<長女5歳、12月1日>
予約した説明会は午後2時開始だ。午後から有給休暇を取って、説明会の会場に向かった。この先、妊娠と出産に向けて手続きや通院が増える可能性を考えると、有給休暇はできるだけ残しておきたい。職場から説明会会場の市民会館までは自転車で30分程度かかった。昼食を食べる時間はなかったので、市民会館の隣の売店で買ったクラッカーを、甘ったるい缶コーヒーで流し込んだ。
入口で受付を済ませると、100脚ほどのパイプ椅子の並んだ小ホールに案内された。前から順に詰めて、すでに半分より少し後ろの列まで席が埋まっていた。隣の席には4歳くらいの男の子が携帯端末を握りしめて真剣な顔でアニメを眺めながら座っている。もう一つ隣に1歳くらいの赤ちゃんを抱いた女性が立ったままゆらゆらと揺れながら、入り口で渡されたパンフレットを読んでいた。座席を見渡すと、すでに後ろの方まで席が埋まっていた。あちこちに赤ちゃんや幼児の姿が見える。少子化が進んだ現在では、珍しい景色に感じられる。
会場前方の照明が少し暗くなって、説明会が始まった。講師として紹介されたのは、市の保健師と市内の病院の産婦人科医だった。まずは保健師から、制度の概要と手続きについて説明があった。対象者、対象要件と禁止事項。特に卵子や胚の売買、譲渡、その他第三者への提供の禁止については繰り返して注意があった。もし禁止されている行為が発覚した場合は助成の停止及び既払い分の返還を求められる。パンフレットやwebサイトに書かれている内容とそれほど変わらないが、改めて説明する事が大事なのだろう。
『人口構成補強に関する助成制度』がカバーしているのは、一般的な保険適用の治療範囲とほぼ同じで、保険適用される治療の自己負担分がさらに減額される。精子提供についても、個人契約に比べてトラブルが少なく信頼性が高い。精子ドナーは、提供時点で健康上の問題、遺伝疾患、犯罪歴、一定回数以上を超える精子提供がないことが確認された日本国籍を持つ25-40歳の男性に限られる。親権や養育費の負担義務や財産相続は発生しないが、子どもからの請求に応じて一定の個人情報を開示することに同意している。
私のケースでは精子提供についての情報が最重要事項なので、特に集中して聞いた。面倒な離婚手続きに苦心した身としては、親権や養育費のことを考えなくていいのはメリットのように感じてしまう。子に開示される情報には、提供者の氏名や提供時の年齢、遺伝的な疾患リスク、病歴、提供回数や提供場所などが含まれる。提供回数や提供場所は、異母兄弟姉妹と知らずに近親婚してしまうリスクを回避するのに、ある程度、役に立つ情報だ。
生物学的親を知る事や自身のルーツを辿れる事が子どものアイデンティティ確立に重要とされている事は、子どもの権利条約にもある通りだ。しかし、このアイデンティティの感覚は、私自身にはあまり理解できていないように思う。子どもたちは、自分の父親がどのような人物でどのように生きた人か、知りたいと願うものなのだろうか。見知らぬ生物学的な父親を、自身のルーツのひとつと認識するのだろうか?
産婦人科医からは、人口構成補強制度の下で対象となる医療の具体的な説明があった。不妊治療を目的とした医療との違いは、性別を産み分けるための工程が含まれていることだ。体外受精の場合、受精した胚の状態と遺伝型を調べ、優先的にXX型の胚から子宮に移植する方法が一般的だ。一方、シリンジで精子を注入して体内で受精する人工授精の場合は、もう少し大雑把な方法になる。フローサイトメトリーを使って、性染色体別に精子を分離し、分離後のX型の精子を使って人工授精をする。
説明のために、フローサイトメトリーの装置の外観と実際に精子を分離する時の動作の動画が流された。装置は卓上に置かれた箱に、流路の細い管と操作用のディスプレイがついたようなシンプルな形状をしている。精子一細胞ずつが通れるだけの細い管の中を、精子が一細胞ずつ流れていく。X染色体を有する精子とY染色体を有する染色体を有する精子には、わずかながらにDNA含量の差がある。この差を検出して、検体採取用の出口につながる流路に送る細胞と廃液用の流路に送る細胞を選別している。
フローサイトメトリーを使って精子を染色体別に分離する技術は、畜産業の分野で使われてきた実績がある。卵を産む雌鶏や、牛乳を出す雌牛に比べ、雄の必要個体数は少なく、雌の個体が多く生まれるように調整する方が合理的だからだ。人間への応用は、精子の大きさの違いによる技術的障壁や、サンプル管理についての倫理的障壁があったが、現在ではそれらの問題はクリアになっている。「安全性についての心配はほとんどありません」とその医師は力強く言った。
体外受精のケースについても詳しい説明があったが、卵子の採取など身体への負担が大きい医療行為が必要になる。仕事を続けながら、そしてチヒロを育てながら治療を受けるには、体外受精は時間的コストが高すぎる。人工授精がうまくいかなかった場合には、すっぱり諦めるのが現実的な選択肢になりそうだ。逆に言うと、人工授精までならば、試してみる価値があると思えた。この会場に来たことで、それぞれ事情は違えど多くの同志たちがいると、実感できたからかもしれない。




