5-7
そしてもう一度世界が反転した。
「…………」
赤い照明、再塗装はしたものの古さを隠しきれない壁。配管はむき出しで、船体という入れ物に兵器を詰め込めるだけ詰め込んで、空いたスペースを人間が血液の如く駆け回っているとでも言うべき通路だ。右手を動かして横にあったパイプに手を伸ばし、その空間に自分が存在するという事を確かめる。それを終えてから状況を整理し、紫色の霧が立ち込める中、改めて周囲を見回した。
元魚雷発射管室、現女風呂に隣接する通路にはアリシア1人、他に誰もいないし、何も無い。耳をすませば壁の向こうで稼働する外燃レシプロ機関と石炭炊きボイラーの騒音が聞こえ、少なくとも三笠は生きているようだが、足音や話し声など、およそ人の気配と認められる音は一切聞こえてこない。
果たしてこれは現実なのか、それともまだ幻想の中にいるのか、いやそもそも機械が幻を見る事は可能なのか。そんな題材のSF小説があったような気がするが、記憶領域に埋もれた内容を思い出すには時間がかかる。いつもより響く足音を鳴らしつつその場を離れ、艦中央へ繋がる扉へ。水密隔壁を兼ねるそれのハンドルを回してロックを解除、両手で引っ張ると分厚い扉はゆっくりと開き。
「…え……」
幻、または夢の中にいるというなら物理法則など通用しない、それは理解しているが、
それを踏まえた上でなお、ふざけるのも大概にしろと言うべき光景が扉の先には広がっていた。
「アリシア?」
窓の一切無いコンクリート打ちっ放しの壁、リノリウムの貼られた床。蛍光灯に照らされる室内には複数のオフィスデスクと、同じ数のパソコン。壁に沿って並べるように実験機材が並んでいる。デスクのひとつの前で椅子に座り、髭の生えた顔をこちらに向ける初老の男性は疑問符を浮かべて名前を呼ぶ。室内にいる人間はその男性の他に2人、金髪で不機嫌面の西洋人と、光を失った目に眼鏡をかけた東洋人。いずれも声をかけてきた男よりは若く、そして全員が白衣を着ている。神官や巫女が着る白衣ではない、科学者が羽織る白衣である。
「博士……」
「どうした、早く座りなさい」
それはこの時代に目覚めて最初に視界に収めた人間、今アリシアがここにいる理由を作った人物。だというのに、知っているのは日向という苗字だけで、フルネームを聞いた事が無い。
千羽大樹研究所、かつてそう呼ばれていた場所である。ここでアリシアは目覚め、大樹を覆う毒と戦い、そして100年以上の間縛り付けられた。
「いえ…私は行かなければ……」
「行く?どこにだね」
どこに、さて
行かなければならない場所などあったろうか。
思い出せない、たった今大量の記憶が一瞬にして欠落したような感覚はある。機械である自分が感覚などというものを持ち合わせている筈は無いのだが、そう表現するより他は無く、おもむろに背後を振りかえってみたが、そこには水密扉などとは違う、至って普通のノブが付いた普通のドアがあるのみだった。行く場所など無い、この建物の外は謎の毒素が覆い尽くしている。デスクに向かってこの毒素への対抗手段を生み出す、今やれる事はおそらくそれだけ。
ただ確実に言い切れる点がひとつ。
これは夢だと。




