第四話
「……そろそろ連中、寝静まった頃かしら」
竜人の少女リズは、夜更けの宿の一室で、妹を取り返す好機をうかがっていた。
彼女のいる部屋は、宿の一階の奥まった場所にある一室である。
──リズは、間もなく日が落ち切って街の門が閉められるという頃に、どうにか街に滑り込むことに成功していた。
彼女が店じまいを始めている街の人たちに情報を聞いて回ると、すぐに、十人ほどの兵士たちの部隊が宿泊を決めた宿が、どこであるかを知ることができた。
リズは、旅人用のフード付きマントで身を包み、自分の顔や体つきを隠した姿で、同じ宿に宿泊を申し込んだ。
幸いなことに、最後の一室だけが残っていた。
リズが宿の女将に、兵士たちの一団が宿泊しているみたいね、と世間話をすると、女将はリズに耳打ちするようにして、二階の部屋を丸ごと兵士たちが使っていることと、疲れて気が立っているみたいだから二階には行かない方がいいことを教えてくれた。
それは、旅人の少女の身の安全を鑑みての、あるいは面倒事が起こらないようにするための助言だったのだろうが、リズにとっては別の意味で役に立つ情報となった。
なお、竜の力を備えた竜人は、人間の姿のままでも普通の人間をはるかに上回るだけの筋力や身体能力を持っている。
リズ自身の身の安全は、彼女にとって配慮すべき要素ではなかった。
そしてリズはそのまま、あてがわれた部屋から出ないようにして、夜が更けるのを待った。
宿の一階の大部分は食堂兼酒場の広間になっていて、食事をするには部屋を出てそこに行く必要があったが、リズは食事も見送って、ただ待った。
食事の最中に兵たちと鉢合わせになり、万一にでも顔を見られれば、すべてが台無しになってしまうからだった。
そうして迎えた、リズにとってはさんざん待ちわびた夜更け時であった。
「──よし、行こう」
リズは静かに呼吸を整え、部屋の扉を開ける。
暗い廊下があり、右手側に進むと食堂に出る。
二階へ上がる階段は食堂にあるから、リズはまず食堂に向かおうとした。
だがそのとき──リズの頭上から、どたんばたんという物音が聞こえてきた。
また、わずかながら、人の争うような声も聞こえてくる。
「何が起こって……?」
リズは一瞬、もう少し待ってから出直そうかと躊躇した。
気が立った兵士同士が、つまらない喧嘩でもしているのかもしれない。
だとするなら、まだ大勢の兵士が起きている可能性が高く、今二階に突入するのはリィンの危険が大きいのではないかと思ったからだ。
しかし一方で、もし今二階で起こっている何事かに、リィンが巻き込まれているとしたら──
結局リズは、踏ん切りをつけて、突入をすることに決めた。
兵士同士が喧嘩なりをしているなら、その土壇場に乗じてやればいいと考えた。
リズは食堂へと出て行く。
夜も遅い時間、宿の従業員もみな寝静まっていて、食堂には誰もいない。
そしてリズが、二階への階段に向かおうとしたとき──その階段から、何か人影が滑るように駆け下りてきた。
***
「待ってよ。僕はキミたちの敵じゃない」
宿の二階の廊下でそう言ったのは、アルヴィンの次に見張りを交代するはずだった、トリスという名の銀髪の少年だった。
アルヴィンはしかし、その少年兵が言った言葉の裏にあるものを考える。
このトリスという少年兵は、真面目で愛国心の強い堅物だというのが、アルヴィンの持っていた印象だった。
若い兵士には、よくいるタイプだと思っていた。
しかしその印象と、先の台詞の持つ意味とが、アルヴィンの中でどうしても一致しない。
「真面目で堅物の少年」からは、二回りも三回りも裏側に回らなければ、出てこない言葉だと感じた。
「キミの目的を教えてほしい。きっと僕たちは協力できる」
この言葉も、胡散臭かった。
愚直なタイプにしては賢すぎる、とでも言えばいいだろうか。
信用できない。
アルヴィンの直観が、そう訴えていた。
嘘をつくやつは、決定的な場面で、また嘘をつく。
このトリスという少年には確かに何か裏があって、ただの兵士としてアルヴィンを咎めるものではないのだろうが、敵の敵が味方とは限らない。
「先にお前の目的を教えろよ、トリス。見張りの交代ってわけじゃねぇんだろ」
アルヴィンがそう問うと、対する少年兵は少し口をつぐんでから、答える。
「やっぱり、僕もこんなのは間違っていると思うんだ。子どもを誘拐して、そんな卑怯な手段で戦争に勝利しても、そこに正義はないと思う。その子は、山小屋の竜人に返すべきだ」
そう言って、トリスはアルヴィンたちに向かって歩み寄ってくる。
もう少しで、剣の間合いだ。
トリスが発した今度の言葉自体は、アルヴィンが抱いていた、元々のトリス少年兵の印象に合致したものだった。
おおよそ満点に近い。
だが──「僕も」と言った。
察しが良すぎるし、人を懐柔する言葉の使い方を分かっている者が発する言葉であると思った。
癖のようなものとして、染みついてしまっているんだろうか。
「寄るんじゃねぇよ」
アルヴィンは、少年兵が剣の間合いに入ってくる前に、躊躇せず自分の剣を抜き、構えた。
リィンがその青年の背中に寄り添う。
暗がりの中、足を止めたトリスの口元が少しだけ、不愉快そうに歪んだ気がした。
「……どういうつもり、アルヴィン。キミもその子を助けたいんじゃないの?」
「猿芝居はやめろ。くせぇんだよテメェ」
「……困ったな。どうしたら信用してもらえる?」
「そこをどいて、元の部屋に戻って寝てろ。目的が同じなら、それで達せられんだろ」
「…………あはっ」
──ヒュン!
