漆黒の竜は琥珀に沈む
人間たちが行きかう街並み。
賑やかな笑い声を上げる人間たち。
眼下に広がるその光景を、竜はただ見つめていた。
同胞たちを殺した人間たちの国を、静かに見つめていた。
――我らが何をした。何故静かに暮らしていただけの同胞たちが殺されねばならない。
ただ一頭だけ生き残った漆黒の竜は、怒りと悲しみと憎しみを咆哮にのせ、竜はその国に襲い掛かった。
人間たちは抵抗してきたが、竜にとってはちっぽけで弱い存在だった。
燃え盛る街並み。
人間たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。
親が子を探し、呼ぶ声が聞こえる。
子が泣きながら、親を探す声が聞こえる。
大切な人を、大事な人を呼ぶ声が、聞こえる。
それをかき消すように、竜は破壊に身を投じた。
炎が燻り、人の声が聞こえなくなった頃。
高く昇っていた太陽は地平のかなたに沈みかけ、辺りを赤く染める。
廃墟と化した国を、竜は空から見つめる。
復讐を終えた竜に残っているのは、虚しさと疲労。
漆黒の体からは血がしたたり落ちる。
――何故、我だけが、生き残った。
竜が問うのはただそれだけ。
ただひたすら、それを問う。
そして、竜は空高く舞い上がり、何処かへと姿を消した。
その姿を、赤く濡れた琥珀が見つめていた。
その日、一つの国が滅びた。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
人が足を踏み入れることのない、霧深い山。
そこにある谷に、最後の竜は住んでいた。
あの日から、永い時が経ったようにも思えたし、瞬きほどの時しか流れていない気もする。
竜は、ただぼんやりと日々を生きるだけだった。
ーー何故、生きている。
その答えは、未だ見つからない。
見つからぬ問いの答えを探すため、竜は今日もゆっくりと目を覚ました。
谷底にある洞窟を出て、ゆっくりと翼を広げる。
舞い上がり、目指すのは山の頂上にある湖。そこには竜が好む魚がいるのだ。
その途中、竜は岩棚であるものを見つけた。
ぐったりと岩棚に倒れている、薄汚れた小さな体。
人間、だった。
竜の中に甦るのは、同胞たちの断末魔と滅びゆく国。
竜の顔が苦し気に歪む。
その時だった。
「…、」
子供は、薄らと目を開け、竜を捉えた。
その瞳が竜を見つめる。
ーーたすけて。
そう口を動かして、手を伸ばしてくる子供。
ーー助けて、 。
その姿は、あの時助けられなかったあの子と重なって。
気が付くと、竜は子供をくわえて洞窟に戻っていた。
眠る子供を見て、竜は思う。
人間が憎い。だが、あの子と重なってしまったこの子供を見捨てることはできない。
これは、助けられなかったものたちへの償いか。
これは、壊してしまったものたちへの贖いか。
これは、生き残ってしまった自分への罰なのか。
分からない。
分からないのだけれど。
竜の腹に寄りかかり眠る少女の温もりは、ひどく心地よいものだということだけは、分かっていた。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
拾った人間の少女と暮らして、もう一年になる。
目を覚ました少女は、記憶と声を失っていた。
竜を見上げる少女の瞳は不安げで。
竜は彼女に名前をやった。
コハク、という名前を。
彼女は竜の名を知った。
コクヨウ、という名を。
それから、コクヨウとコハクは一緒に暮らした。
春には、山に咲く花を見た。
コハクは綺麗な花を見つけるとすぐにコクヨウにそれを見せた。
コクヨウはそんなコハクに、他の花もあると教えた。
夏には、湖で遊んだ。
魚を食べるコクヨウの横で、コハクは水に足を浸し、パシャパシャと水をはねさせた。
コクヨウは時々コハクの背を押して、コハクを驚かせた。
秋には、木々に実った果実を食べた。
コクヨウは果実をあまり食べたことが無かったが、コハクと食べる果実は甘くて美味しいものだった。
冬は、二人で寄り添って暮らした。
コハクが寒くないように、コクヨウはその小さな体を包み込んだ。
そして、また春が巡る。
コクヨウは湖に来ていた。
コハクは洞窟で留守番をさせている。
この頃、コハクの調子が良くない。どうにかしてやりたいのだが、竜であるコクヨウに人間の病気など分かるはずもなく。
コハクに食べさせる果実を探している途中、コハクが喜びそうなものを見つけた。
少しは、コハクも元気になるかもしれない、とコクヨウはそれを拾う。
