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「お久しぶりですね」
「ご……ご無沙汰しております……」
千明は久々に人と向かい合い、言葉を交わすことに緊張感を覚えつつも秩序の塔の院長たるハジムと久闊を叙した。
その日の朝、朝食をとっている際に部屋の扉を叩かれ『少しいいかしら』とニシュリンの声を聞いた時は大層驚いたものだった。千明は数時間前の出来事を回想する。その時は扉越しに会話するだけだったが、彼女はニシュリンとまともに言葉を交わすことさえも数週間ぶりのことだったのだ。
そして、『ハジム院長を覚えているかしら? あの人が今日の午後、あなたにお会いしたいそうなのよ』と要件を告げられた時には更に驚いたものである。
何やら直接話したいことがあるとかで、ひどく緊張しながらも千明は今ハジムと向かい合って座っている。緊張はしている一方で怯えや恐怖心が少ないのは、多少なりとも心に余裕があるからかもしれない。アニマルセラピーは本当に驚くべき効き目を発揮していた。
「当初の我々の要望通りに努めてくださっていたところ、大変申し訳ありません。お時間を取ってくださってありがとうございます」
「ア、いえいえ……?」
『時間を取るも何も、予定を開けて会いに来てくださったのは寧ろそちらなのでは……?』と千明は思いつつもへらりと笑った。実際その通りである。予定の密度は天と地の差だ。
しかしハジムは謙ったよう振る舞い、言葉を選ぶ。
「突然の訪問でご迷惑をおかけしてしまっている中恐縮ですが、早速本題に入らせていただきたい」
「……あっ、はい、大丈夫です」
「ひとつお聞かせください。ミカ、あなたはこの世界の乱象と呼ばれる現象について、ご存知ですか?」
「?」
『「ミカ」……?』千明はそちらにまず気を取られた。誰だそれ、と思って、それから少しして『そういえばそう名乗ったんだった!』と思い出す。名を呼ばれる機会というものが少なすぎるあまり、自分が偽名を名乗ったことを今の今まで忘れていたらしい。
「アッ、えっと、ら、乱象、はい。一応知っては、いると思います。その……この世界で度々見られる異常な現象、みたいな……そういうやつですよね……?」
「その通り。改めて説明しますと、乱象とはこの世界に起こる異常現象のことです。あらゆる場所で発生し、自然の秩序が乱れた状態のことを指します。そして、乱象の特徴のひとつとして進行性であることが挙げられるのですが、乱象が深刻化していくと最終的に自然の調和が失われ大地には混沌が訪れます」
ハジムはそう言うと、千明に一冊の本を手渡した。厚紙の表紙に箔が押された少々高価そうな本だ。
「とある画家の画集です。その人物は数多くの乱象をその目で見て、絵に残しました。色彩の再現には限界がありますがよく出来ているので、どうぞ。文字もありますが絵がメインですから、これを見れば乱象がどのようなものであるのか、より理解が出来ると思います」
どうやら千明の為に用意したようだ。彼女の目にはヴィンテージ本のように見えることだろう。手触りは柔らかく、促されて開くと紙の匂いがする一冊の書籍。相変わらず馴染みある感覚とぴったり重なることはない違和感が付いて回るが、多少ずれていても懐かしさを思い出すことはある。
元の世界の図書館や学校の図書室を思い浮かべながら、千明は適当なページを開きそこに描かれた絵を見た。
そうして、彼女は息を飲む。これが、現実に起こったものをそのまま描いたものとはとても信じられないだろう。
「…………、」
あまりに色が少なく、印刷技術の拙さから色が表現出来なかったのかと一瞬思ってしまうほど彩度のない絵。雪に覆われた先の見えない世界。吹雪が激しいようで、その様子を巧みに表した絵は見る者を不安にさせる雰囲気があった。
開いたページの片方には、恐らく同じ国の絵であろう作者のスケッチのようなものが載せられている。凍った建物、割れた大地。眠りについたまま覚めることのない植物と生き物。
「その国は、ただでさえ寒冷な地域なんですよ。ですが乱象の影響で、今となっては一年を通して吹雪が国を包みます。時々『春の兆し』が訪れるそうですが、今では乱象の影響により皮肉にもそれがまた過酷な状況を呼ぶそうです」
寒さが伝わるページを捲ると、枯れ腐り細かな繊維状になっているように見える大きな木の絵が姿を現す。木を構成する細い糸のようなものが体から飛び出し、ねじ曲がり、遠くまで枝を伸ばしている。
