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果てに因む  作者: 刀子一
一章 不可逆の罪責
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 三賀千明は引きこもりニート二十歳。死に損ないである。

精神的に衰弱した彼女は、一度自死を試みたことがあった。しかし今現在異世界でピンピンしている通り、その自死は当時失敗に終わったのだ。



「う、うぅ……ふう……っ」


 クムルダとの一件から、彼は律儀に伝言を果たしてくれたのか千明は他人との接触を最低限まで断つことを許され部屋に引きこもり続けている。彼とのいざこざがあった日から碌に人と顔を合わせることもしていない。

 当初はニシュリンやアリーシュと一、二言扉越しに会話することもあったが、数日するとそれもなくなった。部屋の前には決められた時間に食事が台に乗せて運ばれる。千明はいつも、折を見て誰とも出くわさないよう気を張りながら食事を部屋に入れるのだ。少量でも三食必ず用意されるあたり、面倒見の良い人たちなのだなと彼女はなんとなく思ったりしたのだったか。


 どん、どん、ごんっ。鈍い音が部屋に響く。


 風呂が備わっているのは大きかっただろう。千明は元々引きこもりだったこともあり、一人で時間を消費することは特段苦痛に感じない。


 だが、元の世界とは、少々都合の異なる部分も多い。

どうしたって馴染みある自室とは異なる、他人の家の匂い。慣れてきているとはいえ、ふとした瞬間に漠然と『違う』のだと肌に感じる寝具。元の世界の景色を夢に見た時、千明は未だに起きてまず目にするこの部屋を『知らない場所』と思うことがある。

時間を潰せるようなものは何もない。元の世界ではスマホひとつで時間の潰しようなどいくらでもあったが、ここの世界では彼女は本すら満足に読むことが出来ない。


 違う世界。所詮違う世界である。

千明はずっと、自分だけが座り心地の悪い椅子に腰掛けているかのような感覚を抱え続けている。


 それが一瞬で終わるのならまだいい。けれど、その違和感は彼女がこの世に居る限り絶え間なく続く。息を吸うたび、食事をするたび、何かを見て何かを聞くたび、どこかで『ここは自分の世界じゃない』という感覚が広がっていくのだ。それが静かに自分を削り取っていくのを、千明はずっと感じていた。

彼女の心境を明確に言葉として表すなら、きっと候補の中のひとつに心細さがあるだろう。



 痙攣するようにぴくぴくと震える左手。肉付きの薄いはずの腕は、なだらかに腫れ上がる。

千明は右手を振り上げた。手は拳の形を作っている。本能的に掛かるリミッターを煩わしく思いながら、千明は泣きながら自分の左手を、自分で何度も殴りつけていた。



 さて。根本的な対処法にはなり得ないが、精神的苦痛を一時和らげるための手段として度々自己破壊が挙げられることがある。

原因や理由は個人差があるものの、俗に言う自傷行為では精神的苦痛が肉体的な苦痛に"置き換わる"ことがあるのだ。どちらも等しく苦痛である一方で、心理的な痛みは曖昧且つ持て余しがちな傾向にあるが、それに比べ身体的な痛みは実に具体的で捉えやすい。

 更に自傷はストレスを可視化し苦しみを表現することも可能である。離人感から自分を現実に繋ぎとめる手段として活用されることだってある。

罪悪感や自己嫌悪がある場合は、自らを痛めつける行為を"罰"と認識し精神的負荷が軽減されるケースも多い。


 千明は臆病なきらいがあるので、自傷行為と聞いてまず思い浮かべるリストカットの類はぱっくり裂ける傷口が恐ろしくとても出来なかったが、殴打には躊躇いが殆どなかった。切り傷は癒える過程で痒くなることがよくあるものの、痣はただ皮膚が変色し押すと痛くなるだけだというのも彼女からするとお手軽ポイントだろう。


 そうして彼女には、もう何年も前から本格的に追い詰められた時自身の左手を殴りつけるという自傷癖が出来ていた。



 ベッドの上でしこたま左手を殴っていた千明は暫し放心する。彼女は今、かなり不安定な状態にある。

安定を保つための糸は、ただでさえ細かったというのにこの世界に訪れてからというものどんどんか細くなっていた。少しの拍子で切れてしまいかねない、頼りない糸。それはもはや数度途切れており、千明は自傷行為によって、ちぎれた糸を結び合わせなんとか精神を保っていた。


