記憶が私を呼んでいる。
幼稚園の頃に見た何気ない窓の景色も、風が吹き荒れ、桜が散り尽くした小学校の入学式も、雨の日のプラネタリウムも、サツマイモの収穫も、すべて。
陽だまりの中というか、昼下がりの誰もいない公園の奥にひとり、ぼうっと、立っているような。
それらは白い靄のようなものがかかっていて、掠れかかって、今にも、私の記憶の中から消えてしまいそうで——。
記憶が私を呼んでいる。
幼稚園の頃なのか、小学生になってからか、思い出せない。
前に住んでいた家にいた頃の出来事だということは覚えている。
夢なのか、現実世界で起こったことなのか、それさえも判断がつかないほど幼い頃の話だから、もしかしたら夢かもしれない。
でも、その記憶の為にも、もう一度あの日の出来事を思い出してみようと思う。
幼かった。なのに、私は何故だかひとりで外を歩いていた。
幼稚園とか小学校があったわけでもなく、赤いダッフルコートを着て、ひとりで歩いていた。
私は気がつくと人の家にいた。何故こうなったのだろう。
その人は私より少し年上に見えた。白いノースリーブを着て、季節はずれだった。
家にはその子以外誰もいなかった。廊下には生ゴミが散らかっていて、部屋には大きな扇風機が一つ。窓は開いていて、カーテンもない。白々とした空と、葉を失って寒そうな木々が淋しく揺れているのがよく見えた。
その部屋はアパートの5階あたりだった。昔は高いところが苦手だったから、怯えていたかもしれない。
その子は私に透明なガラスのコップに入れた水道水を渡した。
コップの底は少し汚れていて、水も少し濁っているように見えた。
彼は「ここにいてくれ」とだけ言って、私を放置した。
私は知らない人の家に来たのに、何故か逃げようとも、叫ぼうともしなかった。私は人形のように静かに座っていた。
彼の姿を見ようともしなかった。
夕方になった。世界が終焉を迎えようとしているくらい空が真っ赤に燃え、今にも目の前の太陽に喰らい尽くされそうになった。
彼が戻って来た。「もう帰っていいよ」とだけ言った。
私はロボットのように、言われる通りに動いた。「あの子は何がしたかったんだろう」と考えることもしなかった。
私にとって、彼はどうでもよかったのだ。
しかし、私は彼を忘れられなくなっていた。
数ヶ月後、私は引っ越すことになった。私は引越しの準備をできるだけ手伝ったが、ちょうどその頃、近所の人たちで餅つきをすることになったから行った。
そこには、あの時の彼がいた。この前と同じ格好をして、誰かに見つからないようにしているようだった。
私は目を合わせようとしなかった。合わせたくなかった。合わせたら殺されるとまで思った。彼はまさに私の中の恐怖の象徴だった。
私は近所のお父さんに呼ばれた。「しょうゆときな粉、どっちがいい?」
私は、この場から立ち去りたかった。逃げようとも思った。しかし、お父さんに悪いと思ったのか、黙ってお餅を食べ始めた。
私は震えていた。彼の視線を感じてならない。
「引っ越すんだね」
「信じてたんだけどなぁ。君はここにいてくれると思ってたのに。裏切りやがって……。また僕をひとりにして……!」
私は固まった。彼の影で手元が暗くなった。私は自分の胸の鼓動と彼の体温を感じた。私は勇気を出して口を開いた。
「し、しょうがない……よ……。また……いつか、あ……会えるって……」
彼はいなくなっていた。私は泣いていた。その時は、ただ怖いとしか思ってなかっただろう。
でも、今考えると、彼はただただ寂しかっただけだったのだと思う。そう考えることにした。
私は彼に呼ばれている。霞みがかった世界から、誰もいない世界から、私を呼んでいる。
しかし、まだ行ってはいけないような気がする。そう考えると、彼の青白い手が靄に包まれていくのを感じる。あの時の出来事が繰り返されるような気がする。
だから私は今でも彼のことを考えるようにしている。彼は今何をしているのだろう。
今日も空に瞬く小さな星をじっと見つめる。