まるでその木が病を振りまくかのように、木が根を張る地面はどうにもぐずぐずとしていて柔らかそうだ。周囲にはいずれ同じような木に成長していくであろうことが窺える生えかけの植物があった。いくつもの短く若い、腐った木の芽が顔を覗かせている。
優れた画家は空気感の表現が誠に上手いもので、先の絵の寒さが伝わったようにこの絵からは空気の悪さが窺えた。
パラパラとページを捲る。どれも空想上の絵画のようでありながら、不思議と現実味を帯びている。到底フィクションでは片付けられないリアリティが付きまとっているのだ。
水に沈む国、霧に包まれた街、大洪水の村、大地が発火する平原、不気味に光る森。不自然に家屋が歪んだり、夜になると花々が猛獣に姿を変えたり。非現実的な現実が、そこには描かれている。
「……改めて、秩序の塔についてご説明します。我々はこの国の安寧を支えながら……世界各地の乱象を調査し、時に対処に当たる組織なのです」
「対処……」
『対症療法くらいなら俺たちでもなんとか対処出来るが……根本を解決出来るのは、天伻の力だけだとされている』
目を瞬かせる千明は以前そう言ったクムルダの声を朧気ながらに思い出した。
「……、……その、あくまで対症療法、とお聞きしたのですが……」
「……そういった説明もされていたのですね。その通り。乱象そのものを正すことは、異世界人にしか為し得ません。故に我々は、我々の力で乱象を調べ、その影響による被害を抑えることに努力してきました」
「ああ……。こんなに大変な現象だと、調査も重要というか、大事ですよね。どんなことが起こっているのかとか、詳しく調べたりするんですか?」
「……はい。秩序の塔の制服にはいくつかの色がありますが、あれは官吏、職員たちの所属を表しています。ニシュリンやアリーシュは白いでしょう。白い制服の者たちはフロントラインと呼ばれ、主に初期調査と戦闘を担う職員になりますね」
「あっ、なるほど」
千明はぼや〜っと黒い制服も思い出した。ハジム、ラディーンとは初日に会ったっきりだったので、正直なところ記憶にあまりないのである。
「我々は自ら乱象を確かめに各地へ足を運ぶことがありますが、時には要請を受け職員を向かわせることもあります。乱象の規模や進行度は様々ですが、どんなものであれ人が滅多に寄り付かない秘境でもなければ人々の生活には必ず支障が出てきますから。乱象による困難を少しでも軽減するために、我々は時間と力を費やします」
ハジムは目を瞑る。髪と同じ、白に見紛うほど儚いホワイトゴールドの睫毛が影を作る。その瞼の下にあるのはとても淡い紅碧の虹彩。夜明けの眼差し。
瞼が持ち上がり、その瞳が千明を捉える。空気が少し、張り詰めた。
「先日、とある町の乱象の対処を求める手紙を秩序の塔は受け取りました」
「はあ」
「私はあなたに『何もしない』ことを求め、あなたは私の要望を叶えてくださっていた。そんな中、自ら求めたことを曲げ、矛盾する頼みをすることを、心より申し訳なく思っています」
「…………えっ?」
どういう話の流れだこれは、と千明の表情が困惑を帯びる。明確に察することはないが、漠然と動揺を覚える彼女にハジムは言葉を続ける。
「ですが……折り入って、お願い申し上げます。あなたに、天伻として、その町の乱象の根源を解決していただきたいのです」
「……え、え、あの……っ、え……?」
「……理解が追い付くまで待っていますから、ひとまず深呼吸してください」
言われるがままに彼女は深呼吸してみる。数回繰り返すと気分がいくらか落ち着いたものだから、彼女は深呼吸の偉大さを初めて実感した。
ハジムが自分に対しモノを頼んでいるという事実に脳が追いつき始め、おどおどしながら口を開く。目を合わせることは出来ないのでちらちらとだけ彼を見つつ、しかしふと『いやこういう態度って失礼だしされている方もイラつくだろうな……』と気が付いて目を合わせることは諦めた。残念ながら、彼女に人としっかり目を合わせて会話をする能力はない。
「え……えっと、その、私……正直、あの……」
「やはり、お嫌ですか」
「アッ、やー……嫌、と言いますか、天伻にしか乱象は解決出来ないと、言いますが……わ、私に、その役目が務まる自信がなく…………」
上手い言葉が見つからずもどかしそうにしながら、彼女は必死に思いの丈を伝えようと声を発する。
「多分、天伻の力? で、乱象は解決出来るみたいですけど……私に力を使いこなせるのかも、よく、わからないですし」
