クリスマス前の思い出……
この小説は、春野天使様主催の無茶ぶり企画参加小説です。
お題は香様から頂きました。
ここは、日本で有数な雑誌社の一つ、『アゲイン』。
事件があれば瞬時に向かう。ここの記者は、そんな現場重視の多忙な毎日を送っている。
この物語は彼らが立ち向かう事件・事故を描く――ものではなく、ここで働く一人の男について語ろうではないか。
その男の名は溜田飛朗。27歳。通称『ダメ田』。
彼もまた仕事に追われ、酷い疲労感に襲われている一人だ。
彼の受け持ちは主に事故等の取材。しかも明日は臨時で朝日川小学校の教育インタビューにも行かなくてはいけない。
最近は特に災害や事故が多く仕事に追われている溜田。これは、精神的にも肉体的にも辛い一撃だ。
溜田は欠伸をこらえつつ、自前のノートパソコンを睨み付ける。
「おいダメ田ぁ」
悲しいかな。入社したての頃はダメ田という単語にいち早く反発したのに、今はその気力もない。
溜田は、ディスプレイの上からのろのろと声の主を探す。
するとこの席から十歩ほど離れているだろうか、その席から眼鏡を掛けた四十代後半の女性――編集長が手招きをしていた。
――この忙しい時に。
溜田は色々な不満を吐き出すかのように、大きく息を吐くながら立ち上がった。
長時間座っていたせいか、一歩踏み出す事に骨盤が軋む。
「……な、なんでしょうか」
編集長は眼鏡の上からじろりと溜田を覗き込むと、煙草の火をつけながら片手で紙束を投げる。
あっ。思わず声を上げてしまった。
溜田の足元に散った白い花吹雪は、昨日提出したはずの原稿だった。
「それやり直し」
タバコの煙と一緒に吐き捨てる編集長。
「な、何でですかッ」
「使えないからに決まってるでしょ」
ぐさりっと、単刀直入に言葉が刺さる。
その反動で言葉見失う溜田に、更なる追い討ちが襲い掛かる。
「あんた、本当に文才がないよね。なんで記事を書いているのに、日記風になっていっちゃうわけ?」
「いや……その」
確かに溜田の記事はどれも日記風。むしろその事件・事故等の感想に近い。
一応、溜田にとっても悩みの種であるらしい。
「他の所もおかしい。あんた、何年この仕事してるのよ……この後に及んで文体が混じってるって、馬鹿というか救いようがないというか――」
「ももも申し訳ありませんッ」
編集長が深いため息を吐くと同時に、溜田は頭を下げた。
それはもう、腰から先が抜けてしまうかのような素早さで。
もう何を言っても無駄と悟ったのか。編集長はくしゃりとタバコを灰皿に押し付けた。
この編集長は苛立つと、まだ吸えるタバコでも直ぐに潰してしまうらしい。
「……もう良いよ。他の原稿もおかしいから明日までに直しておけ」
その一言で安心した溜田は、ゆっくりと息を吐き出した。
そして自分の中の負の感情を押し込み、床に散らばった原稿を拾い集めた。
もう慣れたことじゃないか。溜田は自分にそう言い聞かせる。
それでも、書類を抱えた手は席に着いても震えていた。
――またふりだしだ。
ノートパソコンのフォルダを開きながら思う。
最近、自分にこの仕事は向いてないのではと。 確かに文章を書くことは好きだ。しかし“好き”と“得意”は別物だと、この数年で痛いほど痛感してしまった。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
同期の美空さんが、向かいの席で心配そうに溜田を見ている。
呆気に取られていると、口パクで『だいじょうぶ?』と尋ねてきた。
溜田は不意に顔が熱くなるのを感じて、すぐ様目を反らす。
彼女に好意を抱いていないと言えば嘘になる。
でも今は、誰からも慰めを受けたくなかった。
今慰められると、何だか自分が惨めに思えたから。
△ ▼ △
ぼすっ。仕事用の鞄をソファーに放り投げる。
そして、その上に溜田は倒れこむように横になった。
やり直しした書類を提出し、ようやく今日の分の原稿を書き終えて家に帰ってきたのだ。
溜田が大きく息を吸うと、腰の辺りでソファーのバネが軋み、鼻からは革製品特有の匂いがまとわり付いて来る。
――あぁ。疲れた……。
ソファーに横になりながらテレビ上の時計を見る。
時刻は午前零時過ぎ。
明日の八時には家を出るので、二日ぶりの家だと言うのに今からではそんなに休むことも出来ない。
溜田は、自分のただれた手のひらで自分の顔を覆う。
いつまでこんな生活が続くのだろう。この生活が一年以上続く中、溜田は嫌でも将来を考えてしまう。
今こそは良いが、これが年に取って体が言うことをきかなくなったらどうしよう。
