■第60話 音楽室で
その日は雨が降ったため、陸上部は校内トレーニングをしていた。
あの日以来、アサヒを極力避け必要最低限しか接しないようにしていたナツ。
今までは校内を走る時には大抵アサヒの後方を走ったり、一緒に階段ダッシュを
したりしていたのだが、もうそんな事はしてはいけないと自分で自分に言い聞か
せていた。
当のアサヒも松葉杖のため走り込みはまだ出来ない。
リハビリも兼ねて廊下を歩き、部員が走る様子を監督していた。
ナツは敢えて2階廊下を走っていた。
1階廊下だとアサヒと顔を合わせてしまう。
2階までは松葉杖で上がって来ないだろうという予測の下、音楽室がある西棟の
廊下をひとりナツは必死に腕をふり脚を上げて走っていた。
頭の中の邪念を振り払うかのように、無我夢中で廊下を駆け抜けていた。
いつもは吹奏楽部が使っている音楽室の前に差し掛かる。
今日は別の場所で全体練習をしているようで、そこは静まり返っていてナツの
走る靴底のゴムが擦れる足音しか響いていない。
開け放った音楽室ドアの前で足が止まった。
真っ先に目に入ったピアノに、目を細めるナツ。
子供の頃アキと一緒にピアノ教室に通っていて、なにより好きだったピアノ。
辞めてからは自宅リビングにあるピアノも、一切手を触れなくなっていた。
『つまらない』 という理由で辞めた自分は、もうピアノを弾いてはいけない
気がしていた。
誰もいない音楽室に、グランドピアノがひっそりと。
思わず廊下をキョロキョロと見渡し、自分しかいないことを確認してそこに足を
踏み入れた。
静かに椅子に座り鍵盤蓋を開けると、ひとつ小さく深呼吸をした。
ゆっくり指先を下ろしてゆく。
鍵盤のひんやりした硬い感触。大好きだったこの感覚。
思わず自然と頬は緩んだ。
長い間弾いていない指先はきちんと動くか心配だったが、上手に弾こうなんて
当時から思ってはいなかったナツ。
ただ楽しくて楽しくて仕方なくて、指の動きを止めたくなくて、落ち着きなく
流れるその曲調は性格がよく表れていると当時から言われていた。
小さく鍵盤を押し下げた。
自分の指が鳴らす、耳に懐かしいその躊躇いがちな音。
もう一度、叩いた。
澄んだ小気味よい音が体中を駆け巡る。
すると、ナツは水を得た魚のように弾き始めた。
その日焼けした指先は、仔犬のようにコロコロと鍵盤の上をはしゃぎ、
じっとしている事が出来ず駆け回るようにメロディーが溢れる。
ブランクがあるため思うようには弾けないものの、ナツの心を満たすには
充分だった。
時間も忘れてナツはピアノを弾いていた。
楽しくて楽しくて、指先を止めることなど出来なかった。
なにもかも忘れてピアノだけに没頭できるこの時間を心から愛しく思っていた。
その時、
『すごいじゃーん。』
音楽室の戸口から声が聴こえ、ナツが慌てて指を止める。
そこに立っていたのは松葉杖で足をかばい立つ、アサヒの姿。
いつもの陽だまりみたいな顔を向け、笑っている。
『先輩・・・。』 ナツがバツが悪そうに目を伏せた。
アサヒに会ってしまった事、練習をサボって音楽室にいる事。
気まずくて俯く理由は色々あった。
アサヒがゆっくり足を進め、近付いてくる。
そして、ナツが座るピアノ椅子隅にちょこんと腰掛けた。
『習ってたんだっけか?』 アサヒがナツに微笑みかける。
いつもの耳にやさしい低い声色。
ナツはまっすぐ鍵盤に目を落としたまま、少しだけ口許を緩めた。
『・・・子供のころに。
すっごい好きだったんです、ピアノ・・・。』
その一言に、一瞬アサヒがなにかを思い出すように動きを止めた。
(あれ・・・?
つまんないから辞めたって聞いたような気がする・・・。)
なんとなく感じたふたりの間の微妙な空気に、アサヒが慌てて口を開いた。
『俺、1曲だけ弾けんのあんだよねー。』
『え? もしかして・・・ド定番の??』
ナツが顔を上げてやっと笑顔を見せる。
椅子の角にちょこんと腰掛けていた体勢からきちんと椅子に座り直し、
ナツと並んでピアノに向かうアサヒ。
『ド定番ゆうな! ネコは歴としたピアノ曲だ!!』 そう言うと、
アサヒは右手の人差し指1本でたどたどしく鍵盤を叩きはじめた。
『弾ける』という割りにはメロディーはガタガタで、ふんじゃうどころか
猫がまだ登場すらしていない感じに、ふたり、大笑いした。
ナツがアサヒをサポートして連弾する。
左側に座るナツが左手で、右側に座るアサヒは右手の人差し指で。
互いの二の腕が触れ合うほど近い、ふたりの距離。
ふたり、こぼれんばかりの笑顔で鍵盤に指を落としていた。
ボロボロのメロディーよりも愉しそうな笑い声のほうが大きく音楽室中に
木霊した。
アサヒがそっとナツを見つめる。
ナツの愉しそうに笑う顔。
ナツの愉しそうに笑う声。
どきどきしていた。
ずっとこうしていられたらと思った。
ナツを心の底から愛おしく感じていた。
アサヒが、ぽつり呟く。
『最近、避けてね? 俺のこと・・・。』
ナツの手が止まった。
笑顔が一気に哀しげな顔になり、うな垂れる。
アサヒもピアノから手を離し、太ももの上に所在無げに置いた。
今までの笑い声が嘘だったかのように、静寂に包まれる音楽室。
ピアノの下で、アサヒの左手とナツの右手が微かに触れ合った。
思わず、アサヒがその手をぎゅっと握る。
驚いて一瞬ビクっと小さく跳ね上がり、しかし、その小さな日焼けした手は
アサヒの大きな手をにぎり返す。
『アキが・・・元気ないんです・・・
あたしのせいだ。
あたしが・・・
だから、
だから先輩とは必要以上に近付いちゃいけないのに、あたし・・・。』
顔を上げアサヒを見つめるナツの目には溢れそうな涙が。
しかし必死にこぼれ落ちるのを堪えると、にぎっていた手を離して音楽室から
走って行ってしまった。
音楽室にひとり、アサヒはピアノ椅子に浅く腰掛けたまま。
その大きな背中は心細げに丸まり、持ち上がることを知らないかのよに
首をもたげていた。
力が入り指先が白くなった拳で、思いっきり鍵盤を叩きつける。
悲鳴のような哀しい複数音が静まり返った音楽室に響き渡った。




