8話 夜明けのプリン
数時間後。
試作に試作を重ねて気づけば、時刻はとうに零時を回っていた。
一品の量こそ少ないが、何しろ数が多い。
俺たちは膨満感に包まれ、徐々に口数も少なくなっていた。
あれから、分量を細かく調整したり、調味料を数パターン試したり、果ては卵焼きにまで手を出してみた。
けれど、マリネさんの言う「プリン」にはどうしても届かない。
それに、卵の数も残りわずか。
まさに、正念場だ。
俺は疲労に足を取られながらも、次の一手を必死に考える。
うーん……と頭をひねっていると、隣でマリネさんが声を上げた。
「あっ、マーシュさん……なんだか、新しいイメージが浮かびました!」
「本当か!?」
ここにきてそれはありがたい……!
俺は思わず彼女のほうへ身を乗り出した。
「新しいイメージ、それは……“なめらかさ”と“煙”……です……」
「なめらかさと、煙……?」
俺は反射的に頭を抱えた。
なめらかさはわかる。けど、煙……?
だめだ、眠気で頭が回らない。
「煙といえば……」
今まで沈黙していたグルメマンが、おもむろに口を開いた。
……顔が見えなかったから、てっきり寝てるのかと。
「昔、熱い煙で作られた料理を食べたことがある。その時はスイーツではなく、しっとりしたパンのようなものだったがな」
「えっ、それってどういう料理なんですか?」
「うむ、木で編んだ箱のようなものに材料を入れて、何かの機械で煙を当てていた。ワタシも触ってみたが……火傷したことをよく覚えておる」
……なんで触るかな。
心の中でツッコミながらも、俺はその“煙料理”に思いを巡らせる。
「高温の煙で、間接的に加熱……?なるほど。それなら、ゆっくり、均等に火を通すことができて、食感を活かせるかもしれない!」
「む、それだ!確かその調理法、”蒸す”とか言っていた気がするぞ!」
蒸し料理、か。
初めて耳にする技法だけど、これまでの中では一番理にかなってる……!
腕が鳴るぜ。
「高温の煙ってのは、鍋から出る蒸気……それを使えばいい。問題は、それでどうやってプリンを作るかだけど……」
少しの沈黙のあと、マリネさんがぽつりと言った。
「うーん……入れ物ごと、お鍋に入れちゃうっていうのは、どう……でしょうか?」
「入れ物ごと……?……その手があったか!!すごいよ、マリネさん!」
俺は思わず、マリネさんの手をがっしりと握りしめた。
「い、いや、そんな……私は別に……」
彼女は頬を赤らめ、視線を逸らす。
でも、こっちはそれどころじゃない。すぐに頭は調理に向かっていた。
これまでの試作で、なめらかに仕上がる分量の目安はつかめている。
卵に、ミルク。それから塩を二つまみ。
おそらくこのバランスが、卵の風味と甘さを引き出す鍵になる。
俺は、それらをよく混ぜたものを器に流し込み、鍋の半分程まで水を張った中にそっと置いた。
蒸気が、料理に魔法をかけるように――
今度こそ、プリンの完成に近づけるはずだ。
なによりも、火加減は慎重に。
強すぎれば表面が泡立ち、風味が飛ぶ。弱すぎればいつまでも固まらず、卵の味もぼやけてしまう。
俺は鍋の様子を見ながら、時折鍋に水を差して、蒸気の勢いを調整した。
グルメマンとマリネさんも、緊張した面持ちで鍋を囲んでいる。
ぷるん、という未知の触感を目指して、三人が一つの鍋に思いを寄せている光景は、どこか可笑しくも、心に火が灯るようだった。
プリンを蒸し始めてから三十分――
蓋の隙間からこれまでにない程濃厚な甘い香りが立ち上った。
――そろそろだ。
俺は鍋の取っ手に手を添え、その時を待つ。
湯気がふわりと立ち上る中、グルメマンとマリネさんは、固唾を呑んで見つめていた。
――いまだ!
