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ある日突然千明の元に訪れた猫もどきは去るのも唐突で、再び現れるのも唐突だった。
クムルダとのいざこざから日は過ぎ、引きこもり生活に自身が自覚する以上に気が滅入っていた千明はその猫もどきが現れるようになってから比較的安定した日々を送っていた。
「わ」
ふんわりと、オパールのように様々な色を帯びた白い光が現れる。それは例の生き物が現れる合図だ。
白い毛並みに黒い角、黒い瞳。猫によく似ているが、きっと本物の猫と並ぶと別物に見えるはずである。
千明はこの世界の生き物についてよく知らないため、これが突然現れたり消えたりすることを『そういうものなのか』と受け入れていた。他者との関わりを遮断しているだけに、残念ながら彼女の認識が訂正されることはない。
いくら異世界と言えどこのような生き物は普通でないことを教えてくれる者は、今傍には居なかった。
「かわいー」
「にゃーん」
『そうでしょうとも』と言わんばかりの猫もどきは図太く千明の足にじゃれつく。千明はこの数日で慣れたかのように、優しくそれを抱き上げた。人間相手だと打ち解けるのには時間がかかるのに、動物相手だと慣れるスピードは人並みなようだ。
風呂に入ったばかりの千明の体は温かい。ちなみにやけに頭が良いらしいこの猫は風呂にはついて行かないし、当初千明に寝室に招かれた時は断固として立ち入らないよう抵抗していた。本当に人間じみた道徳の備わっている謎生物である。
しかし千明がソファで寝るようになったり、一人で眠ると寝付きの悪いことも多かったものだから、猫もどきは猫の顔とは思えないほど絶妙に渋い顔をしながら千明の寝室にも現れるようになった。
尚ベッドには絶対に乗り上げないし入り込まない。よく躾されたペットのようである。
千明は寝室に入ると、窓際に椅子を置きその上に座った。カーテンを開けぼうっと外を見ながら、膝の上に迎えたその生き物を穏やかな手つきで撫で続ける。
「…………」
空を見れば、遮るものなどほとんど何もない。御館の周辺は他の人々の営みも遠く、ただ自然があるだけだった。
『海外の田舎の別荘』だとかはこのような感じなのだろうか。千明は何気なく元いた世界の尺度で景色を見ようとするが、今となってはそれも結論の見えない無意味な想像に過ぎない。
夕暮れの時間はとうに終わり、夜の帳が降りている。薄いガラスの向こうでは夜風が吹いていることだろう。風は夜の匂いを纏い、肌に触れるときっと少し寒いくらいに感じられるはずだ。
この世界、少なくともこの御館のある周辺は夜になるとかなり暗くなる。人工的な明かりが少ないのだろう。
故に日が落ちた頃に空を見上げると、多くの星々を目に映すことが出来た。
千明は視力があまり良くないが、目を凝らしてようやく見つけることの出来る点々とした星とは異なりそれらは目を凝らさずともぼんやりと見えてくる。
見える星空も、元の世界のものとは異なるのだろうな。特段星座の知識があるわけではないが、彼女はそのありふれた黒い虹彩に窓越しの星空を映しそんなことを考える。
月を見ると、満月でも新月でもない形をしていた。彼女の世界はきっと月より遠い。この世界の人々は、あそこに手が届くのだろうか。
「にゃ」
半ば自失となって思考に耽っていると不意に、手に温かな感触を感じた。千明が顔をそちらに向けると猫もどきが彼女の手にじゃれついている。
数日ほど前までは引っかかれることも度々あったのだが、最近は学習したのか爪をきっちりしまってあることが多い。
手の先までふわふわでぽってりとしている、愛嬌の塊のような猫の手が千明の手に触れる。
知らず知らずのうちに動きを止めていた手を再び動かして、指先でくすぐるようにそれを撫でる。彼女の顔には慈しむような柔らかい笑みが浮かんだ。
「きみは本当に、かわいいなあ」
膝に伝わる温度と重さが心地好い。千明は目元を綻ばせて、惜しみない愛を注ぐようにうりうりと両手でその顔周りを撫でた。
日を経て触れ合うことも多くなった彼女は、猫もどきが角やその周辺に触れても嫌がらないことを既に知っている。
図太いその生き物は顔周りに触れられても瞬きしたり目を瞑ったりはせず、平然とその黒々とした瞳で千明を見上げる。だが彼女が指先でそっと角や耳の付け根を撫でたり、顎下を撫でたりすると、気持ちよさそうに目を細めた。もどかしいほどの力加減をされて、繊細な手つきで、慈しむように可愛がられることが満更でもないようだ。
この猫もどきは"猫もどき"である割に動くものを追いかける習性が殆どないので、猫じゃらしのような要領で遊ぶ行為には全く興味を示さない。それ故千明がこれを可愛がる方法と言えば、専ら撫で回すことだった。
ふてぶてしい猫もどきはかわいこぶって大きな目で千明を見上げるものの、光の加減のせいなのか八割の確率で真っ黒な目にハイライトが入らず目が死んでいるように見える。それでも彼女としては、そんな猫もどきもかわいいらしい。
くぁ、と千明が欠伸を零すと、そこで初めて猫もどきは彼女の膝の上から退いた。足音もなく床に降りるそれを見て、千明は帰ってしまうのかなと少し寂しげにする。それを見た猫もどきは『やれやれ仕方ないな』と特に何も置かれていないサイドテーブルの上に乗り上げた。これは、千明が寝付くまではそこに居てくれるという合図である。
やたら人間くさい猫もどきは渋い顔をしているが、千明は猫の表情の機微などあまり理解出来ないので『なんかまた変な顔してるなあ。かわいい……』くらいにしか思わない。
彼女はクローゼットから、自分がこの世界に来た当初に着ていた服を取り出す。それは千明にとって唯一の所有物だ。
捨てることなどありえず、とりあえず綺麗にして大事にとっておいていたそれをサイドテーブルに敷き、寒くないようブランケットで猫もどきを包んでその上に置いてやる。『頂いたものや借りているものを動物に使うのはどうだろうか……』という気持ちと『動物とはいえ人の服に包まれるのってちょっと嫌だよな……?』という気持ちが拮抗した末に定着したのが今の状態である。
勝手なことをしている自覚に罪悪感が湧くものの、千明がこの猫もどきを丁重に扱わないことはありえないもので。
眠るまで傍に居てくれるそれの居場所を整えると、千明はベッドに潜り込んだ。自宅のベッドとは全く異なる匂いや感触にずっと慣れずにいたが、心の余裕が出来てくるとあまり気にしないように努められつつあるようだ。
千明は布団をしっかり被るが、顔は出してサイドテーブルの方を向いていた。その上でブランケットに包まれ丸くなる猫もどきを見て、彼女は幸せそうに笑みをこぼす。
手を伸ばして彼女がそれに触れると、それは『早く寝なさい』とひと鳴きした。
「……おやすみ」
布団に包まり、目を閉じる。この世界に来てからというもの不安で眠れぬ夜も多かった千明だったが、今自身の傍にいる小さな命の存在を思うと彼女は心からの安心感が感じられた。愛らしい動物の存在は、時に人の心を大いに慰めるということである。
まさかこの『小さな命』が自分の百倍は生きていることなど、今の千明には到底想像もし得ないことであった。