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果てに因む  作者: 刀子一
二章 占星族と兆しの星
18/18

18

 


 その瞬間、部屋の明かりがフッと暗くなった。完全に明かりが消え失せたわけではない。ほのかに残る光から綿毛のような小さな輝きが無数に生まれ、光り輝く小川のような、幻想的な景色を作り始める。

部屋の中を光の筋が流れる。人の魔力の輝きとは異なる種類のそれは、月光を束ねたかのようだった。



 ほう、と男が息を吐く。美しい。ハジムは素直に感嘆した。

光の欠片が体に触れるとふわっと弾け、ダイヤモンドダストのような光の反射を残し宙に溶けていく。不思議とひんやりしているように感じられるが肌寒さはない。そして、心地好い静謐な夜の匂いが微かに香る。幼い子供にとっての夜を思い出すような、懐かしい匂いがする。

 窓の外は日が沈みかけ、鮮やかな色が沈んでいき、夜闇が昇り始めていた。


 そしてハジムは同時に、自身の感情とは異なる何者かの祈る思いと喜びの気持ちを感じた。普段の人と人との繋がりが随分遠く思えるほど、心というものが今、直に感じ取れるのである。

 自己以外の何者かの息遣いを肌に感じ、馴染みないような違和感が濃く背筋をなぞるが、それにしては不快感や嫌悪感が少ない。人の心の、より深く脆い部分。繊細で、他者が決して知り得ることのない場所に指先がほんの少し掠めるような感じ。どうしたって分かり合えることのない、感情そのものが直接的に結び付く。感じ取れる。理解出来る。


「……なんと仰ったのですか?」

「え? えっと……うーんと……自分なりに、少しは……この世界そのものに、慣れていきたいと言いますか……この世界の良い側面も、知りたい、みたいな?」

「……なるほど」

「『なるほど』……?」


 彼はこの世界が千明の祈りを受け、少なからず喜んでいるという現実を直感的に理解した。世界の定義は曖昧だ。自然そのものかもしれないし、自然の中に含まれる魔力かもしれない。知性を持たないほど下等な些細な微生物の集まりかもしれないし、はたまたどこかの何者かの意思かもしれない。

けれど、そんなことは些細な問題として。それはきっと、とても尊いことのはずだろう。


「……素敵ですね」


 当人しか感じ取ることが出来ないであろう細やかな感情の発露が、こんなにも美しいなんて、きっとこの世界の誰もがまだ知らない。けれど恐らく、本来人の心とはそういうものなのだ。難解で、複雑で、途方もないくらいに儚く尊い。


 普段は内側に秘められる、どんなものより精妙な心の内側の一欠片が捧げる祈りと、それに応えるもの。千明が呼び覚ましたこの景色は、まるである種の奇跡であるかのようだ。

 暫く光の筋は、緩やかながらに中々喜びを忘れきれない様子で煌めき続けていた。


「……こんなものを、知ってしまったら……」


 異世界人には異世界人の性質に合った異能が与えられるのかもしれない。ハジムは、そんなことを考える。きっとこの異能の持ち主が彼女でさえなければ、このような気持ちにはならなかっただろう。


 本当の心の発露。その一端を自ら直接感じてみて、彼は千明がこれまでの天伻と同じ醜悪さを持った人間ではないことを確信してしまった。

 少々不安定だが穏やかな思い。気弱とも言えるが優しい心根。ただ純粋な良心だけが読み取れるわけではなく、それはとても複雑な感情だった。けれど、だからこそ感じ入るものがある。未熟で実に人間らしい一方で、善良且ついじらしい魂の断片。様々な感情が入り交じった上で成る、複雑で美しい意思。



 光が途絶え部屋の明かりが元に戻る頃、ハジムは決定打を受けたことで『彼女はこれまでの天伻とは違う』と思う自分がいることをとうとう認めた。



「それで、いかがでしょうか。もし乱象を解決出来なかったとしても誰もあなたを責めないことをお約束します。今行ったように、試してみる程度という心持ちでも構いません。ですから、どうかお力をお貸ししていただけませんか」


 それはそれで良いのだろうかと心配する千明だが、相手がわざわざそう言ってくれていることに対しただ無意味な遠慮をするというのも生産性がないだろう、と考え言葉を飲み込むことにしたようだ。


「ま、前向きに検討したいと思っておりますが……はい、ううん……。……急を要しています、よね、多分」

「まあ、そうなりますね」


 ハジムは少しの間黙り込むと、まだいまいち煮え切らない様子の彼女を見てもう少し踏み入った話をする。


「……今回の乱象の発生地はこの国内にある比較的小さな町です。そしてそこは、クムルダの故郷になります」

「えっ」


 彼の言葉にクムルダが語った故郷を彼女は回想する。確か、特別な花が咲く、湖の綺麗な田舎町だっただろうか、と。

言い回しや言葉のひとつひとつを正しく覚えているわけではないが、千明は彼の声が帯びるものに郷愁の念を感じたことを思い出した。


「……じゃあ、その、彼も同行する、んでしょうか……?」

「あなたが現地に赴く場合は、あなたとクムルダ。そしてニシュリンとアリーシュを同行させる予定です」


 実に馴染みの顔触れである。千明は秩序の塔の定石を知らないので、特に深い感想は抱くことなく『そうなんだ』と頷く。


「クムルダが少数民族であることはご存知ですか?」

「はい」

「今回彼の一族が我々に乱象の対処を求めた一番の理由は、新たな命の誕生を迎えようとしているからです。彼の種族は今やとても希少な一族。それもあって、子の誕生盛大にをお祝いになられたいのでしょう」

