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ふと顔を上げて窓の外を見た。そろそろ日も落ちようかという寒空、雲の流れがいつもより少しだけ早い。なんとなく、雨が降りそうだと思った。口を窄めて窓から視線を外す。戻した視線の先には書きかけの手紙がある。家族宛てだ。行儀見習いとしてここへ来てひと月、新しい環境へ慣れることに忙しく中々手紙を書く時間がとれていなかった。最近やっと仕事にも順応してきたため、溜まりに溜まった家族への報告をと思って筆を執ったのだ。
両親を心配させないよう、元気だということを伝えておかなければ。何不自由なくぬくぬくと育った私がきちんと侍女をできるのか、きっと気を揉んでいるに違いない。出発間際まで本当に大丈夫かと尋ねてきた父を思い出して笑みがこぼれた。同時に少しだけ寂しさもこみ上げてくる。けれど実家に戻るのはまだ先だ。
コツコツコツ。あれこれと考えながら筆を進めていれば、静かな自室にノックが響いた。手を止めてドアの方を見やる。どなただろうと腰を浮かせたところで聞き慣れた固い声が耳に届いた。
「いるかしら?」
侍女長だ。気の抜けた返事をしながらドアをゆっくりと開ける。期待通り、綺麗に姿勢を正した侍女長が正面に立っていた。上品なドレスを一分の隙もなく着こなし、手には紙の束を持っている。何かの書類だろうか。首を傾げてみる。それから侍女長を見上げれば、彼女は口角を上げてその紙束を私に差し出した。
「おめでとう。あなたの正式な側仕え先が決まったわ」
紙束を受け取る。カサリと音をたてたそれは、確かに私の名前と見習い期間終了の文字が躍っていた。表紙を捲ってパラパラと眺める。長ったらしい前口上や難しい規約が並べられ、早々に読むのを諦めた。
説明を求めるように侍女長の方を向く。すると彼女は心得た様子で話してくれた。
「もうあなたは一人前の侍女ってことよ。私や他の侍女を手伝って回るのではなくて、側仕えをするの。このひと月で望ましい所作や気遣いもしっかり覚えて、周囲の評判も悪くないもの。普通よりも少し早いけれど、正式に殿下へ付けることにしたわ」
殿下。オウム返しに口を開いた。侍女長はしっかりと頷く。この王宮に殿下と敬われる人間は何人もいらっしゃるから、そのうちの誰かなのだろう。知っている顔を思い浮かべて瞬きをした。
「それに」
侍女長は小さく続けてから言い淀む。数秒の後、曖昧に微笑んで閉口した。いつもの彼女らしくない表情だ。疑問に思い聞き返してみたが、上手にはぐらかされてしまう。一体何を言おうとしたのだろう。けれど深追いしようにも侍女長の鉄壁を前にそんな術はない。
「いいえ、ごめんなさいね。私としたことが何を言おうとしたのか忘れてしまったの」
有無を言わせぬ圧にとりあえず頷いた。侍女長は仕切り直しとばかりにキリリと表情を引き締めている。
殿下――レオン様との顔合わせは三日後らしい。明日と明後日は休みで良いと侍女長は添えた。お休みという単語に胸が弾む。日頃休日が貰えていなかったわけではないが、心の準備をする時間があるというのは嬉しい。侍女長にお礼を言うと、彼女は優雅に顎を引いた。
「部屋の引っ越しも必要でしょうから、それも休みのうちに済ませてしまいなさいね。手配はしておくから」
それだけ言うと侍女長は踵を返し去っていった。彼女の背が廊下の角を曲がって消えるまで、それをじっと見つめる。いつ見ても完璧な所作だ。私も見習おうと気合を入れてドアを閉じた。
それにしてもレオン様とは。同じ宮の敷地内ではあるが、ここから少し離れた場所で生活をしているらしいためあまりよく知らない。一体何番目の王子だったか。少なくとも第一や第二ではなく、末席に近いのは確かだ。ここへ来てすぐの頃、一度だけ拝見した顔貌を思い浮かべた。綺麗な人だったな。
いつの間にか陽も沈んでいる。上手くやれるだろうか。幽かに浮かんだ不安を振り払うように、報告することが増えたとペンを再び手に取った。