いや、年を取る以前に体を壊してまともな人生を送れないかもしれない。
そう思うと、とても今が恐ろしくなった。自分はまだやりたい事もあるのに、手が届かないままこの体は散っていく。
それだけはなんとしても避けたい。
そして、その打開策は一つだけ。
――今、ある時間で。
――好きな事をやる……。
「って、その時間が無いか」
あはは。渇いた笑みが、ソファーを滑り落ちる。
自分の考えに自分で突っ込むとは、ある意味お終いだな。溜田は、しみじみ思った。
しかし、自分はそこまで追い詰められている。
ふと、カレンダーを見れば今は十二月二十二日。
街は、幻想的なイルミネーションで色付けされ、クリスマスムードが漂っている。
なのに、溜田はまるで他人事のように嬉しく思えなかった。
でも――。
――もし神様がいるなら、もしサンタとやらがいるなら。
――俺の願いを叶えてくれるだろうか。
自分でも馬鹿げていると思う。
しかし、その願いは溜田の口から零れ落ちてしまった。
「……時間が足りない。一日だけでも良いから、もう一つ体があれば」
あれば、なんだろう。自分の代わりをさせるのか。
そんな事、有り得るはずがない。
本当に今日の俺は……。
「馬鹿げてる」
さぁ、もう寝よう。
くだらない妄想をしている場合ではない。
溜田は上着を頭まですっぽり被り、渇いた瞳を無理やり閉じた。
――明日もまた、怒られるだろうな。
くすりっと、自虐的に微笑みながら。
△ ▼ △
溜田はぞわっとした気持ち悪さに耐えきれず、思わず飛び起きた。
それはまるで、誰かに見られているような感覚。
――な、なんだ?
未だに眠気が覚めぬ目を擦りながら部屋を見渡すが、何も異変は見つからない。
今まで通りに時計の秒針が時を刻んでいるだけだ。
しかも、時間は午前七時。カーテンの隙間からは、優しい冬の陽が溢れ出している。
これには、溜田もため息を吐くしかない。
――疲れ過ぎかな。
溜田は頭をガシガシと掻き、会社へ行く支度を始めようとした時だ。
『おいおいッヒロー。何起きてるんだ』
急に肩が重くなり、溜田はふがッと間抜けな声を出してソファーへ倒れ込む。
肩を掴まれてソファーに押し戻されたと理解するまで数秒の時間を要した。
――なっ。
そう、この部屋には溜田しかいないはずなのだ。
勿論、疲れていたとは言え、玄関には鍵を掛けた。
合い鍵を渡したい女性(美空さん)は居るが、実際に渡した相手はいない。
しかも一瞬聞こえた声は明らかに男だった。
――だとすればコイツは……。
溜田は恐る恐る首を反らし、小さくイナバウアーするようにして、そいつを覗き込んだ。
…………。
硬直する溜田。
そこには、確かに人がいた。
ヨレヨレのワイシャツの上から、エプロンを掛けた男。目は気弱そうで、軽く茶色がかった天然パーマ。
溜田はコイツを知っている。
鏡を見ると、嫌でも毎日顔を見合わせてしまうのだから。
――う、わッ。
そう。溜田の前には“溜田”がいた。
何事もなく平然と。むしろ、硬直する溜田を不審そうに見下ろしてくる。
『おいおい、どうした。あ、朝飯だけど適当に冷蔵庫のもんで作っ――……』
「うわぁぁぁぁぁぁぁッ!」
もはや、我慢の限界だった。
ソファーを転げ落ち、そのまま這うように自分とそっくりな男から後退する。
しかし、この部屋がそんなに広い訳がない。案の定、勢い良く壁に激突し、その反動で壁に引っ掛けていた洗濯物が頭に降りかかって来た。
しかも物干しが頭のてっぺんに見事直撃。洗濯物の中で、溜田はひたすら痛みをこらえるしかない。
「いってぇ……」
――これは、幻覚だ。
――疲れ過ぎて幻覚を見ていたんだ。
――ほら、もう目を開けば……。
『ヒロー。何してんだお前』
「っひ」
目の前で呆れ顔の自分が、溜田の間抜け面を覗き込んでくる。
――やっぱり幻覚じゃないぃぃいッ
溜田はそのまま気を失いそうになるが、もう一人の自分はソレを許さない。
『おい寝るなよぉ。……いや、寝ても良いけど俺っちが仕事に言ってからにしろよぉ。主人公が寝たら話が進まねぇよぉ』
ガクガクと首を揺すられ、軽く酸欠を起こす溜田。
何なんだコイツ。顔こそは似ているが全く溜田と性格が違う。
溜田は、やっとの思いでもう一人の溜田の手を払った。
「うっ……お前は、誰だ」
必死に恐怖心を隠す溜田。
これが彼に出来る精一杯の行動
しかし、もう一人の溜田はニヤリと不敵に笑う。
『俺っちか? 俺っちは“サンタ”だ』
は? 予想外の解答に溜田は口を半開きにしてしまう。
――サンタ、だと?