トリスが後ろに跳びつつ、腰の短剣を一本引き抜いて、投げた。
投擲された短剣の刃先が、アルヴィンの斜め後ろに隠れていたリィンの首に吸い込まれるように宙を滑ってゆき──
「ぐっ……!」
アルヴィンの、剣を持っていない方の左手首に、短剣の刃が突き刺さった。
アルヴィンがリィンをかばい、自分の腕で代わりに受けたのである。
「うっそぉ、今の防ぐ? なんて反射神経してるんだよキミ」
着地したトリスが、楽しそうに驚きの声を上げる。
「本性現しやがったな! 殺人鬼かよ!」
そのトリスに駆け寄って、アルヴィンが剣を突き出す。
振りかぶって切りつけるには、廊下の天井が低い。
「──っとぉ!」
トリスは迫る突きを、身をひねってかわす。
そこにさらに二の突き、三の突きが襲う。
「キミこそ、雑兵にしちゃ、剣筋がいいけどっ!」
トリスはバタバタと後退しながら、それらの突きをどうにかさばいてゆく。
その額には冷や汗が浮かんでいて、発している言葉ほどには余裕はなさそうだ。
最後には尻餅をつくようにしてどうにか回避をし──後退を続けていたトリスの後ろ手が、階下への階段に差し掛かった。
もう、あとがない。
右手に剣を手にし、短剣の突き刺さった左腕から血を流したアルヴィンが、尻餅をついたトリスの前に立つ。
「俺はこう見えて努力家なんだよ」
「嘘つけよ。僕はこの道中、キミが怠けているところしか見たことがない」
「はっ、よく見てやがる。実際はガキの頃に、剣術習ってたってだけだ。これでも結構、いい商家の出でな!」
アルヴィンがとどめの一撃を入れようと剣を引く。
それを見たトリスは、その場からさらに後退し──自ら階段を転げ落ちて行った。
そして踊り場までごろごろ転がり落ちて行くと、そこで体勢を立て直す。
「痛ってて……僕としたことが、無様だねこれは」
トリスはそのまま、階段を上がっては来ずに、猫のように素早く階下へと降りて行く。
リズは、階段を滑るように降りてきた人影を見て、人間にしては素早い動きだと思った。
そして、そんなことはともかくと、状況の把握に努める。
竜人であるリズの赤い双眸は、暗闇の中でも問題なく見通せる暗視能力を持っている。
そのリズの視力が捉えたのは、人間の少年の姿だった。
リズの記憶が確かならば、この少年は、山小屋に来た兵士たちのうちの一人であったはずだ。
その少年兵は、腰の短剣を一本引き抜き、階段脇の陰に隠れようとしたときに、リズの存在に気付いた。
人間なのに夜目が利くのか、リズを見て驚いたような表情を浮かべていたが、一拍の後に、声をかけてきた。
「──ごめん! 僕、やっぱり良くないと思って、妹さんを助けようとしたんだけど、失敗して──早く行かないと! 今、上の奴らが妹さんを殺そうとしてる!」
その言葉を聞いて頭に血が上ったリズには、少年の言葉の不自然さに気付くだけの精神的な余裕はなかった。
リズは感情を昂らせて、少年が下りてきた階段を、猛然と一足跳びに駆け上がった。