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ノックをしようと手をきゅっと軽く結んだとき、殿下の寝室から荒々しい音と使用人の軽い悲鳴がした。思わず静止してしまう。今日は機嫌の変動が酷いらしい。いつものように殿下を起こした時には少し反応が鈍い程度だったのだけれど。
毎日、私が朝食の手配をしている間に着替えていてもらうのがいつもの流れで、ステラさんが選んだセンスの良い服をつい先ほど彼に渡したのだ。いつもと違ったのは一向に着替える様子が無かったことだった。見かねて適当な使用人に着替えを手伝うよう言ったのは、この様子を考えるに間違いだっただろうか。
扉の向こうで困り果てているであろう本日のヒステリー被害者に心の中で合掌する。物騒な物音に聞き耳を立てた。多少は慣れてきたとはいえこうも暴力的な騒音にかち合うと緊張する。いつまでもこうして立ち止まっているわけにはいかないけれど、当然気は進まない。せっかくの朝食が冷めてしまうからと無理に理由をつけて扉を叩いた。何があったのですかと一応の心配を滲ませ、緩やかながらも無遠慮に部屋へ足を踏み入れた。
「は、ちょっと待っ……」
殿下の焦ったような制止が耳に届く。しかしながら私を止めるには遅すぎたようで、彼の言葉も虚しく私はばっちりと殿下を視界にとらえてしまった。
散乱した衣服と装飾品、蹴り上げられ転がった椅子、割れた照明、投げつけられた枕、動揺している使用人。中でも目立つのは肩で息をする半裸の殿下である。何があったのかを正しく理解するには足りないが、どんな状況かを考えるのには十分だ。困りきった様子の使用人は私が入室してきたのを認めると、助かったとばかりに一礼して部屋を出ていった。薄情なものだ。せめて私に最低限の説明をしてから出ていってほしかったが、引き止める間もなかった。仕方がない。使用人から殿下へ視線を戻し、彼の機嫌を伺おうと口を開く。
なにか気に入らないことでもあったのかと問おうとして、言い終わらないうちにばさりと布を投げつけられた。王族の身につけるものだけあってするりと頭を滑って落ちていく。ドレスを伝い、つま先に被さった。これは相当荒れているなと顔を上げれば一双の明眸がキッとこちらを睨みつけてくる。窓から差す朝の光とは不釣り合いだと思った。
左の肩から肘にかけて、白い肌に無数の線が這っているのが目につく。ひやりとした。不均一な茶色いそれはあまりに頼りない細腕と相まって痛々しい。私の視線に気がついたのか、殿下は傷痕を隠すように自身の両肩を抱いた。
「出てって」
短く鋭い拒絶が、掠れた声に乗っていた。足元の布を拾う。彼が今日羽織るはずのものだった。直接肌に触れさせるには冷たい。吐く息を最低限に、一歩彼へ近寄った。殿下の側へ寄るのに必要な距離はあと五歩にも満たない。
風邪を引いてしまいますよ、と適当な言葉を吐く。何も気にしていない風に、微笑む調子で殿下との距離を詰めた。持っている上着を殿下の肩にかければ彼の眉間に皺がよる。それでも振り払われなかったのは、やはり肩のそれを隠したかったからだろうか。殿下はぐいと上着を引き寄せて前を合わせた。
「放っておけばいいでしょ、俺のことなんて」
私だってそうしたい。けれども手配した朝食をどうしろ言うのか。
「いらない。もう下がって。こっち見ないで」
そっぽを向いた殿下は乱暴に髪を乱して唸った。こちらの話を聞いてくれる気はないらしい。こうなってしまうと暫くは要望通りに放っておくのが得策だろうと頭を下げた。
邸内で待機しているので何か用があれば遠慮なく、なんて言葉を並べて踵を返し絨毯を踏みしめたとき、靴裏で硬い何かが音もなく沈んだ。ガラスの破片を踏んでしまったようだと納得してから、そういえばと立ち止まる。
散らかった部屋はどうするつもりなのだろう。柔和さを顔面に貼り付けながら頭の隅で首を傾げた。殿下自ら掃除することはない。きっと彼にその気はないし、あったとしても出来るとは思えない。よって使用人にしてもらう他ないのだが、今の彼が誰かの入室を許可するとは考え難かった。