片手いっぱいに果実が集まったところで、コクヨウは洞窟へと戻った。
洞窟の前に降り立った瞬間、あちこちから矢や槍が降り注いだ。
皮膚を突き破り、深く穿たれる矢。
肉に突き刺さる、鋭い槍。
ぐらり、と傾いだコクヨウの手から果実が零れ落ちる。
コクヨウは必死に辺りを見回した。
ーーコハク。
彼女は無事なのか。
彼女を守らねば。
そう思うコクヨウの視界に、コハクが現れる。
手に、剣を持って。
コクヨウの記憶に刻み込まれた、あの剣を持って。
琥珀色の瞳が、コクヨウを射抜く。
強く。
強く。
♦♢♦♢♦
今もコクヨウの脳裏に焼き付いている、あの日の記憶。
子供の竜を盾にされ、抵抗できず殺されていく同胞たち。
泣き叫ぶ子供たち。
親が子を呼び、子が親を呼ぶ。
突然西からやってきた人間たちは、そんなコクヨウたちを嘲笑った。
抵抗する同胞の目の前で、竜の子が殺された。
せめて、子供たちは。
子供たちだけでも。
しかし、人間たちは同胞たちを痛めつけ、抵抗できなくしてから子供たちを殺した。
断末魔が響く。
叫びが響く。
傷つけられ、体が動かないコクヨウの瞳には、よく懐いていた竜の子供が映っていた。
あの子を、助けなくては。
コクヨウの体は動かない。
人間たちの体が動く。
竜の子は言った。
ーー助けて、コクヨウ。
剣が、振り下ろされた。
コクヨウの視界が、赤く染まる。
赤く、赤く。
塗りつぶされた。
コクヨウが意識を取り戻した時、辺りは真っ赤に染まっていた。
同胞たちの血で。
コクヨウの血で。
人間たちは既にいなかった。
なぜ、コクヨウだけが生きているのか。
分からない。
分からない。
ただ、唯一分かるのは。
人間たちが、同胞を殺したということ。
コクヨウは傷も癒えぬまま、空へ飛んだ。
西へ、西へ。
あの人間たちに報いを。
そして、咆哮が響くーーー。
♦♢♦♢♦
コハクはあの時人間が持っていた剣を手にしていた。
コハクの華奢な体に不釣り合いな剣を持っていた。
琥珀色の瞳に宿るのは、怒りと悲しみと憎しみ。
「コ、ハク…」
怪我は無いか。
体の調子は。
そう思っても、声は出ない。
周りの岩棚から、人間たちが出てくる。
見たことのある服装。
コクヨウに向けられる、憎悪と恐怖の視線。
ーーあぁ、そうだったのか。
「あの、国の…」
ーー我は、コハクに復讐をさせてしまったのだ。
不意に、コハクが咳き込む。
口元を抑えた手から見えるのは、どす黒い血。
周りの人間たちが慌ててコハクを囲む。
竜血病が進行している。
早くあの竜の心ノ臓の血を。
急がねば、貴方様のお命が。
フラフラとコハクがコクヨウに近づく。
コハクの持つ剣の切っ先が、コクヨウの胸に近づく。
剣が、止まる。
コハクが泣いている。
手を震わせ、涙を流しながら、首を横に振る。
嫌だ。嫌だ。
そう言うように、コハクはしゃがみ込んだ。
「コハク」
いつものように、少女の名を呼ぶ。
憎い人間の、愛しい少女の名を呼ぶ。
「我が死ねば、お前は助かるか」
ゆっくりと、コハクが頷く。
しかし、すぐに首を横に振った。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
涙を流しながら、コハクはそう言おうとしていた。
その姿を見て、コクヨウはやっと分かった。
「そうか」
あの時から、ずっと探していた問いの答えを。
コハクに出会い、探さなくなった問いの答えを。
ーーコハクに殺されるために、生きてきた。
ーーコハクを助けるために、生き残った。
コクヨウは笑う。
笑って、言う。
「我を殺せ、コハク」
琥珀色の瞳が、コクヨウを映す。
揺れるその瞳に、笑いかける。
そして
「ああああああああああああああ!!!!!!!」
冷たい鋼が、胸を貫いた。
ーー声が、出せるようになったのか。
鋼の冷たさは、焼け付くような熱に変わり。
急速に体が冷えていく。
コクヨウ。
コクヨウ。
コクヨウ。
何度も自分を呼ぶ声。
温かい水がコクヨウの体に落ちる。
「コハク…」
自分を泣きながら呼び続ける少女を呼ぶ。
愛しい愛しい、琥珀色の瞳の少女を。
「お前に、名を、呼ばれる…のは、心地良い、な…」
視界が黒く塗りつぶされていく。
もう、寒ささえ感じない。
名を呼ぶ声が聞こえる。
この声があれば、恐怖は無い。
コハク。
コハク。
コハク。
ーー 。
この日、最後の竜が死んだ。
その黒曜石の瞳は、最期のその瞬間まで、愛しい琥珀を優しく見つめていた。