さて、引っ越しも無事に終えて初日である。
正式な仕えが決まったことを侍女仲間へ報告に行った折、気の毒そうに身を案じられてしまった。どうにも引っかかる反応だ。件の殿下に関する記憶を思い起こすがこれといって心配される要素は思い当たらない。それどころか、本宮から離れたこの場所はすこぶる静かで居心地が良い。あちらも豪奢な雰囲気で嫌いではないが、私にとってはこちらの方が落ち着いていて好きになれそうだ。身支度を整えて部屋を出た。
「おはようございます」
朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでから先輩侍女に挨拶をした。髪を短く切り揃えた快活そうな女性は、私に気が付いて振り向く。
「あら、おはよう! 早かったわね。今日からよろしく。昨日も言ったと思うけど、私の事はステラでいいから」
ステラさんはそう言って私の手を握った。私より幾分年上だろう彼女だが、その明朗さをもって壁を感じない。初対面だった昨日、この人が一緒ならやっていけそうだと安心したことを思い出す。
「ついて来て」
早速ステラさんは握った手をそのままに歩き出す。どこへ向かうのだろうか。疑問を素直に頼もしい背中へと投げてみれば、弾むような声が返ってきた。どうやら私を皆に紹介してくれるらしい。しかし歩くのが早い。転ばぬよう懸命に足を動かしながらステラさんについていった。
殿下のところへ行くのかと思ったのだが、彼はまだ起床していないらしい。私という新しい侍女が入ったとの報告はしているため、そのうち会いに行けば良いとステラさんは軽い口調で言った。
現在、殿下の側にお仕えしているのは実質ステラさんと護衛の数人だけなのだそうだ。殿下も王の座から程遠いとはいえ、仮にも王族である。些か少なすぎやしないかと問うてみれば、彼女はカラカラと笑った。
「まあ、その通りなんだけどね。良家の子女さまたちに殿下のお世話は……なんていうか、難しいみたいなのよね。私だって気の滅入る時があるくらいだし」
どうしてだろう。不思議に思ってステラさんを見つめる。侍女仲間も殿下の名前を出した途端眉を顰めていたし、彼に何か問題があるのだろうか。問えばステラさんは困ったように肩をすくめた。一旦足を止めてこちらへ顔を寄せる。それから声を潜めて教えてくれた。
「殿下はね、不安定っていうか、扱いづらいっていうか。退室しようとしたら怒鳴られたり、一緒に死んでって薬を口に突っ込まれたり。きっと病気なんだわ。そんなのお嬢様たちには刺激が強すぎるでしょ? それで心労がたたってみーんな辞めていっちゃうわけ。もちろん私だけじゃ仕事を回せっこないから、日替わりでいろんな子が手伝いに来てはくれるんだけど」
聞くだけでなかなかに大変そうだ。馴染みがないせいかあまり想像が及ばなかったけれど、中々に難しい仕事なのは分かる。
「だからあなたが来てくれてすっごい助かる! 侍女長からは器量が良くて図太い神経の持ち主って聞いてるから、ほんとぴったりね」
ステラさんはぎゅっと握っていた手に力を込めた。期待してもらえるのは嬉しいけれど、微妙な気持ちだ。確かに鈍いところはあるかもしれないが、図太い神経だなんて褒められていない気がする。ステラさんと侍女長に悪気がないのは分かっているけれど。ぷくりと不満げに彼女を見上げた。
「あら、可愛らしい怒り方をするのね」
彼女は気にした風もなく続ける。
「私は元々生まれが高貴じゃないから、殿下のヒステリーくらいなら平気なの。何かあったら私に言いなさい。いざとなれば殴って助けてあげるわ。殿下に関わりたがる人間は少ないから色々と融通は利くし、それくらい許されるわよ」
強い人だなと感心した。同時に少しだけ、そんな風に言われてしまう殿下に同情する。あの美しい殿下はどんな人なのだろう。あの中身が気になって仕方がない。