破片で彼が怪我をしないとも限らない。掃除に人を呼んでも良いかと殿下を振り返り、お願いするように彼を見据える。殿下は少し考え込んでから、微かに顎を引いた。てっきりまたいらないとぶっきらぼうに撥ね付けられるものだと思っていたので、意外なことに一瞬戸惑う。この数分間でいくらか落ち着いてきたのかもしれない。
突然、不明瞭ながらも殿下の口角が上がった。
「おまえも大変だね」
決して私を労う言葉通りの台詞ではなかった。自らを侮蔑するような笑みが憂いと一緒になって咲いている。そんな鬱々とした表情すら硝子細工のような美が垣間見えるのだから、思わず瞠目した。
「あの使用人みたいにさっさと出ていけばいいのに、俺を心配してる振りなんかしてさ。ほんと、俺に媚びるの上手だよね。いつも勘違いしそうになるけど、でも、おまえが何度も溜息を飲み込んでるの、ちゃんと知ってる。面倒だなって思ってたんでしょ。それなら無理して優しくしてくれなくてもいいのに。そんなことしなくても俺は」
最後までは聞こえなかった。殿下は寂しげに口を噤むと、未だ散ったままの鋭利な破片を一つだけ拾う。細く弱々しい指先が切れやしないかと思わず喉が鳴る。
刃先が彼の左腕を滑った。
「あーあ。せっかく最近は跡も綺麗になってきたのに。また増えちゃったね」
殿下は他人事のようにシナを作った。苦痛に顔を歪める様子もなく、淡々と破片を腕に食い込ませていく。その度に赤い線が白い肌を侵食し、時にはぷっくりと紅玉に似た模様を浮かび上がらせる。
あれは自傷の痕だったのか。初日に見た殿下の手首を想起してぞっとした。となると、今しがたまで曝されていた二の腕あたりの傷も自分で拵えたものらしい。あれらは見られたくない様子だったのに、衝動的にリストカットショーを開催するのには抵抗がないのだろうか。
ほたりほたりと溢れていく血液に目眩を覚えながら殿下の右手首を掴む。皮膚同士がぱしりと乾いた音を立てて触れた。白魚はあっさりと私の掌に収まって動く気配はない。伏し目がちだった殿下の睫毛が持ち上がって羽ばたくように動いた。何か言いたげに吸われた息は、しばらく待ってみても吐き出されない。絨毯が赤黒く汚れた。随分と痛いだろうに。
医者を呼んできますと殿下をベッドへ座らせた。破片をとりあげて、側にあった適当なタオルを渡す。垂らして汚すなら絨毯でなくタオルの方がいい。掴んでいた手首を開放し部屋を出ようと殿下から体を離せば、仕返しとばかりに今度は私の手首が捕まった。
「手当てしてくれるなら、おまえがやって」
え、と反射で漏れた声はどう解釈されたのか。殿下は傷ついた表情で私を掴む力を強める。いくら不健康で脆弱そうに見えても損酌なく握られれば案外痛い。
手当てなんて生まれてこの方したことがない。勝手が分からないのだと戸惑いを隠すことなく伝えれば、殿下は近くの戸棚を指した。必要なものはこの部屋に常備してあるらしい。私の都合など知ったことかと救急セットを押し付けられた。不遜な態度で次々に指示を言い渡される。匙を投げる選択肢などあってないようなもので、私は言われるがまま傷の処置をした。
「俺のこと好きじゃなくてもいいけど、おまえには優しくされたい」
殿下は私の指先を掴んで、血が滲んでいた部分をなぞらせる。無理して優しくするなと言った口は同じだったように思うのだけれど詮無いことだ。
「もっと甘やかして。もっと側にいて。俺のこと好きって言って。嘘でも、いいから」
懇請が覆されてばかりだ。明日にはまた構うなと叫ばれるに違いない。掴まれた指があつい気がした。かさついた頬に擦り付けられた爪が水気なくするすると鳴る。
「傷痕、綺麗じゃないからおまえは嫌かもしれないけど、本心じゃなくてもいいから……ほんとは嫌だけど、でも、おまえの得意な“振り”でもいいから、ぐちゃぐちゃな俺も受け入れて、いつもみたいにとびきり優しくして」
そっと囁かれた命令は易い。
痕は確かに愉快なものではなかったが、不快かと問われればそうでもない。狼狽こそするがそれだけだった。治りかけは痒そう、というのが率直な感想といったところだろうか。殿下が私の感性をどう定義しているのか分からないが、おそらく些か齟齬があるらしい。困惑と疑問を胸のうちに押し込んで、殿下の言う通りに諂諛した。
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