急いで鍋を火から離し、素早く蓋を開ける。
漂う香りが、確かに違う。今までの試作とは、明らかに。
布を手に、容器をそっと鍋の中から取り出す。
その中にあったのは、小金色に輝き、ぷるぷると震える――見たこともない、美しい食べものだった。
「……完成だ……!」
誰からともなく、小さな息が漏れた。
それはこの料理が完璧に仕上がった証だった。
俺は取り分けようとスプーンを手に取り、"それ"にそっと差し込む。
ほんのわずかな抵抗のあと、すっと沈むスプーン。
すくい上げると、黄金色の塊はなめらかに揺れ、断面は絹のようにきめ細やかだった。
「……さあ、マリネさん。どうぞ……」
俺は興奮と疲労で手を震わせながら、皿をマリネさんに差し出す。
彼女はうっとりと"それ"を見つめ、静かに口に運んだ。
「…………!!!」
その瞬間、彼女は口元を抑え、小さく震える。
そして――ぼろぼろと涙をこぼしながら、嗚咽交じりに言った。
「おいしい……!おいしいです、この"プリン"……!」
「っっっしゃあああああ!!!!!」
俺とグルメマンの咆哮が静かな夜に響く。俺たちはたまらず立ち上がり、大きくハイタッチを交わした。
プリン、誕生の瞬間だ。
その瞬間、彼女の体がフッと光る。
「……?なに、これ。なんだか……満たされた気持ちでいっぱい」
「……恐らく、マリネさんが望むものだったってことじゃないかな?」
「……ふふっ、そうかもね!だってこんなに美味しいんだもん!」
そう言って、彼女は涙ながらに満面の笑みを浮かべる。
俺とグルメマンも待ちきれずに皿によそい、すぐに口へと運ぶ。
とろけるような舌ざわり。優しい甘さが広がり、濃厚な卵の香りが鼻を抜ける。
残るのは、静かな幸福感だけ。
「これ……やばい……」
「ウ……ウマイッ!!!ウマイぞッッ!!」
続くグルメマンの叫び。
俺は心の中で、何度も、何度もガッツポーズを取った。
「これ、もっといろんな人に食べてもらいたいな」
俺がぽつりと呟くと、マリネさんが微笑み、グルメマンが深くうなずいた。
こんなに満たされた気分はいつ以来だろうか――
俺は空を仰ぎ、小さくため息をついた。
……あー、やばい、眠い。
プリンが完成した安堵感からか、気にしないようにしていた眠気と疲労感が一気に押し寄せてくる。
こんな地べたで寝落ちなんてできるか。片付けてから休もう。
そう思って動き出そうとした、その時だった。
――違和感。
ふとマリネさんに目を向けると、明らかに様子がおかしい。
眠そうとか、疲れてるとか、そういうレベルじゃない。
ひどく、苦しそうな……まるで何かに押し潰されそうな顔をしていた。
「……うぐぅっ……」
彼女の表情がみるみる歪んでいく。
頭を抱え、声にならない悲鳴をあげてうずくまった。
「マリネさん!」
俺とグルメマンは慌ててかけより、背中をさする。
その体は小刻みに震え、淡く光を帯び始めていた。
まるで――魔力暴走魔力暴走の前兆のように。
「なに……これ……っ!頭が……頭の中に……何か……!!」
その時だった。
サーチスキルには何の反応もないのに、周囲の空気が凍る。
何かが、いる――そう確信できるほどの“気配”が、俺たちを包んだ。
俺は反射的に頭上を仰ぐ。
月明かりの下、灰色の雲が集まり、稲妻をまとって渦を巻いていた。
「なん……だ……これ」
まるで魔界の入口が開くかのような、ただならぬ気配。
「ま、マーシュ殿……!」
グルメマンが、聞いたことのない低くかすれた声が響く。
振り返ると、空気が揺れた。
マリネさんの背後――
そこにいや"何か"がいた。
視線を感じる。
その存在は輪郭の曖昧な、煙のような影。
だが確かに、俺たちを“視て”いた。
"マリネに関わるな"
そんな無言の圧力が皮膚を焼くように伝わってくる。
背筋を冷たいものが走り、額からは嫌な汗が滲み出る。
だが、目を凝らした次の瞬間、それはふっと掻き消えた。
同時に、マリネさんの発光も止む。
「あれは……いったい……」
俺が呟くと、グルメマンはかすかに首を横に振る。
「分からぬ……分からぬが、今まで対峙したどのモンスターよりも凄まじい威圧だった」
マリネさんは膝を抱えてうずくまり、伏せた顔からは、涙と汗が混ざった雫がぽたぽたと落ちていく。
俺はそっとその隣に座り、肩を支えた。
「マリネさん、大丈夫、大丈夫だから……」
「わ、私……私また……」
「大丈夫、君が悪いんじゃない。ずっと……きっと、誰かが、何かが……君を苦しめてるんだ」
その言葉に、マリネさんはぽつりと呟いた。
「……私、もう、誰にも迷惑……かけたくない……」
そしてそのまま静かに意識を失った。
頬にはいくつもの涙の筋が残されていた。
こうして――
俺たちの夜が終わった。
甘く、温かく、それでいて、不穏に揺れた激動の夜が。
未来に続く小さな希望と、見えない不安を抱えて――