<長女5歳、11月15日>
「ねぇママ。うちには赤ちゃん来ないの?」
チヒロからの問いかけに、束の間、たじろぐ。
「たぶん来ないんじゃないかな」と返事をした。できる限りフラットに聞こえるよう、気をつけながら。
「ふうん。私も妹ほしかったなぁ」
そう言いながら洗面台に向かうチヒロを追って洗面所に入り一緒に手を洗う。家の蛇口は、1人で閉めるには少し固いようで、チヒロが自分で閉めたあとで少しだけ私が閉め直す。「保育園では、もうひとりでできるんだけどね」とお姉さんみたいな口をきく。5歳のチヒロには、もう赤ちゃんらしさはほとんど残っておらず、少女と呼ぶに相応しい。
保育園の保護者会があった今日は、いつもより少し早くお迎えに行った。保護者会が終わって教室の前に迎えに行くと、子ども達がわらわらと集まって「まだ明るいから遊べるね」と言い出した誰かにつられ、クラスメイトのほぼ全員が保育園の隣の小さな児童公園に集まった。
その中に2人、赤ちゃんを連れた母親がいた。そのうち1人は、チヒロと仲良しのアカネちゃんのママだ。「お世話になっています」と挨拶して、一緒に遊ぶチヒロとアカネちゃんを目で追いながら、保護者会のこと、子どもたちの好きなもの、などとりとめもなく世間話をした。
「ママ、水筒」
いつの間にかそばに戻ってきていたアカネちゃんの声で話が途切れた。アカネちゃんのママはベビーカーに掛けた登園バッグから、水筒を取り出す。
チヒロもすぐそばに寄って来ていて、赤ちゃんが乗ったベビーカーを覗き込んでいた。にこにこと笑いながら赤ちゃんの顔を見つめている。
「アカネちゃんの妹ね。アオイちゃんって名前だって」
赤ちゃんは、チヒロのいる方向を見ながら、右手の人差し指と中指を口に入れて、もぐもぐしている。
「アオイちゃん、かわいいね」
「そうだね、かわいいね」
もし離婚していなければ、私も2人目の子を産むことを考えていたかもしれない。ふと、その考えが頭を過り、心の中に隙間風が吹いた。
ソファで眠ってしまったチヒロをベッドに運び、ふわふわのブランケットをかけた。うさぎのぬいぐるみがついた水色のブランケットで、チヒロのお気に入りだ。チヒロは、うさぎのぬいぐるみ部分を「モコちゃん」と呼んでいる。弟夫婦がチヒロの3歳の誕生日に送ってくれたものだ。ちょうどその頃、元夫が家出して、家の留守や夜中を狙って荷物を取りに戻り、家の中には不穏な空気が漂っていた。チヒロにとって「モコちゃん」は不安定な時期を一緒に乗り越えた「戦友」なのだろうと思う。
居間に戻り、夕方のチヒロとの会話を思い返す。まさか「うちには赤ちゃん来ないの?」と訊かれるとは思っていなかった。父親がいないのだから赤ちゃんが生まれないのは当たり前だ、と思い込んでいた。どうやって赤ちゃんができるかまだ知らないチヒロにしてみれば、父親がいないことと赤ちゃんがいないことに関連性など見出せないだろう。アカネちゃんの他にも保育園のお友達には弟や妹ができた子が続いた。自分の家にも赤ちゃんが来るはずだ、と考えるのは、寧ろ自然なことなのかもしれない。
チヒロにとって、妹や弟がいる事はプラスに働くだろうと思う。実家に滞在する時、チヒロは、弟夫婦と姪、私の両親と、いつもより多くの”家族”の中で過ごす。その間、チヒロは、普段より注意深く周りを観察して、コミュニケーションの多様さを学んでいる様子だ。特に、チヒロよりふたつ年上の姪っ子の存在は大きい。兄弟姉妹のいない2人にとって、歳の近い従姉妹は、期間限定で姉妹気分を味わえる仲間なのだろう。一緒にいる間は、常にくっつくようにして遊んでいる。
普段の暮らしは、チヒロと私の2人きりだ。私たち2人はいつも当事者で、家族の中で起きる出来事を第三者的視点で”見る”立場がない。本来は両親から与えるはずだった経験を失くしてしまった事を申し訳なく思う。もし、妹か弟がいれば、人間関係の単調さは少し改善されるだろう。