「…………力は発現したと聞いたのですが?」
「そ、そうみたい……? な、ん、ですが……」
「もしかして、一度使ったきりなんですか?」
「アッ、ハイッ」
意外そうに紅碧の目が瞬いた。ハジムの記憶の中では、大抵天伻は自分の得た力に全能感を感じて興奮したり、自覚した力を早々にあれこれ試したがるものだったのである。
「こ、怖いんです。由来のわからない、天伻の力というのも……その、あなたの仰ることに頷きたい気持ちはあるんですけど、……もしそれでいざその町に向かって、何も出来なかったらと思うと……。正直……誰かの期待を裏切ってしまったり、誰かを、失望させてしまったりしたらと思うと……こう、お、重いんです、いろいろ…………」
「…………なるほど」
『何もしなくていい』と言われそれに従いぼうっと生きてきた千明は突然"役目"をちらつかされたことで途端に責任感を感じ、その重さにプレッシャーを覚えているのである。
ハジムは『やや気負い過ぎなくらいだが、珍しく責任感があるのだな』と思いひとつ頷く。それから暫し逡巡し、彼は千明の姿をそれとなく観察した。
運動不足を感じさせるか弱そうな雰囲気はあるし、不安げにどこともない場所を見つめ身を固くする様子には少しの繊細さが感じられる。吃りがちだが、それは人見知りする性格と、言葉をよく選ぶ性格からそうなるのだろう。重圧に弱いようだが、身一つで異世界に放り込まれた立場を考えれば妥当ではある。
「……わかりました。ひとまず、ご自身の力を試しては見ませんか?」
「えっ」
「本来であれば持ち得ない力を手に入れたことに、不気味さを感じられているのでしょう。確かに、自分の内側に知らない何かが知らず知らずのうちに根付いているというのは恐ろしい感覚のはずです。ただでさえ"違う世界"に不安を感じていらっしゃるでしょうに、あなたの心労は私には計り知れません」
ハジムの言葉に千明は目を見開く。思わぬ同調だった。しかし、他者に自己の悩みを言語化されることは、思いの外安心感の得られることだったようだ。
曖昧に心を蝕む不安が少なからずはっきりとして、彼女の瞳が揺れる。少し思考が開け、息がしやすくなる。
更に彼女を肯定するよう、彼は平生と変わらない声色でありながらも丁寧に言葉を掛けた。
「ですが、いつまでも異物感を抱えておくというのもお辛いはずです。あなたはもう少し、その力が自分にとって都合の良いものだと思ってみても良いのでは?」
「都合のいいもの……と、言いますと?」
「あなたは元々、魔法も何もない世界で魔力も何も持たずに育ってきた。それらは嘗て、あなたにとって空想上でしかありえないものだったはずです。それを手に入れたことに、本当に一切の喜びは感じられませんか? 不安や、恐怖だけしか感じ取れませんか? それは今確かに、あなたの、力のはずですよ」
「…………」
「……憧れは、しませんでしたか? 元の世界での感覚を思い出してください。あなたが変わる必要は何もない。元の世界の、ありのままのあなたの感覚で、その力を今一度認識してみて」
そう語り掛けられ、不安がぶれて、千明は沈思黙考した。『ありのままの自分』その言葉が頭の中でこだまする。
本当の自分は、あるべき世界に属し、馴染みある日常の中で、当たり前の常識の下で生きていた。
「思い出して。この世界に当たり前にあるそれらは、あなたにとってはファンタジーやフィクションでしか見られないものだったのでしょう?」
「…………そうですね。小さい頃は特に、空を飛ぶことなんかに、憧れたりもしました」
空飛ぶ箒や、願いを叶えてくれるランプ。テレポートは幼心に何度も求めたことがある。幼い千明は、どこにでも行ける力があれば、ギリギリまで寝ていてもすぐに学校に辿り着けるし、外国にだって行き放題だろうと空想していた。
空を飛ぶ夢だって何度も見た。成長してからもふとした瞬間にそんな夢を見て、憧れた気持ちを思い出したりもしたものだった。童話やアニメに憧れたのだ。
「今あなたの中にある力は、あなたにとって未知のものであると同時に、夢のようなものであるはずです。そうでしょう?」
千明はハジムの方を見て、眉を下げながら困ったように笑った。その表情の本質は、照れ笑いだった。
「……そうかもしれません」
ネガティブな捉え方ばかりしていたが、見ようによってはポジティブに捉えることも可能だったのである。ただ、孤独と不安を抱えた心が悲観的な方に傾いただけで。