『っても、まだ“サンタ見習い”さ。まあ、よろしくぅ』
「よ、よろしく……じゃねぇよッ」
あまりに無防備な笑顔に流されそうになるが、慌てて我に帰った。
恐ろしいくらいに馴れ馴れしい。こいつには不法侵入の罪悪感はないのか。
『てかてか、俺っちがどうやってヒローんち入ったか知りたいッ?』
「……」
――自ら不法侵入の訳を語るか。
こいつアホだな。溜田の呆れ顔をよそに、サンタと名乗る奴は目を輝かせた。
よっぽどその武勇伝を聞かせたいのだろう。アホ面が子供のように光に満ちた。
『だいたいサンタが煙突から子供の家に入るなんてナンセンスッしかもじーさん達は煙突が有る家しかプレゼントを届けねぇ。そんなの酷いと思わないかい』
「まぁ……」
『そこでだッ俺っちは一人でも多くの子供たちにプレゼントを渡そうと家を下見して回った』
自称・サンタ見習いは手を目の上に手をあてて、さも見渡しているようなジェスチャーをする。
まぁ、相変わらず溜田の視線は冷めているが。
『そして俺っちはとうとう見つけた。どの家にも必ずある秘密の入り口を!』
「へ、へぇ」
『ふっふ。聞いて驚くなッそれはな――』
目を点にしながら、台所に移した。
『換気扇だッ』
溜田は思わず目を点にした。
確かに換気扇はアパートと通路側に通じているが、外からは羽が邪魔で入れない。
だが、先程から部屋をすーっと吹き抜ける冷たい風がイヤな予感を募らせる。
――ま、まさか。
思わず絶句した。なんと換気扇があった場所には大きな風穴が開いていた。
そのすぐ下には、換気扇の羽が無残に散っている。
『まぁ俺っちの手にかかればこれくらい――』
「って馬鹿かッ。力ずくで入って来たらただの犯罪者だ!」
しかもたまたまここがボロアパートだからすぐに壊れただけ。他の住宅は侵入できる程、柔じゃないと思う。
『そう怒るな。次に新しいものを付けやすいように、綺麗に破壊したから』
「破壊するなッしかもなんでお前は俺んちに来たんだよ。明らかに独身男なんてお前の扱うジャンルと違うだろ!」
『あぁ、だって子供の家予行したら当日は同じ手は使えないじゃん。下手したら入った瞬間に警察へ直行だよ』
何て無茶苦茶な奴だ。溜田の中に最早恐怖はない。
『だから無難な独身男のヒローんちを選んだ。そしたら昨日の夜、なんか言ってたじゃん。時間がないとか、体がもう一つあったらとか』
「その時点でお前は家に居たのかよ」
疲れすぎとは怖い物だ。あんな破壊音すら耳に入らないくらい考え事していたなんて。
するとサンタ見習いは、人差し指を溜田に向け、ニタリと笑う。
あまりにも不気味で、いろんな意味で危ない笑顔。
溜田は息を詰まらせ、ごくっと唾を飲んだ。
『だから換気扇の詫びって言うか、俺っちが3日間だけヒローのフリしててやるよ』
「――え」
自分は何て間抜けな声を出しているのだろう。 状況が掴めないまま呆然としていると、サンタ見習いはにししっと笑ってくる。
つまり話を整理するとこういう事なのか。
昨日、サンタ見習いがプレゼントを渡す家を下見していた。そして、有力な侵入回路・換気扇を見つける(このボロパートしか効果的ではないのを奴は知らない)。しかし、実際に子供の家ではリスクが高いので、独身男の溜田の家を狙った。 で、そのお詫びにサンタ見習いが三日間、溜田に化けて代わりに生活してやる――まとめると、こういう事なのか。
――そんな事、有り得ない。
流石に信じろと言われて信じるほど、溜田は純粋ではない。
しかしサンタ見習いは溜田に有無を言わせないくらい強い眼光を放つ。
これもサンタ修行の一つなんだ、と目が訴えている。
むしろ“やってやる”ではなく、“やらしてくれ”の方が正しい。
「……お前に俺のフリが出来るのか」
分かっているのに、どうしようもないことを聞いてしまう自分。
サンタ見習いはえっへんと胸を張った。
『まぁかせろッヒローが名刺を見て勤め先も調べて、書き掛けの原稿も目を通したし、もうバッチリよ』
