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果てに因む  作者: 刀子一
一章 不可逆の罪責
13/18

13

 

 "異世界"に対する言い様のない嫌悪感を誤魔化せなくなった千明は、この頃になると死人のような顔で生きていた。


 異世界ってなんだ。異世界人ってなんだ。生殖って、魔力って。自分の中に勝手に植え付けられた、あのわけのわからない力は。自分の言葉は、この世界の人間は、なんなんだ。

と。誰に言うでもなく、頭の中で繰り返す。




『手荒な真似はこちらとしても本意ではない』


 疎らに脳内を駆け巡る、この世界に来てからの記憶。この世界に放り出されたばかりの頃を思い出せば、今の自分はもう随分とこの世界を受け入れられているように感じられる。

あの時の動揺と困惑は自分自身ですら計り知れないほどだった。


『あなたは何もしなくたって構いません、何も』


 国を出たこともないのに、まさか世界を出ることになるなんて。異国とはまた異なる異世界の馴染みにくい空気の中で、彼女は異分子として存在している。

そう、存在しているのだ。確かに、ここに。

千明は、自分の他に異世界から来た人間がこの世界には居るというその事実に、正直なところ安心感を覚えている。


『天伻様は、心根のお優しい方なのね』


 覚えて、いる。たとえそれが、救いようもない悪人であったとしても。

 どうしても安堵を拭えぬ心が、罪悪と放心の両方を訴えた。板挟みになり押し潰されてしまいそうな、真反対から引っ張られ、今にも心臓が引き裂けてしまいそうな苦痛が胸の内にこびり付く。


『可哀想にな』




 思考に耽って答えが見つかるわけでもない悩みを延々と抱え込んでは持て余し、無駄に疲れるのは千明が自分でも自覚する短所だった。けれどかと言って何も考えずに能天気に生きることも出来ない彼女は、日々無駄なことにエネルギーを割いては勝手に追い詰められていく。ポジティブかネガティブかで言えば、間違いなくネガティブ側の人間だ。

 そんな日々の中でも、時々思い出したように窓辺に立って申し訳程度に陽の光を浴びるのは、陽光のような目を持つ美しい人の心配そうな表情が頭の隅から離れてくれないからか。



 千明はその日も朝早くに目を覚まし、数分ほどぼんやりと寝室の窓から陽の光を浴びていた。千明の寝室は、丁度日が昇る方向に窓がある。

引きこもり生活だからと言って昼夜逆転に至っていないのは、三食きちんと食事をとっているからだろう。或いは、異世界という据わりの悪い場所でそこまで図太くなれないからか、はたまたやることもないのでそもそも夜更かしをするきっかけがないからか。恐らく全てが理由である。


 寝ること以外に時間の潰しようもなく、一日の大半を寝室で過ごす千明は置時計に目を向ける。いつだか、アリーシュが魔法を用いて取り出したものだ。

時計の針はこの御館の使用人が朝食を運んでくれる時間を少し過ぎていた。



 部屋を移りこそこそと食事を受け取って、嫌に静かな部屋でいつも通り千明は食事をする。

しかしその時、予期せぬ事態がその場で起きた。


 かたん、と部屋の中から物音がしたのである。


 反射的に肩を揺らした千明は音の方を凝視する。今まで、このようなことは起きたことがなかった。当然だ。この部屋には長らく千明しかいない。

 彼女は恐る恐る立ち上がる。だが、まず初めに過ぎったのは『虫か何かではないか?』という考えだった。この世界でまだそれらしいものをはっきりと目にしたことがない千明は今までこの世界の虫に怯える機会もなかったが、実の所虫が大の苦手である。


「ひー……いやだ、いやだぁ……」


 虫かもしれない恐怖心と一人でその可能性に立ち向かわなくてはならない不安から千明は頭を抱えた。独り言の癖はないはずだが声を発するのは恐怖を少しでも誤魔化すためか。

 しかし哀れなことに、再び部屋には物音が響いた。千明はもう半泣きだった。


 彼女は嫌々ながら、しかし確認しないというのも選択肢にはなくゆっくりと物音がした方へ足を進める。先程まで食事をとっていた席とは別の、小さなテーブルと一人がけの椅子が二つ置かれている方。その、奥の辺りだろうか。


