1話 カルトフ・マーシュと冒険の始まり
あの日の出会いは、今思い返しても――まるで夢のようだった。
〔ヴィクタイル地方〕の東の端にある、小さくも活気に満ちた街、〔グランオリジア〕。
そこで、最底辺のFランク冒険者として細々と暮らしている俺は、その日もまた最低ランクのF級クエストを、なんとかこなしてギルドに報告を済ませた帰り道だった。
二日間におよぶスライム三体との壮絶(?)な戦いを終え、春風そよぐ夕暮れの街を歩きながら「今日の晩メシは何にしようか」なんてことを考えていた――その時だった。
彼女に、出会ったのは。
この辺りではまず見かけない、真夏の青空のように澄み切った、濃く鮮やかな蒼い髪。
腰まで届くその髪は、夕日を浴びて、まるで宝石のような美しいグラデーションを描き出していた。
彼女はふらふらと頼りない足取りで俺に近づくと、俺のお気に入りの皮シャツの胸元をきゅっと握りしめ、ほんのり紅潮した頬をすり寄せるようにして――
まるで、年老いたブルドッグのように眉間に深いシワを寄せながら、こう言った。
「……あのぅ、プリンが……食べたいです……」
* * *
俺の名前は、〔カルトフ・マーシュ〕。
数年間働いていた食堂〔メッチャ・ブラック〕を、ある日突然クビになった。しかも、その月の給料も出ないまま。
路頭に迷った俺は、仕方なく冒険者として日銭を稼ぐ日々を送っている。
料理だけが取り柄で、いつか自分の店を持つことを夢見ていたけど――この世界は、どうやら甘くなかったようだ。
かつて、あの食堂に来ていた冒険者たちは皆、羽振りがよく豪快に飲み食いしていた。
「冒険者ってのは夢のある職業なんだな」と、あの頃は思っていた。
だが、現実はその真逆。
モンスター退治が主な仕事ということは、常に命の危険がつきまとう。
どれだけ頑張って、頑張って頑張って、必死になって倒したとしても――それが、最弱モンスターのスライムだった時の絶望感といったらない。
あの時、クエスト達成報告に行った受付嬢さんの、引きつった笑顔。
思い出すたび、胸が苦しくなる。
……つまり、俺には何の才能もなかったってわけだ。
* * *
数ヶ月前。俺は期待に胸を膨らませながら、ギルドの扉を開いた。
あの頃は、冒険者として成功していく未来を信じて疑わなかった。
英雄と称えられ、金も名声も使い切れないほど手にする――そんな人生が待っていると。
実際に入ってみると、そこは想像以上に活気にあふれていた。
ギルド内に併設された酒場では、冒険者たちが馬鹿騒ぎしていたし、人を寄せつけないオーラを放つ黒フードの男や、コック帽を目深に被ったムキムキの大男までいる。
いやぁ……ほんと、いろんな奴がいるんだな……
そんな彼らを横目に、俺は足早に冒険者登録カウンターへと向かった。
カウンターの奥には、受付嬢と呼ばれる美人なお姉さんたちが数人いて、それぞれ忙しそうに仕事をしていた。
「すいませーん、冒険者登録したいんですけど」
「はい、こちらの用紙にご記入ください」
俺が言い終わる前に、受付のお姉さんは既に書類を取り出し、スッと目の前に差し出してきた。
……これが、プロってやつか。
俺は渡された申請用紙に記入し、最後に自分の血を使って登録を完了させた。
その時、注意事項欄にやたら小さい字でこう書かれているのを見つけた。
「※冒険者登録後の命の保証はなく、ギルドは一切の責任を負いません」
……その文言を見て、俺はほんの少しだけ身震いした。
また、冒険者登録と同時に“ジョブ”に就く必要がある。
どういったジョブに就けるかは、その人の持つ素質や才能によって大きく左右される。
ジョブに就くことで専用のスキルが使えたり、能力値に何かしらの補正がかかったりするのも大きいが、それ以上に、冒険者としての指針が定まるという意味で重要だ。
たとえば、基礎筋力が高ければ戦士系のジョブを選んで、その道を極めよう、とか。
そういった方向性を見つけるための、最初の目安となるのが《ステータス評価値》と呼ばれるものだ。
言ってしまえば、これは冒険者としての“格”を数値化したもの。
人によっては、その数値一つで人生が決まると言っても過言ではない。
ステータス評価値とは、それぞれの能力が今後どのように成長していくか、どれだけ高みに達する見込みがあるかを示す予測値のようなものだ。
その手続きを進めていた時だった。
カウンターの奥で、受付嬢たちの間に小さなどよめきが走った。
(……何か特別な素質でも見つかったのか?)
