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鉛色の空の下  作者: ケイ
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泥を這う日々

雨と土の湿った匂い。耳の奥では心臓の音が響き、荒い息を吐き出す喉からは血の味がした。穴が空いたブーツに包まれた足は、疲労と穴から入ってくる水で変に冷たく、振り抜かれる腕は針のように骨ばり細かった。後方から何やら大きな声が聞こえるが、意識の膜の向こう側で鳴っているようで、その内容はよく伝わらない。走らなければ、その命令だけが体を突き動かしていた。関節の節々、筋肉、心臓、そのどれもが悲鳴を上げている。しかし一度止まればもう走り出せないだろうことは自分が一番よくわかっていた。



世界が回った、とその瞬間は本気で信じた。腹にしみてくる水の冷たさと、しこたま打ち付けた体が、興奮が引くとともにじんじん痛み出した。そこで少女はようやく自分がぬかるみに足をとられて転んだことを知ったのだった。


「くそっ、手間かけさせやがって!このクソガキが」


水の跳ねる音と共に、獲物を追い詰めるようなゆっくりと荒々しい足音が近づいてくる。倒れた状態で首だけを捻ると、肩で息をしたガタイのいい男が憎々しげな顔で佇んでいた。視線を下ろすとその男の腰に巻いた白いエプロンは雨と泥でぐしゃぐしゃになっているのが見えた。



まず服の襟元を掴まれた。首が絞まって苦しいと思ったら今度は頰がじんじんと痛んで、男に頰を張られたことが分かった。続けざまに何度か殴られて、そこで意識がなくなった。しかしそこで暴行が終わるわけでもなく、次に気が付いた時には地面に転がされた状態で腹を蹴られていた。腫れぼったい瞼をうっすら開けて男の顔を盗み見た。どれほど怒った顔をしているのだろうと思ったら、それは意外にも無表情だった。



少女はぼんやりとした思考の中で、自分はなぜ殴られているのだろうと思った。安直に理由を求めるとすれば、それは少女がこの男の店のパンを盗んだからだなのだけれど。



頭をボールのように蹴り飛ばされて、少女の意識が再び飛んだ後、目を覚ました時にはもう男はいなかった。そろりと視線を動かし、道の脇に濡れてひしゃげてしまっているパンがあることを確認した。それを取ろうと身を起こそうとするが、身体中が引き攣るような痛んで上手くいかなかった。それでもなんとか両腕を立てて這うようにしてパンを懐に入れた。これがなくてはただの殴られ損になってしまう。それでようやく安堵した少女は気を失うように眠りに落ちた。



*****



気がつくと、少女はコンクリートの床の上に寝かされていた。土の地面と違って硬くて寝苦しい。少女は痛む腹に力を入れて身を起こすと、そこが店主に殴られた路地とは別の場所であることに気がついた。積み上げられた木の箱とドラム缶が乱雑においてあるそこは何かの倉庫のように見える。そういえばと思い懐を探るとひどく濡れてひしゃげてしまっているが、確かにパンが1つ仕舞われていた。その事実が一先ず少女を安堵させた。

ここはどこだろう、そう思って少女が立ち上がろうとすると、遠くの方で何かを叩きつけるような音が聞こえて来た。少女が耳をすませてその音源を辿るとそれはちょうど、倉庫の入り口のシャッターの外からなっているようだった。



逃げなくてはと少女は思った。服の湿り具合からいって、少女がここに運び込まれて来てからさほどの時間は経っていない。外で何か起きているようだし、逃げるには絶好の機会だ。少女は体を捻るようにして地面に手をつき立ち上がろうとしたが、足を踏ん張った途端刺すような痛みが走って再び座り込んでしまった。見ると左の足首が紫色に腫れ上がっていた。それを見て、少女を絶望が襲う。手負いの獣が長く生きられないように、ここでは何かが一つ欠けるだけですぐ生き死にに直結する。それに店の物品をかっぱらうことで食いつないでいた少女にとって足を傷めることは何よりも致命的だった。



少女が真っ青な顔で震えていると、ガラガラという音がして、薄暗い倉庫の中に光が射した。顔を上げると先程までしまっていたシャッターが開いていて、何者かが数人で中へ入って来るところだった。

それを見て少女は自分がここへ連れ込まれていたという事を思い出して、怯えた。路地裏に暮らす子供達の間では暗黙のルールがいくつか存在して、それを破ると執拗にいたぶられることがあるのだ。少女が倒れていた場所がもし誰かの縄張りであったのなら、それを侵したと見られても不思議はない。