無論、それだけでサンタ見習いが溜田の仕事をこなせるとは思わない。
しかしどうせ溜田本人が仕事をしても、仕事はこなせない。
そう。これはどちらが編集長に怒られるかの問題なのだ。
――誰が好き好んで。
――わざわざ怒られに仕事に行くだろうか。
他人が自分の代わりに怒られてくれる。
しかも、相手がその役に自ら変わりたがっている。
何も強制なんかしていない。
俺は何も悪くない……。
溜田の中には、答えは一つしかなかった。
△ ▼ △
『アゲインの先輩、後輩、同期の皆さんッはざぁす!』
早朝の静けさが抜けきらない“アゲイン”に、何とも似合わない体育系の声が響く。
個々の仕事に打ち込んでいた記者達だが、その視線は自然とオフィスの入り口へと向けられていた。
『おいおい。なんだって俺っちに注目するんだよッ』
俺っちの魅力に圧倒されたか。そんな馬鹿な事を言いつつゲラゲラと笑う男。
記者一同は呆然と、その男の頭から足の先まで見つける。
「……だ、ダメ田?」
そいつの外見は、明らかにこの社内で一番鈍くさい溜田飛郎。
なのに中身はまるで別人だ。
この変な溜田に調子を狂わした編集長は、渇いた笑みを零すしかない。
「おい、どうしたダメ田。来る途中に頭でも打ったか?」
『はっはっ。嫌だなぁ編集長ッ俺っちは元からこんなキャラじゃないすっか! 編集長こそ頭打って忘れちゃったのではではぁッ』
これまた大笑いしながら、編集長の肩をバシバシと叩く溜田。
対する編集長は、眼鏡が下にずれ落ち、髪も乱れ、何とも情けない格好になってしまった。
『つーか、俺っちは“ダメ田”じゃなくて“溜田”っすよ。みんなしてダメ田ダメ田って呼んじゃって』
「い今更、何言ってんだお前……。そんなの今始まった事じゃないだろ」
『ふぇッそうなの!』
溜田は大げさに目を見開き、ずいずいと編集長に顔を寄せる。
こいつに失礼と言う言葉は無いのか。いきなりの事に編集長は軽く体を反らして回避している。
『つまり愛称って訳っすね。なんだよヒローの奴、教えてくれても良いのに……』
「は、はぁ?」
『いやいや何でもないっす。てか、今日の俺っちは何をやれば良いんすかね』
「何って。昨日、朝日川小学校のインタビューのアポ取ってきたんじゃないのか」
今日の溜田はやっぱりおかしい。昨日、電話向こうの相手にペコペコと頭を下げながら連絡していたのも忘れているというは流石に異常だ。
本気で病院に連れて行った方が良いのでは。アゲイン一同の視線が溜田に集中する中、問題児は“小学校”と言う言葉に目を輝かせる。
『小学校ってアレっすよねッ子どもがどわーって居て、ゴワゴワと詰め込まれてるっつか……――とにかくいって来やあぁすッッ』
「お、おいッダメ田!」
まさにどひゅんっと言う効果音付きで、アゲインを飛び出した。
静止を促した片手は目的を失い、そのまま硬直する編集長の頭には、先ほどの風圧で舞い上がった書類やら原稿やらがヒラヒラと舞い落ちる。
何だったんだ。この場にいる者は頭にハテナを浮かべるばかり。
「……飛郎くん」
美空もまたその一人だった。吹き飛ばされた書類を抱えながら、いつもと違う溜田に声すらかけられなかったのだから。
△ ▼ △
溜田はベッドでうつ伏せになりながら、窓の外を眺める。
外は赤と青が混じり、空は鮮やかな青紫が広がっている。
どれほどの時を、たたぼんやりと過ごして来ただろう。何をするわけでもなく、ただ朝から夜まで変わらない街の景色を眺めていたと思う。
――サンタ……。
――上手くやってるかなぁ。
今朝。否、正しく言えば今日の夜中から家に不法侵入してきたサンタ見習い。
溜田自身もサンタ見習いを“お前”ではあまりに気まずいので、臨時的に“サンタ”と呼んでいた。
どうせ三日後には出て行くのだから、名前を呼ぶほど親しくなる事もない。
――あいつ、馬鹿やってないかなぁ。