考え事をしているうちに、目が冴えてしまった。こういう時は、自分の頭でぐるぐる考えるより、外からの情報を詰め込んで疲れさせてしまう方がマシだ。今日は金曜で、明日は仕事も保育園も休みというのも都合がいい。シングルマザーの妊娠・出産について情報収集を試みることにした。ダイニングテーブルに置いたPCから「シングルマザー 出産 2人目」と入力して、参考になりそうなSNSアカウントをいくつかフォローし、医療情報のwebサイトを流し読みしながらブックマークしていく。
実際、女性が結婚しないままで子どもを産み育てることに対する偏見や不利益は、一世代前に比べて随分と少なくなった。人間の寿命が延び、少子化が進み、個人の生き方が多様化し、離婚も婚外子も珍しくなくなっていく中で、婚姻関係という契約の正当性は説得力を失いつつある。一方で、男性不妊の増加傾向から、婚姻中の夫婦であっても精子提供を利用せざるを得ないケースも増えてきた。社会的な父親の不在も、遺伝的な父親の存在も、ある程度は一般的なものとして認識されつつあるように思う。
病院のwebサイトには、大抵、『人口構成補強に関する助成制度』のwebサイトのリンクが貼られていた。オフホワイトとオリーブグリーンを基調とした『人口構成補強に関する助成制度』のwebサイトには、妊娠出産に関連するあらゆる公的制度の情報がまとめられている。以前このwebサイトを見たのは、チヒロを妊娠する半年ほど前の時期だった。当時、産婦人科でやせすぎを指摘され、自分は妊娠が難しい体質なのかもしれないとぼんやりした不安を抱えていた頃だ。
葉酸や鉄分のサプリメントを飲み、食生活を見直すとともに、不妊医療についても調べていた。もし自然妊娠が難しいのであれば、具体的にどのような治療を受けられるのか知りたかったからだ。『人口構成補強に関する助成制度』のwebサイトは、一般的な不妊治療や生殖補助医療に関する情報がまとめられていて重宝した。肝心の『人口構成補強に関する助成制度』は、2人目以降の妊娠でしか使えなかったので、当時の自分が対象外だったが。
要件が変更されていなければ、今回は、対象者に該当するはずだ。対象要件の”改悪”がないことを願いながら、webサイトを読み進める。
<人口構成補強に関する助成制度>
対象者:
・18歳〜40歳までの日本国籍を有する女性
・経産婦であること
主な対象要件:
・助成の概要及び倫理上の制約に関する説明会へ参加すること
・卵子や胚の売買、譲渡その他第三者への提供はいかなる場合も行わないこと
・過去3回以上、当該制度の助成を受けての出産を行なっていないこと
対象となる医療の範囲:
人工授精・妊娠確認投薬・採卵・卵子凍結
体外授精・胚培養・胚移植・妊娠確認
精子提供
妊婦健診・分娩・無痛分娩・他
助成内容:
・対象となる施術について保険診療報酬の2割
(保険適用と併せて実質的な自己負担は1割)
登録医療機関:
・国内の指定医療機関 (詳細は別表参照)
助成金受給までの流れ:
説明会に参加
登録医療機関受診 (事前健診を含む)
対象となる施術を含む生殖補助医療を実施
助成金申請 (原則、登録医療機関への直接支払制度利用)
サイトを見て、今回は助成制度の要件を満たすことがわかった。もし妊娠を望むなら、精子提供と人工授精の施術を安全に受けられる病院を探す必要がある。助成制度の指定医療機関になっている病院のリストから探せば、それほど時間をかけずに絞り込めそうだ。このwebサイトもブックマークに追加する。時計を見ると、もう午前2時だ。久しぶりに夜更かしをしてしまった。深夜でハイテンションになっているのかもしれないが、もう1人子どもを持つというアイデアは悪くないような気がしてきた。経済的にも、体力的にも、実行するなら今のタイミングで動き出すのがベストだろう。実行の可否は、説明会の後でまた考えればいい。仕事と保育園のスケジュールを確認し、2週間後の日程で説明会の予約をとった。
