17話 叡智の神
目の前に浮かぶ謎のフクロウ、オルフは、どこかひょうひょうとしていて、掴みどころがなかった。
ずんぐりと丸まった身体に、インテリ眼鏡に大きな金色の目。それでいて、ただのフクロウには到底見えない。
空を滑るように漂いながらも、空間を支配するような、妙な重たさを持っていた。
その沈黙を破ったのは、小さな、震えるような声だった。
「……お、オルフさん」
マリネさんだった。
ほんのわずかに息を呑んだような声音。
気丈な彼女にしては珍しく、心の揺らぎが声ににじみ出ていた。
「さっき……“私の子ども”って言ってたよね。それ……どういう意味?」
ほんの少しの間、時間が止まったように思えた。
オルフの口元に浮かんでいた微笑が、ふっと消える。
それだけで、空気が張り詰めるようだった。
「それはのう……」
ぽつりと漏れた声に、思わず全員が息を呑む。
視線が集中する。
何かが――何か大きなことが語られる予感が、喉元を締めつける。
「……分からん」
「はぁっ!?」
一拍ののち、静寂を裂くように、全員の声が弾け飛ぶ。
唖然とした顔。開きかけた口。どこか笑ってしまいそうな、混乱。
「いやいや、分からんってなんだよ……。いきなり現れて、マリネさんの子どもだとか言い出して」
俺は困惑と警戒を押し殺しながら、できるだけ冷静に問いかけた。
オルフは、ふよふよと空中を漂いながら、まるで子どもをあやすように言った。
「……仕方あるまい。なぜか記憶がないのじゃ。でものう、マリネが母であるという認識だけは、なぜかしっかりとあるのじゃよ。のう、ママ?」
マリネさんが思わず目を伏せる。
困ったような笑みを浮かべながら、だけど、それ以上何も言えずに。
「……記憶をなくした知識の神とは、皮肉なもんだな」
グルメマンが片眉を上げて、皮肉まじりに笑った。
その声音の奥に、冷静な分析の色が滲む。
ただふざけているだけの存在ではないことを、彼も感じ取っているのだろう。
「……じゃあ、なんでここに現れた? 目的は?」
俺は一歩、踏み出して問う。
冗談めかしているふりをして、何かを誤魔化しているようにも見える。
その裏に、マリネさんを巻き込んだ理由があるのでは――そんな予感が、心の奥で疼いた。
オルフは退屈そうに首を傾げる。
「……記憶がないと言っておるじゃろう。そもそもお主、記憶喪失というやつの概念を知らんのか? さては、お主も記憶をなくしておるのでは?」
にやにやとした口元。
だがその目は、どこか底知れない深さを持っていて――冗談と切り捨てるには、何かが引っかかる。
「……」
俺が言葉を詰まらせると、オルフはぴたりと動きを止め、こちらを凝視した。
獣じみた、鋭いまなざし。
フクロウの目が、俺の奥の奥を覗き込もうとするかのように。
「……ふむ。だが……お主、どこかで見たことがあるような気がするのう……」
――ドクン。
心臓が、強く脈を打った。
なぜかは分からない。けれど、その言葉には、何かぞっとするものがあった。
だがオルフは、鼻を鳴らして笑う。
「……まあ、じゃがいも顔はこの世に五万とおるからのう。気のせいじゃな」
緊張を断ち切るような軽口。
だけど、俺の胸の奥には、その言葉の棘が、いまだ抜けきらずに刺さっていた。
――なんなんだ、こいつ。
俺、こいつとは……やっぱり、仲良くなれないかもしれない。
オルフはふと、宙を見上げるようにして言った。
「マリネ。……お主は、急に何かを食べたくて仕方がなくなる、ということはなかったか?」
何気ない問いかけのように聞こえた。でもその瞬間、マリネさんの肩がびくりと震え、場の空気がきしむように凍った。
「えっ……」
マリネさんは目を見開いたまま動けなくなっていた。唇が震え、言葉にならない音が漏れる。
「……あるんだな?」
オルフは小さく目を細めた。その表情は、いつもの飄々としたものではなかった。奥底に、どこか暗く熱を帯びたものを感じさせる。
「なぜじゃか分からんが、わしも同じような感覚を持っておった。――狂おしいほど、何かに焦がれるような……そんな、渇きのような……」
静寂が落ちる。森のざわめきさえ、遠く感じた。
「……おい」
俺は一歩、オルフににじり寄る。
「お前のせいで……マリネさんが苦しんでるんじゃないのか!?」