 服の裾を握りしめ、靴の中で足の指を丸くして一歩一歩近付く。そして……。


「……えっ」


 なんだこれ。千明はそう思った。


 物陰で彼女が見つけたのは、虫ではなく見たこともない謎の毛玉だった。よく見ると、猫に似ているかもしれない。

まじまじと見ているとそれが動くから、彼女はこれが物音の原因であり恐らくは生き物らしいと察する。

 千明は虫は苦手だが猫などの動物にはめっぽう弱かった。


「…………かわいい……」


 しゃがみこんで恐る恐るそれを見る。猫に似た造形の、豊かな毛並みを持った生き物。猫と違うのは羊の角らしきものが生えているところだろう。だが薄い三角の耳は一見すると猫のそれ。よく見ると猫でもない気がするが、そこはかとなく猫っぽい。

 千明からすると未知の生命体であるが……顔を動かし自らを見上げるその生き物の顔が殆ど猫だったため彼女は破顔した。この世界に来てから初めて浮かべるほどの砕けた笑みだった。


「めちゃくちゃかわいい…………」


 目を細めて、意識せずとも口元が緩む。口角は寧ろ下げようと努めても中々下がってくれず、千明はどこから侵入したのかもわからない猫もどきに骨抜きになっていた。


 緊張感の失せた無防備な顔をする千明にその動物はといえば「にゃ」と短く鳴く。その声がまた、猫のものとよく似ていて愛らしいものだから千明は膝をつき噛み締めるように「かわいい……」と再度繰り返した。


「か、かわ……ぁわ……かわいい……っ」


 メロメロである。

この上猫もどきが擦り寄ってた瞬間にはもう、一溜りもない。千明は一瞬意識を飛ばした。

ズボン越しにもわかる、温かで柔らかな感触。小動物の存在感。それはくたびれきっていた千明の心をいとも容易く陥落させた。


 猫もどきはデレデレする千明に抱っこをねだるよう彼女の脚に手をつく。その際見えた可愛らしい肉球に千明は『生きててよかった!』と思った。安い命だ。


「わ、わ……かわいすぎる……かわいいな……」


 特に動物に対して話しかける癖などなかったはずだが、孤独からか口が緩むらしい。猫もどきが爪を立て服によじ登ろうとしても、おろおろしつつもその目元は嬉しそうに綻んでいる。借り物の服という意識が強いのでその申し訳なさはあるが、動物にじゃれつかれて喜んでいるようだ。

 しかしながら猫を飼ったことがない千明は猫もどきにどう触れたらいいものかわからず、嬉しそうにしながらもかなり狼狽える。が、ずるりとそれが落ちかけるのを見て、彼女は咄嗟にその背中を抑えた。


「重っ」


 そこで初めてずっしりとした重みを感じ取る。

手のひらにかかる重量が想像以上にあることに面食らって彼女が思わず呟くと、猫もどきは「なぉ〜ん」とかわいこぶるように鳴いた。出しっぱなしの爪が中々凶悪なのだが、千明は鳴き声ひとつで驚きを忘れにこにこデレデレと「かわいいねえ」を繰り返した。



 彼女は躊躇いがちに猫を抱えたままゆっくりと立ち上がると、ひとまず食べていた途中である朝食の席に戻る。柔らかすぎる体に抱っこの仕方が下手ではないか、痛みや不快感を与えてはしまわないかハラハラしつつ、ソファに腰掛け膝の上に猫もどきを迎える。触れても嫌がる様子がないことから、彼女はぎこちなくも優しい力加減でその背を撫でたりしてみた。柔らかい毛並みの感触が手のひらに伝わり、実に贅沢な気分だ。


 ふと抜け毛の心配が過ぎるが、手で梳いてみても特に毛が抜け落ちる様子はない。衛生的な不安から猫もどきを撫でていた手のひらをすん、と嗅いで見るが、それに関しては薄らと石鹸のような匂いがするだけだった。


「清潔っぽい……?」

「にゃあ」


 猫もどきは恥じらうような眼差しで千明を見上げつつ若干気に障ったようでたしたしと尻尾を叩きつける。


「か、賢い猫ちゃん……」


 千明はそれの仕草がどうにも人間くさいことに気付いたが、『異世界の生き物だしそんなものなのかな』と思って気に留めないことにした。



 大した量はないというのにいつも時間がかかる食事を急いで食べ終えると、千明は猫もどきを見下ろす。早くこれと遊びたいがために食事を詰め込んた千明は過ぎた満腹感に苦しさを覚えつつ、やっぱり愛くるしい猫っぽいその生き物に喜色を浮かべた。


 しかしまあ、冷静になってくると様々な疑問や懸念が浮かんでくる。

千明の部屋は二階にあるのだ。窓から入ってきたにしても、戸締りはしっかりしているし色々と無理があるだろう。とはいえここは異世界。千明が想像もしない方法で部屋に迷い込んでしまった可能性は大いに有り得る。危険なのか安全なのかもわからない謎生物。正直扱い方にも慎重になった方が良い気がしないでもない。何かしらの病気を持っている可能性だってありえなくはないわけで。

