病弱な妹が大事なのはわかるの。でもね、蔑ろにされる側の痛みも、貴方には少しだけ知ってほしかった
その手紙は、紅茶を淹れたばかりの午後に届いた。
差出人の名前を見た瞬間、胸の奥がかすかに軋んだ。けれど封を開ける前から、書いてあることはわかっていた。
『妹のリゼットの体調が思わしくなく、婚約パーティーへの出席が叶いません。申し訳ありませんが——』
最後まで読む必要はなかった。便箋を丁寧に折り畳み、封筒に戻す。
婚約パーティーは一ヶ月も先のことよ。一ヶ月後の妹の体調が、なぜ今わかるのかしら。
来週のことでも、明日のことでもない。一ヶ月も先の日にある婚約パーティを今日届いた手紙一通で欠席しようとする。病弱な妹を理由に。
もう、言い訳にすらなっていなかった。
紅茶はまだ温かかった。湯気がゆらゆらと立ち昇って、私の視界をほんの少しだけ歪ませた。
ああ、またか。
そう思った自分に驚かなくなったのは、いつからだろう。
「マリー」
控えていた侍女を呼ぶと、彼女はすぐに傍に来た。私の顔を見て、一瞬だけ眉が動いたのがわかった。
マリーは、聡い子だ。私が何を言うか、もう察しているのだろう。
「婚約パーティーの招待状の件ですが、先方にはまだ届いていないわね?」
「はい。明日の便で届く手筈になっております」
「全て回収してちょうだい。一通も届く前に」
マリーは数秒だけ黙った。それから静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
問い返さなかったのは、彼女の優しさだ。
なぜ回収するのかなんて、聞かなくてもわかっている。婚約パーティーの主役が来ないのだからパーティーなど開けるはずがない。
そして、その事実を誰にも知られてはならない。
私は立ち上がり、書斎に向かった。招待状の送付先一覧を確認しなくてはならない。
何通あったか。誰に送る予定だったか。配送の経路はどうなっているか。
一つでも漏れがあれば、社交界の誰かの手元に開かれなかった婚約パーティーの招待状が届くことになる。そうなれば噂は一日で広まるだろう。
あの人の面目を、私はまた守ろうとしている。
その事実に気づいたとき、紅茶の温もりはもう指先から消えていた。
◇
回収は完璧だった。
マリーと二人で送付先を全て洗い出し、配送を請け負った者に連絡を取り、一通残らず手元に戻した。
夕暮れ前には全てが片付いていた。誰にも届いていない。
婚約パーティーの招待状など、この世に存在しなかったことになる。
書斎の机の上に積まれた、行き先を失った招待状の束を眺めた。
「お嬢様」
マリーの声が背後から聞こえた。振り返ると、彼女の目がわずかに赤くなっていた。
泣かないで、と思った。あなたが泣いたら、私まで泣き崩れてしまうから。
「全て回収いたしました。漏れはございません」
「ありがとう、マリー。完璧よ」
「……お嬢様は、完璧でなくてもよろしいのですよ」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。完璧でなくてもいい。そんなこと、本当はわかっている。
でも完璧にしなければ、あの人の評判が傷つく。あの人の家が困る。あの人の病弱な妹が、兄のせいで肩身の狭い思いをする。
私の家も困るかもしれない。
だから、私は完璧にやるのだ。いつも、いつだって。
◇
思えば、最初にお茶会を断られたのは、婚約が決まって三ヶ月後のことだった。
『妹の体調が優れませんので——』
あの時は心配した。本当に心配したのだ。お見舞いの品を選び、手紙を添え、リゼット嬢の回復を心から祈った。
半年後の夜会も、同じ理由で欠席された。一年後の舞踏会も。季節ごとのお茶会も。
その度に、私は周囲に笑顔で説明した。
「リゼット嬢の体調が少し」
「あの方は妹思いなので」
「きっと次の機会には」
社交界の人々は最初こそ同情してくれたが、次第にその目に浮かぶものが変わっていくのがわかった。同情から憐れみへ。憐れみから哀れみへ。
それでも私は笑い続けた。
転機は、些細なことだった。ある日、リゼット嬢がお庭で散歩をしているという話を耳にした。体調が良い日が続いていると。
その週の観劇の誘いも、彼は手紙で断った。理由は、いつもと同じだった。
『妹の体調が——』
あの瞬間、私はようやく理解した。妹は理由ではなく、口実だったのだ。
彼は、私に会いたくないのだ。お茶会にも、夜会にも、舞踏会にも、私が待つ場所には来たくないのだ。