――編集長もぶち切れてないかなぁ。
今日はせっかくサンタのおかげで時間がたっぷりあるのに、特別何も出来なかった。
まぁ、理由として体の疲労も限界だったのもある。だが、何よりも溜田が出歩いている事を誰かに見られるはまずかった。
溜田が出歩いて見つかったら、“本物の溜田”として生活しているサンタが不利になる。
最悪、入れ替え行為がバレてしまうだろう。だから、今まで買って放置され続けて来たDVDなどを見ていた。まぁ途中から飽きてきて、結局は街を観察している今に至るのだが。
――何だか、俺。
――幽霊みたいだ。
サンタに自分の存在を貸した今、ここにある溜田の体はただの抜け殻にしか思えない。
街中には当然のように忙しそうに歩くサラリーマンがいるが、自分はその足元で伸びきった影だ。
時間はあるのに、本体から外れて行動してはいけないのだから。
――俺が望んでいた“時間”は。
――もっと、もっともっともっともっともっと……。
『ただいまぁッ』
ガダガタ、バタンッ。
靴をおもむろに投げ捨て、乱暴に玄関の扉を閉める音。
サンタが帰って来たのだ。
溜田は無意識にベッドを飛び起き、玄関へ駆け出した。裸足が床の氷のような冷たさにかじかむ。
そして息を切らしつつ玄関に顔を出すと、相変わらず自分と同じ顔をしたサンタがニコニコと立っていた。
「お、おかえり。仕事どうだった」
不器用に、でもなるべく平然と尋ねる溜田。
結末は、聞かなくても分かっているのに。
――どうせ、編集長に怒られて……。
『うん。すげぇ楽しかったッ』
満面の笑顔で、迷いなくサンタは答える。
その笑顔に、溜田の心はぽっかりと穴が空いてしまった。
「たのし、かった?」
最近の仕事で楽しいと感じた事がないので、溜田は動揺を隠せない。
『おうよ。今日、小学校に行ってサンタに対するインタビューしてきたッ』
「小学校……朝日川小学校のインタビューか。でも、あれは教育問題のインタビューで」
『いーのいーの、こんな機会めったにないし。それで俺っちは子ども達にサンタに対する意見を聞いてきたわけッ』
それがまた可愛いんだよ。サンタはニヤニヤしながら溜田に小学校の出来事を伝える。
みんなサンタを待っている、そんな最前線の感想を受けてとても興奮しているらしい。
『だから俺っちと溜田の記事は“現代のサンタクロース”で決定ッ』
「何だそれ」
『子ども達の気持ちをそのまま原稿に書くんだよッ不景気な世の中でも子どもの夢は消えないぜってね!』
うひょおっと、バックを振り回しながらリビングに向かうサンタ。
溜田は暫し、言いづらそうに目を反らすが、腹を決めて声を上げた。
「な、なぁッ」
溜田の震えた声に、サンタが振り向く。
「もし、編集長に……怒られたらどうする?」
『はぁ。なんで』
「もともと書くはずの記事と違うんだよ。だから、もし怒られたら」
『てかさぁ』
サンタが、スーツの上着を脱ぎ捨てる。
『なんでヒローは、やる前から諦めてんだよ』
ずきんっと刺さる、言葉の槍。
容赦ない真っ直ぐな一言に、溜田は俯く。
『怒られると思う前に、俺っちは意地でもやるぜ。例え認められなくても、やりたい事をやった結果なら絶対に後悔しない』
溜田は、何も言い返せない。こんな脳天気で、馬鹿なサンタ見習いに出来ている事が、自分には出来ていない。
――こいつは強い。
――いつもビクビクして、人の顔色ばかり気にする俺よりも。
――ずっと……。
不意に、サンタ見習いがこちらを振り向く。
顔の半分を夕日に照らした、もう一人の自分。 ここ何年と溜田がした事のない優しい微笑みを、彼は軽々とやってのけた。
『そういや、今日は楽しかったか。久しぶりの休みだったんだろう?』
この笑顔に、溜田は弱々しく笑った。
今にも寒さで凍えそうな、小動物のように。
「――あぁ。凄く、楽しかった」
何とも脆い嘘を吐きながら。
△ ▼ △
入れ替わり二日目。