実際のところ「人口構成補強」の助成制度は、不妊治療患者の救済を目的としてはいない。加速度的に進む人口減少にブレーキをかけるためのものだ 。出生率が減少し始めた1990年頃と比べて、女性1人当たりの平均出生数は平均1人減少し、人口維持に必要な水準である2.1を下回ったまま上昇の兆しはない。その結果、世界人口のピーク到達は1990年頃に予測されていた時期より大幅に早まり、今は加速度的な人口減少に直面している。
世界中で、生殖技術の開発、あるいは、出産や育児に紐づいた税控除の拡充によって、女性に出産を促し、人口減少に歯止めをかけようしてきた。それらの試みは、女性の権利、子どもの権利、生命倫理、といった側面からさまざまに批判され、議論が続けられてきた。
例えば、代理母出産は、長らく議論が続けられてきた問題のひとつだった。本来は、妊娠が困難な女性とそのパートナーの救済手段として、代理母の善意と善良な医療者の前提に、承認されていた。しかしその善意は、中間業者たちに踏み躙られた。貧困層の女性が子宮や卵子の工場として買い漁られ、人身売買の温床となった。苦しんだのは代理母となった女性たちだけではなかった。先天的な障害を理由に引き取り拒否された乳児。代理母が出産時に亡くなり、孤児となってしまった子ども達。小児性愛者によって性犯罪に巻き込まれた子ども達。代理母出産が国際的に全面禁止されたのは10年ほど昔のことだ。
代理出産に比べて「倫理的な問題の少ない」方法として人工子宮の開発も進められている。実際、海外では数十例、人間での成功事例があるようだ。しかし10ヶ月超にわたって無菌培養を続ける経済的コストは、普通の若い夫婦の数年分の給与に匹敵する。事故が起きた場合、動物の胎児のように廃棄はできず、高額の賠償金も発生しうる。経済的合理性の観点から、出産の代替手段として人工子宮が普及する可能性は絶望的に低い。
人口減少の時代が続くにつれ、出生率の低下のみならず、出産可能な女性の総数の減少も指摘されるようになってきた。この状況下、人口減の速度を少しでも緩めるために提唱されたのが「人口構成補強」の基本的な考え方だ。単純な数理モデルから導けるように、人口再生産に必要な成人男性の数は、成人女性の数に比べて少ない。限られた出生数で女性の絶対数の減少を抑制するには、新生児の男女比を女児に偏らせる事が”理論上”は有効だ。近年発表されたいくつかの論文では、現代人の寿命を加味した上で、人口再生産の観点での最適な男女比は35:65~30:70付近だと言われている。
男性側にも、少子化に進む生物学的な懸念が見られている。過去50年の間、先進国の男性の精子濃度は約50%低下し、精子の運動率や形態異常も増加傾向にある。これにより、自然妊娠が困難なカップルが増え、不妊治療の需要が急増している。こうした背景から、人工授精や体外受精、あるいは精子提供は、より現実的な選択肢として広まった。人工授精において、精子を性染色体別にあらかじめ選別することは、技術的には難しくない。鶏卵や乳牛を効率よく得るための畜産技術と原理的には同じだ。
「人口構成補強」の具体的な制度は国や地域によって様々だが、その共通点は生殖医療において女児の出生のための性選択を許容または推奨していることである。母体の安全性や倫理的観点から、性別を理由に胎児を中絶する事は認められない。性別選択は受精の前に行われる必要がある。広く用いられているのは、精子を性染色体別に分離してから、膣に入れて人工受精させる方法だ。
人類の歴史には、女児を”間引”いていた時代もあり、性別の選別もまた、長らく生殖医療のタブーのひとつとされてきた。当然ながら、「人口構成補強」制度においても、親の都合や文化的背景に基づく性選択は禁止されていて、倫理的タブーを回避する処置がとられている。日本国内においては、ランダムに選ばれた一定数の対象者に偽薬 (すなわち性染色体別に分離されていない精液) を人工授精に用いている。割合は非公表だが、この「偽薬」の使用がある事で「親は、子の性別を最終決定していない」という建前ができ、倫理的タブーを回避している。
最善とは言えないまでも、今現時点での技術的・経済的に出来る事を組み合わせた合理的かつ人道的な一つの解だと思う。