不思議と、怒りは湧かなかった。ただ、胸の中でずっと灯り続けていた小さな火が、音もなく消えたような感覚があった。
◇
翌朝、私は支度を整えた。
華美ではないドレスを選んだ。髪は丁寧にまとめ、アクセサリーは控えめにした。
あの人を責めに行くのではない。ただ、終わらせに行くのだ。最後くらいは、きちんとした姿でありたかった。
「お嬢様、馬車の用意ができました」
マリーがドアの前に立っていた。いつもより少しだけ背筋が伸びているように見えた。
「ついてきてくれる?」
「お供いたします」
マリーは、私が何をしに行くのか聞かなかった。
昨夜の招待状の回収から、すべてを悟っているのだろう。
馬車の中、私たちは一言も話さなかった。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、私はこの道を何度通ったか数えようとしたが、やめた。数えたところで、何も変わらない。
◇
彼の屋敷に着くと、使用人が丁寧に出迎えてくれた。
奥の応接室に通され、しばらく待った。壁には美しい風景画が飾られ、窓からは手入れの行き届いた庭が見えた。
穏やかな場所だった。この屋敷の空気はいつも穏やかだ。争いもなく、波風もなく、何も起こらない場所。
彼にとって、私はこの穏やかさを乱す存在だったのかもしれない。
「待たせてすまない」
扉が開いて、婚約者のクラウスが現れた。端正な顔立ち、きちんと整えられた服装。見た目だけなら、非の打ち所がない人だった。
「突然の訪問をお許しください」
「いや、構わない。それで、今日は何の用だろうか」
用がなければ来ないと思われている。その事実が、むしろ私を楽にした。
「婚約を、解消していただきたいのです」
クラウスの動きが止まった。ティーカップに伸ばしかけた手が、中途半端な位置で静止している。数秒の沈黙があった。
「……急な話だな」
「急ではないと思います」
私は、できるだけ穏やかに言った。声が震えないように、朝から何度も練習した言葉だった。
「お茶会も、夜会も、舞踏会も、ずっと一人でお待ちしていました。周囲には笑顔でご説明しておりました。リゼット嬢のご体調のことだと」
クラウスは、何も言わなかった。
「リゼット嬢が病弱であることは存じております。大切にされるお気持ちもわかります。でも——」
ここで一度、息を吸った。
「リゼット嬢のご体調が良い時も、あなたはいらっしゃらなかった」
クラウスの目がわずかに揺れた。気づいていたのだ。私がそれに気づいていることに、彼は気づいていた。
それでも言い訳を続けていた。その事実が、何よりも答えだった。
「あなたは私のことが好きではないのでしょう」
責めているのではなかった。確認しているだけだった。そして、彼の沈黙が答えだった。
「……君を、傷つけるつもりはなかった」
「ええ、わかっています。あなたは優しい方ですから。傷つけるつもりもなければ、向き合うつもりもなかった」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「お互いのために、穏便に終わりにしませんか。どちらが悪いということでもなく、ただ合わなかったということにすれば、どちらの家の名誉も傷つきません」
クラウスは長い沈黙の後、小さく頷いた。引き止める言葉はなかった。動揺はしていた。
けれど、それは「失いたくない」という動揺ではなく、「こんなに早く見抜かれていたのか」という動揺に見えた。
「……婚約パーティーの件は、すまなかった」
「招待状は全て回収しました。どなたにも届いておりません。ご心配なく」
その言葉を聞いたクラウスの表情を、私は一生忘れないだろう。驚きとほんの少しの恥のような色が、その目に浮かんでいた。
自分が休むと告げた婚約パーティーの後始末を、婚約者である私がすでに済ませていたという事実。
それがどういう意味を持つか、彼はようやくわかったのだ。
「それでは、失礼いたします」
立ち上がり、一礼した。足取りは軽かった。不思議なほどに。
◇
馬車に乗り込むと、マリーが黙って温かい布を差し出してきた。
「……手が、冷たくなっていますよ」
言われて初めて気づいた。指先が氷のように冷えていた。
緊張していたのだ。あれだけ穏やかに振る舞っておきながら、体は正直だった。
布で手を包みながら、窓の外を見た。クラウスの屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