この日も特にすることもなく、溜田はゴロゴロと過ごしていた。
唯一やった事といえば、部屋の掃除ぐらいだ。
こんなに暇なら、何も出来ないなら、むしろ仕事に行っていた方が暇つぶしになる。
――でも。
――サンタは、俺の仕事を楽しんでる。
そう。あんな好き放題やって、仕事が楽しいなんて言えるサンタが凄く羨ましい。
だから言えない。入れ替わりは、今日までで良いなんて。
暇だから、お前が羨ましいからって、存在感を返せなんて。
入れ替わってくれ、と言い出したのは自分なのに。
溜田は、のそりと時計を見て、夕食の準備に取りかかろうとした時だ。
『ヒローたたた大変だぁッッ!』
ドタバタと床を揺らしながら、今日もまたサンタが帰ってくる。
静かにしろよと、口を開きかけた所で仕事用鞄が顔面に激突する。
サンタが溜田の顔に鞄を投げたのだ。
『ひ、ヒロー。ヤバいぞ俺っちッ』
「……何がだよ。つーか抱きつくな気持ち悪い」
『同期の美空さんだっけ? あの人に明日の夜食事に行こうって言われちゃったああぁッッ』
――え。
思わず頭が真っ白になる。
美空。食事。誘われた。サンタの放った言葉がぐるぐると頭を飛び回り、溜田の頭の中で全く繋がらない。
『今日、編集長に例の記事の事でめっちゃ褒められたの。そしたら帰り際に美空さんが“最近の飛郎くんって、何か格好いいね。”ってさ。んで、俺っちが明日イヴだし仕事終わってから食事に行かないかって……――』
「お前が誘ったんじゃないかよ馬鹿サンタッ!」
ほぼ無意識下に先ほど投げつけられた鞄を、サンタの顔に投げ返した。
ゴスッという鈍い音と共に、サンタの顔がへこむ。
目の前で苦しんでいるサンタに対し、溜田は色んな意味で泣きそうだった。
――どうしてくれるんだよ……。
――もし嫌われたら俺。
『で、でも美空さん喜んでたぜ。“ありがとう。凄く嬉しい”って言ってたもん』
それを聞き、強張っていた溜田の顔が少し楽になる。
取りあえず嫌われてない。それだけでも良かった。
「そ、そっか。なら良いけど……」
『あと美空さん、ぜってぇお前の事好きだよな』
いきなり真顔で語り出すサンタ見習い。
溜田の顔に体中の熱が集中する。
「ば、馬鹿いうなよッ」
『いや、俺っちには分かる。だって美空さん、俺っちの(溜田の)顔を見るたび顔を赤くしてたし』
そんな彼女の姿を見たことないが、もし本当ならとても嬉しい……サンタの次の言葉を聞くまでは。
『誘った時も“今の飛郎くんなら、行ってあげても良いかな”なんて上目遣いで言われ――……ひ、ヒロー?』
サンタ見習いが溜田の異変に気付く。
溜田は俯き、目を見開いて、硬直していた。
――美空さんは。
“最近の飛郎くん、格好いいね。”
“今の飛郎くんなら、行ってあげても良いかな”
実際に聞いていない美空の声が、時を超えて溜田の心を突き刺す。
彼は、気が付いてしまった。
――美空さんが、本当に好きな人は。
――俺じゃなくて。
――サンタの方だ。
きっとサンタの子どものような滅茶苦茶な行動や性格が、美空の心を掴んだ。
だから食事へ行こうとした。サンタとなら、きっと夢のような楽しさが待っているから。
『ひ、ヒロー。どうしたんだよ』
自分を心配するサンタを振り返らずに、溜田は立ち上がった。
今はサンタの顔を見たくなかった。同じ顔をした、たった一人の女性を奪ったこの憎たらしい男の顔を。
自分の部屋へ行こうとした所で、サンタが声を上げる。
『明日、お前が行けよッ』
溜田の足がピタリと止まる。
サンタも、今まで一番不自然な笑みを零しながら歩み寄る。
『ヒロー、美空さんが好きなんだろ? 入れ替わりは明日までの約束だけど、俺っちは良いからさッこんな機会めったにないし……もしかしたらこれを機にッ!』
「サンタ。美空さんが本当に会いたいのはお前だ」
溜田自身、普段出した事もないような冷酷な声が体を支配する。
サンタは、ぴくりと喉を震わせた。