自然と口元がゆるみそうになるのを、俺は必死に押しとどめた。
だが、目の前に差し出された冒険者カードを見た瞬間、その期待は粉々に砕け散った。
表示されたステータスは、目を疑うような内容だった。
いや、もちろん“悪い意味で”だ。
HP:E
MP:F
STR:F
VIT:G
ATK:G
MAT:---
DEF:G
MDF:---
INT:E
RST:G
DEX:C
AGI:G
LUK:G
ステータス評価値というのは、本来AからFまでの六段階で評価されるものだ。
それなのに、いくつかの項目には、見たことのない“G”というランクが付いていた。
しかも、魔法に関する項目に至っては、評価すらされていない。
「……あのぅ、この評価値って……」
俺は受付のお姉さんの顔色をうかがいながら、恐る恐る口を開いた。
「あ、ああ……マーシュさん……。ええと、こちらの評価は、私も初めて見たのですが、規定によりますと……」
お姉さんは、あの、えっと……などと口ごもっている。
どうにか俺を傷つけまいと、言葉を選んでくれているのだろう。
「大丈夫です。聞かせてください」
張り裂けそうな心を隠すように、俺は努めて平静を装った。
少しだけ笑ってみせたつもりだったが、うまくできていたかは分からない。
「……はい。G評価は、ほぼ成長の見込みが無いということで。また、評価の無い項目につきましては……その、素質そのものが存在しない、ということになります」
「……そう、ですか」
気がつけば俺は、唇から血が滲むほど強く噛みしめていた。
――というわけで、手先の器用さだけがほんの取り柄の冒険者が、この世に一人誕生したのが、つい数か月前のことだった。
それからというもの、俺はクエストに挑みながら、能力に違わない成績を着実に収めていった。
それはもちろん、悪い意味で。
無一文から始まった冒険者生活。
宿もなければ、当てもない。
俺は街で一番安い宿、「ボロンボ」の敷地内の庭先で野宿をしながら、泣きたくなるようなアウトドアライフを送っていた。
当然、食事も満足にとれない。
一週間のうち半分くらいは、飲み水で空腹を紛らわせるか、草や虫など、食べられそうなものを口に入れて飢えをしのいだ。
その合間にも、薬草採取、スライム退治、牧場の糞掃除、迷子のネコの捜索……
雑務と呼ぶにもはばかられるようなクエストをこなしながら、当初思い描いていた“冒険者”とは真逆の生活を続けていた。
そしてついには、俺のクエスト達成率は二十パーセントを下回り、報酬どころか手数料を払ってクエストを受けるという最低の悪循環に突入していた。
――そんな日々の中の一日。
その日もまた、何事もなく、冴えない一日が終わるはずだったのだ。
「はよざいまーす、はよざいまーす」
冒険者ギルドの扉を開けながら、誰に向けるでもなく覇気のない挨拶を投げる。
無視されるのは分かっているけど、自発的に愛想を尽かされるよりはマシだと思っての苦肉の策だ。
まあ、実際に返事が返ってくることはほとんどないけど。
「さて、Fランク、Fランクっと」
今日も底辺な一日が始まる。