「……なるほど。それは……すごく、おめでたいことですもんね……?」


 意図してハジムは触れないようにしているが、千明はこの世界の人間の生殖事情も思い出して切実さを上手く想像できないなりに納得する。ちなみに少数民族というところに関しては何となく知りはしていてもそこまで深い知識があるわけではないので、『身内に子供が生まれる、みたいな感じかなあ。クムルダさん、めでたいなあ』くらいにしか思っていない。


「あっ。それじゃあ、クムルダさんも顔、出した方が多分ご家族も喜ばれますもんね」

「…………うーん……まあ……そうですね」

「あれっ?」

「いえ。そうだと思います。恐らくは」


 歯切れ悪かったハジムは澄ました顔を取り繕って言いながら、切り替えるよう別の話を持ち出そうとする。


「それにしても、あなた……」

「…………」

「…………」

「…………?」

「……いえ。やっぱりなんでもありません」

「……ええ……?」


 持ち出そうとしてやっぱりやめた。千明の異能により齎されたものを間近で見て、心境の変化を迎え、気が緩んでしまっているのだろう。グダグダである。

彼は『クムルダが同行することに対し思いの外反応が薄いですね』と言いかけたのだった。

それは言わなくていいこと、言うべきでないことだ。


 クムルダが同行すると聞いて襲われかけた当時のことを思い出し、何よりも『許せない』と悲痛な声で告げた彼に対する"天伻"としての罪悪感を抱きながら、責任感に駆られ今にも"お願い"を承諾しそうな千明に対し。ハジムは『いいのですか』『怒ってはいないのですか』などと尋ねるべきではないのである。



「……この件に関して。承諾していただけますか」

「…………はい。ど、どうにか解決出来るよう、尽力するつもりです。……あの、今後この世界で過ごす上で、こういうことを私が頼まれることはある……と、いう認識で、合っていますか……?」

「そうですね。……今のところ、そのような予定はありませんが、もしかすると……そうかもしれません」


 気負った様子の千明と、気が重そうな様子のハジム。何せハジムにそのつもりはないが、彼には他組織からの圧力があるのである。天伻に関しては世界で最も発言権のある組織から、一度こうして命令を下されたのだから二度目がないとは考えにくいだろう。

 幸いなのは、自分が意見を覆したことに対し彼女が特段なんの不満も見せていないことだ。実際にナバルファルマへ向かって苦労を経験した後には恨まれる可能性もあるかもしれないが、そういった先のことは考えても仕方がない。


「ご了承いただけるとのことですので、手配を進めさせていただきます。よろしいですね?」

「は、はい……その、必要なものとか…………アッ、み、皆さんに準備していただくことになりますかね……? すみません、お世話になります。何か、心に留めておいた方がいいこととか、注意事項ってありますか?」


 社会経験に乏しい千明はその辺りの常識に少々自信がないのでハラハラしながら尋ねるが、前の天伻が酷すぎたあまりそのような姿勢を見せられるだけでハジムは胸を打たれるような思いだった。微塵も表には出さないが、近頃忙しくしていた彼は『あの老いぼれにもこのいじらしさを見習ってほしいものだ』と少しだけ思う。千明のこの様子を『いじらしい』と思う彼もまた十二分に年寄りくさい。


 そもそもの天伻に対する期待が地の底なものだから、今更礼儀作法等に欠いていてもあからさまに目くじらを立てる者は少ないのだが。かと言って、非常識は非常識である。天伻の無礼に諦め半分とはいえ、無遠慮に振る舞われて不快に思わないわけでもない。

 いざ礼儀正しく振る舞われたなら振る舞われたで、幻の類でも見ているのではないかと度肝を抜くことになることは間違いなしであるが。ハジムは彼女へいくつかのアドバイスを送り、やり取りが一段落した頃を見計らってひとつ、謝罪した。


「……すみません」


 何に対する謝罪なのか困惑する千明に対し、ハジムは『異世界人が元いた世界へ帰る方法に関する、有益な情報を未だ手に入れることが出来ていない』と頭を下げる。しかし彼の謝罪には、まるでその件以外の罪悪感も含まれているかのような重みがあった。


 彼が明言することはない。己が立場と、責任と、影響力。それらを背負って、彼は彼女に対し自らの選択、判断を謝罪しない。それらは"間違い"ではない、"間違い"であってはならないのだから。