「お前は“サンタ”だろう。美空さんを裏切って、悲しませて良いのか。夢を配るはずお前は、彼女の夢を壊して良いのか」
『だ、だけど――!』
「俺は良いんだ。入れ替わりを承諾したのは俺、そんな俺が都合の良い時だけ元に戻るなんて虫が良すぎる」
溜田は部屋への扉を開く。
そして暗闇への入り口を前に、サンタを振り向いた。
自分は今、泣き出しそうな、悲しい微笑みをこいつに向けている。
「ただ美空さんの笑顔を守ってやりたい――それが叶うなら俺は後悔しない」
やりたい事をやって後悔しないサンタ見習い。
やりたい事を守る事で後悔しない溜田。
似ているようで、全く違う二人。
サンタの哀しげな顔を置いて、溜田は闇の中へと消えていった。
△ ▼ △
入れ替わり三日目。
朝っぱらサンタが扉をノックしてきたが、溜田はベッドに潜って無視した。
その後、諦めたのかは分からない。すぐにガダガタと物音がして玄関の扉が閉まる音が響く。
ベランダからこっそり覗けば、スーツを着たもう一人の自分が会社へ向かっていた。
少しばかり安心したが、溜田はすぐにベッドに戻った。
それからというもの、ただ呆然と壊れた人形のようにベッドで横たわっている。
時刻も気付けば午後五時を過ぎていた。
空にも薄闇が広がり、星がパラパラとちらつき始めている。
――何やってるんだろう俺。
我ながら馬鹿馬鹿しいにも程がある。
勝手にヤキモチ妬いて、サンタに八つ当たりして、結果的に一人になった。
そして、一人になった今、彼の頭に残るのは昨日のサンタ見習いの哀しげな顔だった。
――あいつは悪くない。
――あいつは俺の為に、美空さんを誘ってくれた。
――なのに……。
取りあえず、サンタが帰って来たら謝ろう。そう思い、ベッドから起き上がる。
薄暗くなったリビングの電気を付け、一人台所に向かおうとした。
しかし、溜田の足が立ち止まる。
「なんだコレ……」
テーブルの上に置いてあった一枚の噛み切れ。
溜田は手に取り、意味もなく読み上げる。
「“美空さんとの待合場所・中央公園”」
サンタ見習いが書いた物に違いはないが、次の文章で溜田の顔が凍り付く。
その字は、何か感情を堪えるかのように震えていた。
「“今までありがとう”……って、もしかして」
言葉に出すよりも早く、溜田は紙切れを握りしめて走っていた。
玄関をはじき出し、薄汚いスウェットとサンダルを履いて、クリスマスに染まる町中へと駆け出す。
確信はない。ただ嫌な予感がするのだ。アイツが、サンタが、溜田に黙って姿を消してしまうような孤独感が体を支配する。
サンタは昨日、一人悩んでいたに違いない。
自分のせいで、溜田の幸せを裏切ったと。
自分のせいで、溜田を傷付けたと。
“サンタ”なのに、夢を壊してしまったのだと。
――違う。違うんだよッ。
溜田はイルミネーションが点灯し始める町を、息を切らしながら駆け抜ける。
行く途中、親子連れにぶつかったり、カップルに変な目で見られた。
しかし、彼には人の目を気にしている場合ではない。
ここ何年と走っていなかった溜田の心臓が、張り切れんばかりに鼓動を打つ。
それでも髪を振り乱し、走り続ける。
――俺は美空さんが好きだ。
息切れと共に、クリスマスソングが溜田の体を通り過ぎていく。
――だけど、サンタは俺に大切な事を教えてくれた。
――チャンスをくれた。――だから。
何も告げないまま別れるのが怖かった。
あんな、自分勝手な引き離し方は許されないから。
一人前にヤキモチ妬くなら、何か努力しなければいけないのだから。
息苦しさのあまり涙目になっていた溜田の前に、巨大なクリスマスツリーが現れる。
ここが中央公園。クリスマスシーズンになると巨大なイルミネーションでカップルを魅力する有名な場所。
溜田は、息を切らしながら立ち尽くしていた。 巨大な木に、まるで夜空の流れ星が寄り添っているような幻想的な世界に入っていいのか分からない。
