ひょっとすると、出来るかもしれない。一瞬だけ天啓が下ったように思えた。立場上逆らえないとはいえ、休む時間が欲しいからと断るのは不可能ではないはずだ。殿下が私を糾弾したとしても、おそらく私の味方は多い。疲労からくるぼんやりとした頭でそんなことを思い付いた。
「だめだよ、許さない。もういっかいだけでいいから、もう少しだけでいいから、俺のそばにいて、ひとりにしないで、おいていかないで」
殿下、と切り出そうとしたところで先制攻撃を食らった。ひしと握られた袖にはたいした力が入れられているわけでもないのに、私の体は縫い付けられたようにその場を離れない。
殿下が寂しそうに眉を下げた。今にも泣きそうな息遣いで彼の肩が震えている。私の敗北は決まったも同然だった。
私はこの顔に弱い。
「明日、ちゃんといい子にするから……今だけ、ね? ずっとなんて言わないから、もうちょっとだけ俺と一緒にいて」
自分の武器と私の弱いところを利用した見事な追い打ち。私の扱い方を学習されている気がしてならない。
浮かせようとしていた腰を落ち着けて、殿下の布団をかけ直す。それに安堵したのか殿下はようやく袖を離してくれた。結局折れるのはいつも私だ。明日の予定はきちんと出席してもらうことを条件に、もう一度だけ読むと約束をする。
「ん、わかってる」
明日はヨシュア様が来ると聞いていた。第二王子の名を出した途端、殿下がむっとしたように口を尖らせる。ヨシュア様は周囲の評判もすこぶる良く、物腰の柔らかい聡明な方ともっぱらの噂だった。殿下はそんな兄に思うところがあるらしい。といっても、おそらくは劣等感の類に違うまい。
「あいつ、なんでいきなり来るなんて言い出したんだろう」
殿下がぽつりと口を開く。天井を仰ぐ眉間が不可解そうに寄せられていた。
ヨシュア様の訪問が決まったのは確かに急なことだった。要件だってなんともないことで、ただ弟の顔を見にくるらしいのだ。忙しい御身だろうにわざわざこちらまで出向いてくるのは、なんというか兄弟愛というやつだろうか。先日のこともあったから、殿下を心配して来るのではないか。思いつきで出した言葉を殿下は鼻で笑った。
「そんなこと、あるはずない」
絞り出された声にいつもの弱々しさはなく、兄を嘲るような色が僅かに含まれているようだった。その雰囲気に態度には出さずとも動揺する。いつもの自虐思考からくる決めつけではなく、あの兄にそんな情緒はないとでも思っているようだった。
ふいに殿下がもぞりと動いた。細腕は私の膝上を目指している。そのまま一ページ目が開かれたままの本が軽く叩かれる。そういえば、もう一周しなければならないのだったな。
若干の憂いを滲ませた私の指先と、若干の苛立ちを纏った殿下の指先が重ねられる。さっきまで温かかったはずのそれは幾分冷めてしまっていた。殿下の眠気が飛んでしまったようだ。果たして今一度の読み聞かせで寝入ってくれるだろうか。
「それはここよりもずっと遠いところのお話で、」
冒頭の一節を音読する。私がそれを始めると殿下は満足そうに目を閉じた。時折視線を感じるが、口を挟まれる様子はない。
そうして夜は更けていった。