あの庭も、あの風景画も、あの穏やかな空気も、もう二度と訪れることはない。
「お嬢様」
「何?」
「ご立派でございました」
マリーの声がかすかに震えていた。この子は、いつも私の代わりに泣いてくれる。
「……ありがとう、マリー。でもね」
手の中の布をぎゅっと握った。
「立派になんて、なりたくなかったわ」
その一言だけ、声が揺れた。
◇
婚約解消の手続きは粛々と進んだ。
表向きは「双方の合意により」という体裁が整えられ、どちらの家にも傷がつかない形で決着した。私が望んだ通りの穏便な結末だった。
しかし、「壁に耳あり障子に目あり」という言葉がある。
主人たちがどれほど完璧に取り繕っても、使用人の目は誤魔化せない。
私の屋敷の使用人たちは、知っていた。
お嬢様が何度も何度もお茶会や夜会に一人で出席していたことを。笑顔の裏で唇を噛んでいたことを。そして婚約パーティーの招待状を、慌てて回収していたことを。
クラウスの屋敷の使用人たちも知っていた。
旦那様が妹様のご体調を理由に、婚約者との約束を何度も反故にしていたことを。妹様が元気な日にも、出かけようとしなかったことを。そして婚約パーティーの一ヶ月以上前に手紙一通で欠席を告げたことを。
使用人同士の繋がりというのは、貴族が思う以上に広い。あちこちで「あの家のこと聞きました?」という囁きが交わされる。
「侯爵令嬢様はいつも一人でいらしていたそうよ」
「婚約パーティーまで休むなんて、あんまりじゃない」
「招待状を回収したのはお嬢様の方だって。最後まで相手の体面を守って」
「あちらの旦那様は妹様が元気な日も会いに行かなかったらしいわよ」
噂は静かに、しかし確実に広がっていった。
社交界の目は厳しい。婚約を解消された側に非がなければ同情が集まるが、蔑ろにしていた側には冷たい風が吹く。
クラウスの名前が社交の場で囁かれる時、そこには以前とは違う色がついていた。
哀れな侯爵令嬢を蔑ろにした人。妹を言い訳にして、婚約者を一人にし続けた人。
誰かが悪意を持って広めたわけではない。ただ事実が、静かに人から人へ伝わっただけだった。
◇
婚約解消から数週間が経った頃、マリーが朝の支度をしながら、さりげなく言った。
「お嬢様、最近お茶会のお誘いが随分と増えておりますね」
「そうね」
「皆様、お嬢様とお話ししたいのだと思います。……お嬢様のことを、ちゃんと見ていた方々が」
マリーの言葉に、小さく微笑んだ。
社交界は残酷な場所だけれど、見ている人はちゃんと見ている。一人で夜会に出て、一人で笑って、一人で帰っていった私の姿を、覚えていてくれた人たちがいた。
「マリー、今日の髪はどうしようかしら」
「いつもより少し華やかにいたしましょう。お嬢様には、もうお似合いですから」
「もう?」
「遠慮なさらなくていい、という意味でございます」
マリーがかすかに笑った。この子にしては珍しい少しだけ意地悪な笑顔だった。
あの人のために控えめにしていた分、もう自由にしていいのだと。そう言ってくれている。
鏡の中の私と目が合った。疲れた顔をしていると思ったが、目の奥にはまだ光があった。
消えたと思っていた火は、消えていなかった。ただ、別の場所で、別の形で、静かに灯り続けていたのだ。
「そうね——」
窓の外には春の気配があった。庭の花が咲き始めている。長い冬だった。
「少し、外に出ましょうか。今日は天気がいいもの」
マリーが嬉しそうに頷いた。
玄関を出ると、朝の光が眩しかった。新しい季節の匂いがした。どこかに、まだ知らない出会いがあるかもしれない。私の痛みを少しだけではなく、ちゃんとわかってくれる人が。
その人を、今度は私から探しに行こう。待ってばかりの日々は、もう終わりにするのだ。
◇
後日、風の便りで聞いた話がある。
クラウスのもとには、なかなか新しい縁談が持ち込まれないのだという。
理由は、もう誰もが知っていた。
お読みいただきありがとうございました。
リゼット視点の短編『お兄様は病弱な妹の看病を言い訳にして婚約者を蔑ろにしているのに、私のそばにすら来てくれなかった』とクラウス視点の短編『病弱な妹を言い訳にし、婚約者を蔑ろにした侯爵は、社交界に背を向けられる』も投稿しています。お読みいただけましたら幸いです。
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