 左手は疼くように痛むが、理解の範疇を優に通り越すわけのわからない現実に困り果てていた気分はいくらかすっきりしたのだろう。

千明はゆっくりと窓際に近付いて、カーテンを開き窓を開ける。太陽はほぼ真上にある。爽やかな風が吹き、自然の香りが運ばれてくるかのようだった。

自然の、香りが。


____知らない匂いが。


 それは明確に不快な匂いだとかではなく、ただ彼女の中に染みついている"当たり前"から遠すぎる匂いだった。

風が吹いても、土の香りが立ち上っても、すべてが自分の記憶のどこにも引っかからない。

慣れ親しんだ香りというものが、この世界には一切存在しないのだと気づいた瞬間、無性に千明の胸はざわついた。まるで自分が世界から拒まれている気さえして。


 視界の端に広がる景色もまた、違和感の塊だ。木々の形がほんの少し奇妙にねじれているように見える。コンクリートも見慣れた建築物も、どこにもない。豊かな緑の地面は、柔らかすぎる気がする。

 少し怖くなって千明は窓枠に手をつくが、一度不安に思うと、その感触すら奇妙に思えるようだった。触れても触れても感触が掴めず、まるで夢の中を歩いているようだ、なんて。


 時折、ふとした瞬間に自分の体が浮いているような感覚さえ襲ってくる。それは窓の向こうに広がる、自身の日常から大きく外れた風景に対する憧れでも恐怖でもなく、単純に自分の感覚器官が正しく機能していないのではないかという漠然とした不安から来るものだった。


 彼女はずるずると、力なく座り込んだ。この世界で出会った人々の表情を思い浮かべてみても、どこかぎこちない。いや、ぎこちないのは彼らではなく、自分のほうなのだ。きっと彼ら、彼女らは普通に微笑み、普通に話しかけてくれているのに、それをどう受け取ればいいのか千明はわからない。

意味を探ろうとすればするほど、心が掴むべきものを掴み損ねる。結果、薄い膜を一枚隔てたような距離感だけが残り、彼女の返事は自然さを失っていく。その繰り返しが人と接するたびに居心地の悪さを積み重ねていった。


 __何よりも苦しいのは、積み重なる疎外感から感覚の共有が怖くなったことだった。

千明は顔を手で覆う。どうしようもない現実に今にも壊れてしまいそうで、彼女は泣きながら笑っていた。

 たとえば、目の前で起きている光景を見た時に、何かを『美しい』と感じても。それをそのまま、言葉にすることが躊躇われる。自分がここで感じることがこの世界の人たちにとって『正しい』感覚なのかどうか、まるで確信が持てない。笑うべきか、泣くべきか、沈黙すべきかすらわからない。思ったことを口にするだけでも、一寸の躊躇が言葉尻を鈍くする。


 そうして、次第に自分の"基準"がぐらついていく。何を信じ、何を軸に立ち振る舞えばいいのか、考えれば考えるほどわからなくなってくる。


 違う世界に来た自分が悪いのか、それともこの世界が自分という存在を敢えて微妙に調和させていないだけなのか。その問いにはいつまでたっても答えが出ない。

どんなに順応しようとしても、心の奥深くで小さな歯車が一つだけ噛み合っていない音が鳴り続ける。その音は誰にも聞こえない。けれど、自分には。自分にだけは、それがやけに大きく響いている音が聞こえてくる。耳を塞いでも、音が手のひらを貫いてしまうほど。



 千明は一人立たされた、この大きすぎる困難に立ち向かうことが出来なかった。ただでさえ弱い心が重圧に揺らいで、きっかけひとつで簡単に崩れてしまう。自分の脆さを彼女は嫌というほど実感していた。

 一度不安の嵩が増すと、あとはもう増え続ける一方である。

この世界の人間と心から笑い合えるわけでもなく、かといってたった一人この孤独に耐えられるわけでもなく。どこまでいっても拭いきれない不安が、状況によって見た目を変えるだけで、常に傍にある。

 安定を装っていた日常は崩壊した。崩壊と言うと大袈裟に感じられるが、たしかにそれは失われたのだ。新たな日常は、この世界でたった一人、無為に時間を消費する生活になるのだろうか。

彼女の胸が、今にも張り裂けそうなほどひどく痛む。


「____……」


 元の世界で苦痛を感じる度に願っていた言葉が、少しばかり形を変える。

『死にたい』と何百回、何千回と繰り返された言葉は、この異世界で『帰りたい』に変わっていた。


 苦痛を感じ死を求めていたはずの千明は、異世界に来たことで初めて『死にたい』を上回る欲を得たのだった。


 辛いことはたくさんあったけれど。生を望めるほど明るい日常ではなかったけれど。それでも、自分が二十年も生きてきた世界。友人や家族のいる、他でもない自分の世界。

 異世界の疎外感より、先の見えない将来に対する憂鬱の方がずっとマシだ。そう思って、千明は元の世界で感じていた苦しみすら恋しかった。


「家に、帰りたい……」


 慣れ親しんだぬるま湯のような地獄に、ただ、帰りたかった。


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