 と、そこでふと猫もどきは千明に身を預けるよう膝の上で無防備に寝転んだ。千明はなんだか一瞬にしてもう全部どうでも良くなった。

 異世界の生き物は超凄くて賢くて健康で、壁抜けも出来るのかもしれないと思うことにして、彼女の手はそれを撫で続ける。


「……、…………でも流石に、報告とかは、した方がいいのかな……?」


 『すみません、部屋の中になんか、生き物がいたんですけど……どうすればいいですか?』とか、なんとか。声をかける時の台本を頭の中で作りつつ、彼女は悩ましげに頭を捻る。正直なところ、今の彼女には誰かと言葉を交わすための勇気を絞り出せるほどの気力がなかった。


 背もたれに身を預け、ずるずると横になっていく。膝から降りた猫もどきをやんわりと腕の中に迎えて、はしたないと思いながらも彼女はソファの上で上半身を横に倒した。

この世界で気を張り品性や礼節を気にしていた千明が、ソファの上でこのような体勢を取るのは初めてのことである。


 彼女はそっと猫に似たそれの頭を撫でる。触れてもいいものかわからない耳や角には出来るだけ触れないように気を遣って、指先で優しく、殆ど触れ合うだけのような力加減で小さな頭の形をなぞる。


「ほんとうに、かわいいなぁ」


 しみじみと愛しく思って、千明は微笑みその小さな命を慈しむよう優しく撫で続ける。

人恋しさを覚えたとしても誰かと共に過ごす時間の中に苦痛を感じる千明は、今初めて自分の心が真に穏やかになるのを感じていた。あたたかな命の存在感が、疲弊した心に安らぎを感じさせる。

 夢の中から飛び出てきたような可愛い動物。人の形をしておらず、人の言葉を話さない小さな温もり。馴染みのない姿かたちをしているが、気にならないほどただただ愛らしい。それが今の千明には大層、都合が良い。


 真っ白な毛並みに、千明のそれより純粋な黒い虹彩。同じく黒い角は、よく手入れされているように思えるほど美しい。


「……あ」


 じーっとそれを見ていた千明は、『黒色の目を持つ猫って見たことがないな』と不意に気が付いた。よく見なければ特徴的な瞳孔も見えない真っ黒な目に、けれど続けて『そもそもこの子は別に猫じゃないか……』と思う。


 繊細な飾りにでも触れるように、千明の指先は控えめにそれを撫で続ける。

ずっと凝り固まっていた不安や不信が解れたのだろう。千明は大きな安心感を得て、体から力が抜けていく。アニマルセラピーは偉大だった。


 副交感神経が働き、心拍数が下がって血圧は低下していく。リラックス状態になった彼女はそれがあまりにも心地よくて、そのうちに身動きのひとつも取れなくなってしまった。

心地好さ、安心感、安らぎ。久しぶりに感じるそれらの感覚に、彼女の意識が遠のいていく。




 再び千明が目覚めた時、猫もどきの姿はなくなっていた。うっかりソファで寝落ちしてしまった彼女の体にはブランケットが掛けられ、置きっぱなしだったはずの食器類は片付けられている。

 起きた時千明は『やってしまった!』と思ったが、食器を回収しに来た使用人が片付けてくれたのかもしれない。

時刻を確認すると朝食を食べ始めた頃から三時間は経過していたので、きっとニシュリン辺りが部屋を訪れ、ノックしても反応がない自分を心配して部屋に入ったりしたんだろう、と千明は考える。


 悪いことをしてしまったなと思いつつ掛けられたブランケットの温かさにどこか穏やかな心持ちとなる。どこから用意したものかもわからず、返した方がいいのではないかと彼女は悩んだが、不思議とこれがまたどうにも手放し難い。ずっと、五感全てでこの世界に馴染めないことを感じつつ自らも馴染むことを拒んでいた千明だったが……そのブランケットの感触と匂いを、驚くべきことに彼女は気に入ったのだ。それはいずれ安心毛布になり得そうな愛着の片鱗である。



 その日の夜、千明はブランケットを抱き締めて眠りについた。その夜初めて、彼女は安らかな熟睡にありつけた。



 無邪気な眠り。心の乱れを織り直す眠り。一日の命を終わらせる最小の死、苦労が退く湯浴み、傷ついた心の薬。大自然の恵みにして__人生の宴の中の、メインディッシュ。


 いつだか聞いた、有名な戯曲の一節を彼女は思い出す。空腹こそが最高のスパイス、というのと似ているかもしれない。

久しい安らかな眠りは、彼女の心を多かれ少なかれ満たしたのだ。


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