第三話
バルマール国の敵国は、アルトヴァルンという。
十六歳の少年であるトリスは、そのアルトヴァルン国の密偵として、バルマールの軍に潜り込んでいるうちの一人であった。
「頼みの綱の特務部隊に、密偵の僕がこうも簡単に入り込める時点で、もうどうにも穴だらけって感じだけどね」
トリスはあてがわれた宿の部屋で、そんなことをつぶやく。
夜もだいぶ更け、ランタンの細い灯り一つで照らされた部屋にいるのは、彼一人だ。
部隊が竜人の住む山小屋を訪れ、その子どもを誘拐してきた日の夜のことである。
トリスは、見張り以外の皆が寝静まった頃合いを見計らって、「再誘拐」を試みようとしていた。
トリスの母国アルトヴァルンは、バルマールとの戦いにおいて優勢と目されているが、実際にはバルマール国民が思っているほど余裕があるわけでもない。
地理的に逆側にある隣国がきな臭い動きを見せ始めているし、戦を続けるための物資や食料がさほど潤沢なわけでもない。
また、長引く戦争による領民への税負担の増加が原因で、領内の一部に内乱の動きがあるという情報も、トリスの耳には届いている。
可能な限り早く、可能な限り損害を少なく、戦争を勝利に導きたい。
それがアルトヴァルン本国からの切実な要求であり、そのための助力をすることが、トリスら密偵に課せられた使命でもあった。
もっともトリス自身にとっては、本国からの命令内容の達成よりも、自身の命のほうがよほど大事だ。
また、単に忠実な密偵というよりも、快楽主義的な性質を持つトリスにとっては、事を面白く進めることこそが最重要案件であったりもする。
そのトリスが選んだのが、バルマール兵の部隊から竜人の子どもを自分が誘拐しなおすという、再誘拐という手段だった。
竜人の子どもを自分個人の手中に収めてしまえば、竜人を手駒にすることも不可能ではない。
山小屋で見た竜人の少女も、あまり世知に長けているようには見えなかったから、情報を巧く操作してやれば、本当に面白いように動かせるかもしれない。
やり方によっては、竜になった彼女にバルマール国の軍勢を潰させることだって可能だろう。
そうすれば、本国は兵を消費することなく、きわめて短期間で今の戦に決着をつけることができる次第になる。
あとは、実行あるのみ。
この場にいるバルマールの兵たちは、どうにも凡愚ばかりだ。
トリスは、自分の技量をもってすれば、目的を達成することは難しくないと考えていた。
件の子どもを同室で見張るのは、一人ずつ、朝までに三交代、合計で三人。
部隊のほかの兵たちは、旅と緊張疲れからか誰も見張りの任に就きたがらず、トリスが殊勝なふりをして立候補したら、簡単に通ってしまった。
そして残る二人は、部隊長の指名で無理やり見張りをやらされることとなった。
一番目は、確かアルヴィンという名の兵士だった。
その次がトリス。
三番目が、コルタナとかいう名前だったと思う。
今は最初の見張りの時間で、本来なら今の時間、トリスは寝ていることになっている。
そして、交代の時間になったら最初の見張りがトリスを起こしにくる、というのが本来の予定だ。
しかしトリスは、最初の見張りの時間の中頃で交代すべく、件の竜人の子どもがいる部屋へと向かうことにしていた。
理由はこう──一旦眠りについたが、緊張していたせいかすぐに起きてしまった、目がさえて眠れないから、せっかくだからもう交代するよ──
疲れた体で嫌々見張りをやらされている兵士のことだ、特に疑いもせず、渡りに船と思って話に乗るだろう。
特に、最初の見張りであるアルヴィンとかいう名前の兵士は、任務に対するやる気のなさが如実に態度に出ていたから、なおさらである。
彼は見張りの任に就かされたことを「貧乏くじ」などとぼやいていたが、傍から見れば、不真面目を部隊長に嫌われているゆえの、引くべくして引いたくじである。
そして、そんな人物に重要人物の見張りを任せるという部隊長も、相当の無能だと思うが──トリスにとって敵方の無能は、望むものでこそあれ、厭うものではなかった。
トリスはあてがわれた部屋の扉を開き、廊下へと踏み出す
宿の二階の廊下である。
左手に進むと、廊下をはさんで対角線上に竜人の子どもが見張られている部屋があり、もう一方の右手側はすぐに、階下へと降りる階段になっていた。
トリスは念のため、足音を忍ばせる。
トリスの本業は密偵なのだから、そのぐらいはお手のものだ。
そして、竜人の子どもが見張られている部屋に向かおうとすると──驚いたことに、目的とする部屋の扉が、その内側から開かれた。
件の部屋の中からランタンの淡い灯りが漏れ、その灯りが、廊下に二つの人影を映し出す。
一つは大人の影、もう一つは子どもの影。
「静かにするんだぞ。お姉ちゃんのところに行きたけりゃな」
それは、最初の見張りの声だった。
声量は抑えられているから、常人ならば声がしたことに気付いてもその内容までは拾えないところだったが、密偵として聞き耳の能力を鍛えてあるトリスは、確かにその内容までを聞き取っていた。
「うん、わかった。やっぱりあぶないおにいちゃん」
「……確かに、台詞はそうだけどな」
もう一つの声は、竜人の子どものそれだった。
これらの会話を聞いて、トリスは今の二人の関係がどのようなものであるのか、脳をフル回転させて予想したが、いくつかの可能性に行きついたものの、確定的な一つの結論には至らなかった。
そして、その短い時間にトリスがもう一つ考えたのは、自らが今すぐに引き返して、自分の部屋に隠れるべきかどうかということだった。
しかし、高い密偵の技量を持つトリスをもってしても、タイミング的に厳しいだろうと感じた。
それにそもそも、見張りを交代する大義名分は持ってきているのだから、別段隠れる必要もない。
何より、より後ろめたいのは自分ではなく、相手の方だろうと直観したから、堂々としていればいいのだと考えた。
件の部屋から、こっそりという様子で、見張りの兵──金髪の青年が廊下に姿を現す。
素人が行なう隠密行動の真似事が、トリスの美的感覚に障った。
次に見張りの兵は、トリスの姿を見つけてぎょっとする。
その後を追って、竜人の子どもが廊下に姿を現す。
トリスはわずかのいらだちを混ぜつつ、しかし寝ているほかの兵たちを起こさぬよう声を抑えて、言葉をかける。
「キミ、確かアルヴィンって言ったっけ。とらえどころのない男だと思っていたけど──一体、その子を連れてどこに行くつもり?」
「……ちっ、トコトンついてねぇな」
見張りの兵──アルヴィンは、腰の剣へと手を伸ばしつつ、とっさに視線を走らせる。
廊下の先、別の兵士が寝ている部屋──そして、今まで彼らがいた部屋の奥。
トリスは、まずいと感じた。
部屋に戻り、窓から飛び降りて外に出るなんて真似をされようものなら、少し面倒なことになる。
「待ってよ。僕はキミたちの敵じゃない」
トリスの口からとっさに出てきたのは、そんな言葉だった。
アルヴィンの注意が、トリスに集中する。
トリスはさらに、言葉を重ねる。
「キミの目的を教えてほしい。きっと僕たちは協力できる」
そう言いながら、トリスは視線をアルヴィンから動かさずに、頭の中だけで自分の今の武装を確認する。
兵士として扱う長剣が一振りと、より扱い慣れた短剣が三本、それぞれ腰のベルトに装備されている。
防具は一切身に着けていないが、それは相手も同じことだ。
トリスは自分の狙いを相手に感づかれないよう気を付けながら、心の中で舌なめずりをした。