この一時の影響だけで能天気に不安要素の全てを忘れられるわけではないものの、可能性は初めから、前向きになれる要素と後ろ向きになり得る要素の両方を抱えていたことに彼女は気が付いた。
「試してみましょう。大丈夫、今ここでなら私がある程度は手を貸して差し上げます。上手くいかなくとも、誤りがあったとしても私がどうにかしてあげますから。もう一度、今ここで少しだけ異能を試してはみませんか?」
「……ありがとうございます。一人で試すより、ずっと心強いです」
力に対し楽観的に構える異世界人ばかり見てきたハジムは、千明の懸念に囚われる様が新鮮だったのと同時に、あまりに狭い視野に一抹のもどかしさ感じていた。視野狭窄に陥る人間と言うのは、往々にして見ている方も中々やきもきするものなのだ。
あれやこれやと様々なリスクを考えながらも利益や損失を頭の中で取捨選択し、ハジムは千明に少しの導きを与え続けることにした。
「あなたの異能は、言語に関するものだと聞きました。言霊といった類の力が近いのでしょうか? 何となく、感覚はわかりますか?」
「いえ……。なんというか、すごく、こう、曖昧というか、漠然としているというか。……あの時は……、……思ったことが、そのまま音になって、言葉が後から付いてくるような……そういう感じが、したような……?」
その時のことを思い出し僅かに顔を曇らせる千明だったが、すぐに感覚を探るべく意識がそちら集中する。
「言葉……あれが、言語に関する異能? なんでしたら、なんか、こう……すごく、根源の言葉って、感じです。す、すみません。すごく感覚的な話なんですけど」
「いえ。的外れでもないと思いますよ。言葉の本質は『繋がる』や『結び付く』といったようなものであると言えるでしょう。人の内外を繋ぎ、個と世界を結び付けるものです。そして言葉を受けたものは、『呼応する』」
言語は文化であり現実そのものだ。知性を持つ生き物の社会にとってなくてはならないものであり、あって当たり前のもの。意思疎通のために必要不可欠で、あらゆるものの形を定めるもの。
千明の世界にもサピア・ウォーフの仮説というものがあるように、言葉は人の思考にさえも影響することが考えられる。
「ですが言葉とは万能ではありません。感じたこと、思ったことを完全に、そのまま人へ伝えることは不可能です。人の感情や思考はこの世に存在する言葉の全てに当てはまらないことがあるし、言葉では足りないことがある」
だが、それが言葉だ。人はこの世に存在する言葉に意味を当て嵌めることで、意識を形成し、感情を一定の型に留めて思いを通わせる。
「……あなたの力は、そういった一定の形の言葉に落とし込まないまま、自分の中にあるものを発露させることが出来るのでは? より具体的に、本当の感情を発することで、あなたはより深く他者と、世界と結び付くのだと考えられませんか」
「…………、……なんとなく……わかる気がします」
少しずつ異能を解釈をしていく千明は、段々考えがまとまってきて顔を上げる。すると、微かに微笑むハジムの表情が視界に映った。その瞬間、己の心を正直に打ち明ける異能に惑い、憂いを訴えかけた心が少し軽くなる。
ほんの僅かに口角が上がって、ほんの僅かに目が細められているだけ。たったそれだけのことだったが、不思議と千明も釣られるように相好を崩した。
今に至るまで、猫もどきにしか見せなかったような隔たりのない無防備な微笑み。それに不意を突かれたハジムは少し目を見開いたが、すぐ何事も無かったかのように平生の面持ちに戻った。
「試せそうですか?」
「そうですね……」
彼女はまた視線を下げ、画集の表紙を指先で撫でる。
素直な気持ちを口にすることに躊躇いは感じていたが、少しだけ、少しだけだと彼女は自分の中の勇気を掻き集めた。
目を伏せて、自分の中にある異物を探っていく。
「…………『ない』ものを、無理やり『ある』ことにするのは、出来ない気がします。いや、全く出来なくはないでしょうが……負担が、大きい気がする……」
認識の問題かもしれないが、直感的にそう思うらしい。
例えば何もない空間に火を生み出すことは難しいだろうが、火種を燃え盛らせることは容易いだろう。コップを水で満たすことは難しいだろうが、水を固体にしたり気体にしたりすることは容易いだろう。
「……世界と、繋がる……ありのままの感情……」
『話せる』そう思った。彼女は口を開く。特に変わりない、彼女の声。しかし発せられる音は、徒人には言語として認識することが出来ない。
「……■■■、■■」