 冷静な頭領としての顔が覗く一方で、幻想的な異能に触発された脳が同情心を訴える。属さぬ世界に放り込まれた異分子。望まぬ環境に一人立ちつくす無力な人間。

世界を違える寂しさを、恐らくは正確に、人並みに抱えているであろう彼女の苦痛をこの世界の人間は皆想像しきれない。故に、彼は彼女を哀れに思う。


「三日後の昼頃にここを発っていただく予定です。その日のうちに現地へ到着するでしょう。案内はクムルダたちが務めますのでご安心を。その日から……一応、二週間程度の滞在ということで良いですか?」

「あ、はい……。大体いつもそのくらいなんですか?」

「場合にもよりますが……今回は国内であり移動に時間がかからないことと、初めて乱象に直面するあなたへの配慮ということで差し引きして少し長めの時間を取っていますね。元より国内の乱象は定期的に確認されていますから事前調査の手間はあまり掛からないので、余裕を持っている方です。影響に対応するより、根本を絶つのであればそれ自体は早く済むことが多いのですよ」


 事後処理や周囲への対処は何かと大変だろう。それに対し異世界人が乱象の根源を治すことそのものは容易であり、比較的短期間で済む傾向にあるらしい。

 実際に乱象を見たことすらない千明は随分緊張した様子だが、ハジムは「気負う必要はありません」と念を押すように言う。


「もしあなたが問題の解決を困難に思っても、それを咎める者はいません。……まあそれに、困った時は官吏たちを頼ってください。特にアリーシュは頭の回る男です。愛想には乏しいですが、いざという時は彼が何とかしてくれますよ」

「…………も、もしかして……アリーシュ、さんってものすごくすごい人ですか」

「そうですね。真面目で勤勉、優秀な人材です。根を詰めすぎることもなく、あれほど真面目な者にしては珍しく息抜きも上手くする。中々甲斐性のある人間と言えるでしょう」


 困ったらとりあえずアリーシュだとハジムは彼を推す。千明としても、第一印象で彼のことが少しばかり苦手な節はあったものの、悪い人ではないとは感じているので一応頷きを返しておいた。アリーシュはハジムにとって素直に優秀な部下なようだ。



 それからいくつかの連絡を済ませたハジムは、言われたことを忘れないよう集中して頭の中で言葉を反復しているらしい千明に手帳のページを破いて渡し、ペンを貸してメモを取らせた。久しぶりの字を書くという感覚に懐かしさを覚えつつ千明が自分の馴染みある文字できちんとメモを取り終えると、返されたペンを受け取ったハジムは立ち上がった。


 衣服を整え、前髪を軽く梳き耳に掛ける。見送るべきかと共に立ち上がった千明に「お気になさらず」と告げつつ、廊下に続く扉の前まで二人で歩いた。

二人分、四つの足音が不規則に響く。軽く間隔の短いものと、重く間隔の空いているもの。ハジムは姿勢よく、少し広めの歩幅でゆったりと歩いていた。


 そうして数歩進み、改まった様子で彼は千明を見つめる。


「再三伝えますが気負う必要はありません。……クムルダから、他の異世界人がどのような存在であるかは多少お聞きになられたのでしょう? あなたであれば個人的な反感を買うことはそうそうありませんよ」


 「ははは」と少しばかりいい加減に笑ったハジムは、千明の印象の中の彼よりも砕けていて気さくそうに見える。しかしやはり、人の上に立つ風格があると言うのか、厳しそうなイメージが抜けきることはない。理性的で慎重、やや硬い雰囲気は当人の気質として生来備わっているものなのだろう。

 そしてそういう側面は、ただ相手にプレッシャーを掛けるだけではない。


「願いを聞いてくださり本当にありがとうございます。問題解決の為の一歩を踏み出してくださったこと、心より感謝申し上げます」


 ハジムは千明の今後の働きに対し僅かな期待を滲ませながらはっきりとそう告げた。その時、千明は不思議と自らが今幾らかの喜びを得たことを感じ取る。

 数拍置き、彼女は自分でも驚いた。千明はハジムの期待を受けたことに喜びを覚えたのだ。それは、彼女にとってあまりに衝撃的なことだった。


「いえ……。精一杯、努めさせていただきます」


 期待されると、その期待を裏切ってしまった時が怖い。失望されることが怖い。身の丈に合わない成果を望まれることが怖い。

 ずっとそんなことを考えて生きてきた。そのはずが、千明は不思議と今この時、生まれて初めて期待される喜びというものを理解する。失うものが殆どないからだろうか。それとも、ハジムの期待が重すぎないからだろうか。

けれど無関心に満たない程度には望まれているものがある。その加減が、ちょうどいい。


 千明の返答にハジムはまた、僅かに微笑んだ。部屋の境を過ぎ、沓摺を挟んで別れの言葉を交わす。


「お気を付けて。それでは、さようなら」

「はっ、はい。さようなら……」


 『なんだか、先生みたいだな』久々にさようならという別れの挨拶をした千明はそんなことを思って、ハジムの背を少しの間眺めていた。


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