■第53話 その気配
『オノデラ・・・ 俺、さ・・・・・・・・・・。』
アサヒから溢れる ”その気配 ”に、ナツが慌てて真っ赤になって俯いた。
そして壁に背をつけたままズリズリと下がりながら、床にしゃがみ込む。
その顔はどうしていいものか分からず、泣き出しそうに哀しく歪む。
ナツのその顔を見下ろした。
きっとナツはアキの顔を思い浮かべている。
こんな中途半端な今の状態で、なにをどうしようというのだ。
アサヒは自問自答して、かぶりを振った。
ゆっくり体を離すと、アサヒはナツの手を掴んで引っ張り上げ、立たせた。
その掴んだ華奢な手首には、大切そうにミサンガが2本結ばれている。
アサヒはナツが立ち上がってもまだ、手を離せずにいた。
離したくなかった。
ナツもまた、アサヒに握られた手を振りほどこうとはしなかった。
離さなければいけない。
本当は、この手は掴んではいけない。
握り返してはいけないのは、分かっているのに。
互い、手をにぎったまま泣きだしそうな顔で俯いていた。
すると、アサヒがナツの手をにぎるその大きな手に、
更にぎゅっと強く力を入れた。
そして、苦しげに顔を歪め、ナツの右手首に目を落とす。
『チョコバー・・・ オノデラの、バレンタインの・・・
あれ。 ・・・あれが。 一番、・・・旨かったなぁ・・・。』
その声は、まるで泣いているみたいに震えていた。
一番言いたくて、しかし一番言えない言葉を互いに必死に堪えていた。
言ってしまったら、どうなるのだろう。
言われたら、どうするのだろう。
静まり返った廊下の角に、ダイスケの姿があった。
その手には部長報告用の、部員のタイム一覧表が入ったクリアケースが
握られている。
ひと気ない廊下でまるで抱き合うように近付くふたりの姿に、
息を殺して目を見張っていた。