胸の奥がざわつく。言いようのない怒りが込み上げて、声が強くなる。マリネさんの、あの苦しそうな顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。
だが、オルフはまるで意に介さないようににやりと笑う。
「ほほう? そういうお主は、マリネの何なのじゃ? ん?」
その目は試すようで、からかうようで、けれどどこか――寂しげだった。
「このやろう……!」
俺は思わず拳を握りしめ、オルフの胸ぐらを掴もうと身を乗り出す。
そのとき――
「二人とも、やめて!」
マリネさんの声が、森に響いた。いつになく強く、まっすぐな声だった。
「マーシュさん」
マリネさんは、俺の腕をそっと取る。その瞳には揺らぎも怒りもなかった。ただ、まっすぐに想いが宿っていた。
「この子……オルフさんは、戸惑っているだけなんです。記憶もない中で、どうしたらいいか分からなくて。でも、強い感情だけが残っていて、苦しんでる。……昔の、私みたいに」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
マリネさんは続ける。
「私だってそうでした。何も分からなくて、どうしようもなくて……でも、マーシュさんがそばにいてくれた。助けてくれた。支えてくれたんです」
オルフが口を開きかける。
「そうじゃそうじゃ! この――」
「オルフさん!」
マリネさんの声が、今度は鋭く彼を制した。
「マーシュさんは、私を絶望から救い出してくれた、大事で、素敵な人です。……今だって、私のために、動いてくれてるんです」
言葉が静かに、でも力強く、空気を揺らした。誰も何も言えなかった。鳥のさえずりさえ、止まっていた。
やがて、マリネさんはオルフに向き直った。
「……もし、あなたが本当に辛くて、どうにかしたいと思っているなら。私たちがなんとかします。だから……一人で抱え込まないでください」
オルフは、ぽつりと呟くように言った。
「でも、わしは……わしは、いったい……」
その声はか細く、自分自身にも届いていないようだった。
マリネさんは、静かにうなずく。
「あなたが私の子どもって言ったとき、最初は戸惑った。でも……妙に納得するような、不思議な気持ちがあったんです」
風がそっとマリネさんの髪を揺らす。
「きっと、それは……私と近い何かを感じているからだと思います。だから……喧嘩なんてしないで。頼ってくださいね?」
オルフはしばらく沈黙し――やがて、しおらしくうなずいた。
「……はい」
その瞬間、オルフの体が淡い光の粒へとほどけていった。それはやさしく宙に舞い、きらめきながらマリネさんの胸元へと吸い込まれていく。
森が、静かに、再び息をした。
「……消えた、だと?」
光の粒が、霧が晴れるようにマリネの体へ吸い込まれていった。あまりに静かで、幻想的で、なのにあっけない幕引きだった。俺とグルメマンは、その場に棒立ちになったまま、ただその光景を見つめていた。
「え、え? 今の……どういう……」 「おい、見たか? あのちび……いや、あの“神”が……」
グルメマンは珍しく言葉に詰まっていた。普段なら何かしら茶化すようなことを言いそうなもんだけど、今回はそうはいかないらしい。
そんな中――
マリネだけが、どこか達観したような表情を浮かべていた。 胸元にそっと手を当てて、目を伏せてから、静かに微笑む。
「……多分、寝てるんだと思います。しばらく、私の中で」
「寝てるって、おい……」
俺はそう口に出しかけたが、それ以上は言葉にできなかった。
(“近いなにかを感じる”……)
さっきマリネがそう言っていたのを思い出す。あれは、ただの感覚じゃなかったのかもしれない。だけど、俺にはもう、それを聞き返す言葉もなかった。
「まぁ、考えても仕方ないだろう」
先に沈黙を破ったのはグルメマンだった。もういつもの調子に戻ったようで、肩をすくめながら荷物を片づけはじめている。
「ペロゴン、いや――ラージペロゴンも倒した。ペペロンチーノも完成したしな。あとは、街に戻って報告するだけだ」
俺とマリネさんも頷き、それぞれ手早く荷物をまとめた。あの奇妙なできごとについて話すことは、それ以上なかった。
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