否、そのツリーの前で立っている女性を見つけてしまい、動けなかった。
美空さんだ。長い髪を片耳にかけながら、腕時計を見ている。
彼女は待っているのだ。サンタを、そして今ここにいる溜田を。
しかし、彼の足は固まってしまい前へ進めない。
やはり、サンタ見習いがいないかった。
自分に美空さんの居場所を伝えて、消えてしまった。
そして、もう会えない。
「くっそぉ……」
溜田はずしゃりと崩れ落ちる。
そして何度も何度もアスファルトを殴った。皮膚の表面が血で染まるまで殴った。
「ごめん。ごめんごめんごめんごめんごめん……」
謝りながら、涙を流しながら、殴り続けた。
中央公園にやって来る人々が、迷惑そうに溜田を避けて孤を描きながら通り過ぎる。
しかし気にしていられなかった。
大切な友人を、平気で傷つけて追い出した自分の事なんて――……。
『ヒロー。良かった、来てくれたのか』
突如、降りかかる優しい声。溜田の前に赤いズボンが飛び込んでくる。
――まさか……。
徐々に顔を上げていくと、赤いズボンに引き続いて、赤い上着。
そして、顔は目が大きくて童顔。銀髪の長い前髪が少し大人っぽさを出している。
三日間、ずっと自分のフリをしてくれた、見慣れない青年がそこにいた。
「サンタ、なのか」
『おう。もう時間もないから変身を解いた……でも、行く前に公園に寄って良かったよ。もしヒローが来てくれなかったどうしようって思ってさ』
そう言いつつ、サンタは溜田を立ち上がらせた。
そして、背中をとんっと押す。
『行って来い』
よたよたと立ち止まる溜田。
『美空さんが待ってる』
なのに、溜田は動けない。
唇を震わせ、涙目で振り向いた。
「今までありがとッ」
溜田が出せる精一杯の声。
サンタ見習いの目が見開く。
「俺、必ずもっと良い男になるから。仕事もサンタ見習って頑張るからッ」
サンタの顔が、くしゃりと歪む。
そして子どものように、口を半開きにして涙を流し始めた。
『あったり前だ馬鹿やろうッ何だよ俺っち格好良く去ろうとしたのに泣いちまったじゃねぇか!』
ぼたぼたと涙を零すサンタに、溜田は優しく微笑んだ。
顔は違っても、俺たちはちゃんと繋がっている。
『俺っち、ヒローの幸せ奪ったから嫌われたと思ったのにッサンタ失格だと思ったのに!』
「お前は“サンタ”だよ。俺に今生きている時間の大切さを教えてくれた」
溜田は、涙をこらえ、憎たらしく笑う。
この三日間、サンタが自分に良く見せてくれた笑顔を今、彼に返す。
「だから来年も来い。今度は換気扇からじゃなくて玄関からさ」
サンタは頷く。
けして別れではない。来年また会えるのだ。
そして彼は消えて行った。うっすらと光に包まれながら、鈴の音を響かせて。
そして今夜、彼は子どもたちに夢を届けようと聖夜を駆け巡る――。
溜田はずっと彼を見送っていた。見えなくなった後も空から目が離せなかった。
「飛郎くん?」
気が付くと、美空が後ろに立ち、溜田を覗き込んでいる。
一瞬体をびくらせたが、溜田はすぐに微笑んだ。
――俺も変わらなきゃな。
この三日間で溜田は、存在感の無い不安な毎日を過ごして来た。
しかし、そのおかげで溜田は立ち直れた。
――自分の時間は自分でしか歩めない。
――だから、俺たちは一人一人生きていける。
だって、他人が代用出来る人生なんてつまらない。
だから次にサンタと会う時は、代用出来ないくらい楽しい人生を歩みたい。
「美空さん」
溜田は、意を決めて後ろで待っている美空へと振り返った。
空からは雪。
二人の愛を、いつまでも祝福してくれるかのようなに、粉雪が舞い散っていく。
了
本当に締め切りギリギリでしたのであまり上手くまとめられませんでした。
本当はもっと話を膨らませたかったのですが、文字数はオーバーしてしまうし、なんだか中途半端な出来でお題を頂いた香様に申し訳ないです……。
次回もこの経験を生かし、精進していきますのでよろしくお願いします。