「ああ。目が覚めたのか」


遠目から見て気づいたのだろう、逆光となっているので顔は見えないが、集団の中で最も背の高い少年と青年の間のような声の男がそう言った。そして少女の予想に反して男の声に怒気は含まれていなかった。

何か返すべきかと思い口を開くが、極度の緊張の為か声は出なかった。両手で自分の体を抱きしめて後退る。特に意味のない行為だとわかってはいても、少女の本能がそうさせていた。



「怯えちゃってかぁわいいー」


いくら少女が願っても男達の歩みは止まらず、とうとうお互いの顔がはっきりと拝めるところまで来てしまった。かわいいと言って少女をじとりと眺める男の顔には下卑た笑いが浮かんでいる。その瞳には獲物を甚振って楽しむ加虐的な色が浮かんでいて、少女は身体から力を抜いた。

こういう目を少女は知っていた。それは個人単位ではなく、人の性質として。そしてこの目をする人に対しては決して抗わず、反応も見せず、相手の成すがままにしておくのが一番苦しみを早く終える方法だと、経験上理解していたからだ。目を瞑り、衝撃に備える。頭か、腹か。実際暴力を振るわれている時より待ち構えている時の方が恐ろしい。どうせなら早く済ませて欲しいものだなと思いつつ待っていると、場違いな笑い声が聞こえた。


「お前、こんな人数に囲まれて寝るなんていい度胸だな!」


その声に瞼を持ち上げると、赤味がかった茶髪をした1人の青年がしゃがんで少女の顔を覗き込んでいた。その顔にはからっとした笑みが浮かんでいる。少女はその表情に見覚えがなくて1つ瞬いた。青年から手が伸びて来て反射的に首をすくめたが、予想に反してその手のひらは乱暴に少女の頭を撫でた。



「よし!お前は今日から俺たちが面倒を見てやる!」

「ーーーどうしてだ?」


言われた事を表面上は理解出来ても、頭が回っていないのかよくわからなかった。撫でられた頭がじんわり熱くて顔が火照る。その熱に不思議と勇気付けられて、少女は少しの沈黙のあと静かに声を絞り出した。



「ああ、女は男よりも役に立つからな」


その問いに答えたのは別の男だった。黒い髪を襟足まで伸ばした、どこか冷たい雰囲気の人。

意味のわからない申し出に対し混乱していたのに対し実質的な答えが返って来たことが少女を冷静にさせた。そして納得した。掻っ払いや暴力など生き抜く力としては男の方に分がある。けれどある意味でいうと、この人達によっては女の方が利用価値が高いというのは確かだ。


「私を売るってことか?」

「いや、それなら面倒を見るとは言わない」


その返事を聞いて一先ずは安堵する。しかしじゃあ何故、という疑問が頭をもたげてくる。


「今の俺たちには君みたいなかぁいい女の子が必要だってことだよ」

「俺ら男しかいねえからなあ」


よく意味がわからなくて首をひねる。そんな少女の様子に気がついたのか、黒髪の男が億劫そうに口を開いた。


「俺たちはちょっと前から集団で旅行客から金品を奪ってたんだが、旅行客を人通りの少ない場所まで誘導するのに苦労しててだな。ほら小汚い男じゃあ信頼されない」


旅行客と言われて納得した。旅行客なら持ち歩く金銭も多いだろうし、土地勘もないから騙しやすい。


「そんなときにお前を拾ったってわけだ。お前その髪染めてるんだろ。それに肌の色も誤魔化してる」


指摘されてはっと顔を上げた。図星だ。白い肌も金色の髪も、ここでは変態と人攫いを呼び寄せる弱点にしかならないから、必死で泥や灰をつけてごまかしていたのだ。恐らく長い間雨に打たれたせいで流れ落ちたのだろう。見ると、ところどころ本来の色が覗いていた。


「金の髪ってのは庶民には滅多に現れない色なんだよ。だからお前がちょっと小綺麗な格好をすれば、観光客は少しもお前を孤児だなんて思わないだろう。そしてお前はまんまと旅行客を騙し、路地へ連れ込む。そこからは俺達の出番だ。どうだ?いい案だと思わないか?」


そう言った男ははじめて口元に笑みを浮かべた。冷徹で残忍な笑み。少女は一瞬ひるんだが、身体の奥から何か得体の知れない熱が生まれたことを確かに感じていた。気付いた時には少女は頷いていた。

そしてそれを満足げな顔で眺めると、黒髪の男は自分の名をキーンだと名乗った。

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