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それから、どれだけそうしていただろう。数分、或いは数十分か。
千明は泣いて、泣いて、泣き続けるうちに感情の奔流の変化をなんとか制御していた。恐怖や嫌悪感はそのうち不快感に纏まり、彼女をひどく苛立たせる。彼女には、自分が苛立つとものに当たる性分だという自覚があった。残酷な気持ちや、暴力を抑えきれないような煩わしい衝動が昔から胸の内側に息衝いているのだ。
けれど同時に、苛立ちからそういった衝動を露わにして当たり散らしてしまえば、罪悪感に苛まれる心がある。何かを傷付けることへの申し訳なさと、何かを傷付ける自分に対する失望が、必ず後からいつもいつもやってくるのである。
だから彼女は苛立ちが訪れると、己を律する為に気持ちを押し殺す。肉体的な苦痛が精神的な苦痛を誤魔化してくれるというのはどこで聞いた話だったか。苛立った時、自分の体へ衝動を向けるのは何かと都合が良い。
衝動は満たされ、痛みで冷静さが戻ってくる。
彼女は癖付いた様子で体に爪を立てる。自分の中で感情を消化することはエネルギーを使い、大層疲れることだろう。だがもはや、疲れるなどということは今更なのかもしれない。
水面が荒れないように気を張るのだ。細波ひとつも残さないように無理やり波立つ水面を押し広げ、平らを保つように、波紋もすべて押し殺す。そうしてようやく、感受性の檻に鍵をかけられる。
彼女はもうとっくに疲れ果てていた。
「…………他の天伻って、どんな人なんですか」
今にも泣き出しそうな子供の声によく似た、震える声が久々に意味のある言葉を発する。その声でやっと、ハッとしたようにクムルダは動きを見せる。
「……なんでそんなこと、聞くんだよ」
「怒ってしまいそうだから」
「なんで、何に? 俺に? 怒ればいいだろ」
「でも、あなたにも、事情があって……私はこの世界のこと、何も知らないから。……納得する、理由がほしい。しかたないって、そうやって理性を保たないと、私は…………」
それ以上は言わなかった。クムルダも追求しなかった。続く言葉などもうなくたって十分だったし、『彼女のそれはまるで、つまり、「許したいと思っている」ということではないか』という衝撃でそれどころではなかったからだ。
「ハ、ハハ……なんだよ……なに、それ。なんなんだよ……」
彼もまた、いよいよ参ったかのように項垂れた。
千明がゆっくりと体を起こし、服の袖で顔を拭う。こんな状況でも泣き腫らした酷い顔を見られるのは気まずいらしい。彼女はそうして顔を隠しながら、話し始めるクムルダの声に耳を傾ける。
「……天伻ってのは、天からの遣いだって言われてるけどよ。本当にそうなら、きっと天ってやつはわざと性悪を選んで送り付けてんだ。そう思っちまうくらいには、どいつもこいつも最悪な連中だった」
「ぜ、全員? みんな、そんなに酷い人たちだった、んですか……?」
「全員だ。例外なく、全員! 今この世界にいる他の異世界人だって、最悪だぞ。天伻のワガママで兵器が生まれて戦争が始まる。面白半分でバカみたいな規模の実験とも言えない実験をやって、他の奴らのことなんざお構いなし。こっちの世界の人間を好き勝手することから始まって、どんどん態度はデカくなりやがる」
予想もしていなかった事実に千明は困惑する。そんな風に言われたって、イマイチ上手く想像が出来ないようだ。恐ろしいとは思う。だが、真実味がなく切実さを感じ取ることが出来ない。
クムルダがそんな千明の様子を察すると、少し考え込むようにした後再び口を開いた。
「……今も昔も、天伻のいい話は聞かねえ。この世界の特定の種族は、天伻がきっかけで差別を受けている。初めは天伻の感性からして異端なその種族の外見が特別目に付いたから、『気持ち悪い』と罵った。そのうちその種族の奴らを排斥したがって、天伻は爪弾きにさせ、庇う他種族の人間を容赦なく見世物にした。そのうちその種族は人間扱いされなくなって、気付けばそいつらは社会に本当に馴染めなくなっていった」
「…………、」
「大して知りもしない政治に首を突っ込んで、身勝手な意見で国家間の関係を破壊した天伻なんてのは少なくない。悪意からそうする奴もいれば、何が悪いのか言ってもわかんねえ奴も多い。話が通じない天伻なんてのは珍しくねえ。天伻のせいでいたずらに伝統は潰えて、種族は弾圧され、たくさん死んだ。俺たちがだ。わかるか、アンタらと比べて全体人口こそ少ないが、魔力って力を持って、アンタらより遥かに長い寿命と死ににくい体を持つ俺らが。数え切れないほど死んだんだ」
「寿命?」わからないことだらけの中、飲み込みきれない話を必死に飲み込もうと努める千明は訝しげに繰り返した。「……それも知らなかったのか」クムルダは、彼女の様子にただそれだけ答えた。
彼は所在なさそうに自らの手の甲を撫でている。指先で、左手に描かれる星らしきシンボルをなぞる。一際大きな星は線の連続や円が入り交じり幾何学的な形が入り組んでいた。明るい青緑の瞳でそれを見つめていると、彼は、咄嗟にその手を庇った時のことを思い出す。左手の甲を撫でていた、右手の人差し指の動きが引き攣った。
守るべき伝統、象徴。アイデンティティ。そして、誇り。クムルダは嘗て、悪意から反射的にこの手を庇い、右半身に大きなダメージを負ったのだ。
そして今、その手で目の前の天伻を汚し、壊そうとしたのである。
「……クソ」と小さく悪態をついたクムルダは頭を振って、深く息を吐き出す。少しの間黙り込んだ後、彼は再び口を開いた。
「……ひとつの種族が、潰えるということが、架空の話なんかではなく実際に起こり得ることだってこと。俺は全くわかってなかったんだよ。その恐ろしさもな」
大きな規模の問題が起これば、それは甚大な被害を齎す。当たり前のことだ。しかし直面しなければ、真にわからないことはいくらでもある。
__歴史を遡ると、この世界には元々本が少なかった。人間の寿命が長く、記憶力にも優れていて、親から子へ、人から人への直接的な知識の伝承の密度が比較的高く、長く生きている者に至っては過去というものが書物で知るものではなく記憶の中にあるものだから、必要性が少なかったのだ。
それが、天伻の影響により本が増えた。
何故か? 種族や歴史が潰えて、過去を捏造され、蛮行により憎悪もないのに殺し合わされるから、正しいことを記す必要が出来てしまったのである。
「……な、なんで、…………その、天伻の行動を止めたり、出来ないんですか……?」
事の重大さは理解し始めて、千明は顔色を悪くし腕を擦りながら問いかける。
「異世界人だからさ。それに、昔っから尊い存在だって思われてたのは事実だ。神秘の存在って言われりゃあそうかもしれねえよなあ」
「尊いって、」
「たかが信仰、たかが認識だって思うか? けど常識なんだよ。アンタにはわかんないかもしれねえけど、大昔からそうとされてる一般常識を、今になって曲げんのって中々難しいことなんだ。時間の感覚が長い俺らは、多分特に」
「……実際はどうしようもない悪人だったとしても? 異世界人を、憎いと思う人が居ても?」
「天伻を崇拝する連中も一定数居て組織化されてる。そいつらが暴れりゃ大問題だ。そんくらいの規模の集まりがあって、子孫繁栄の希望と言えなくもねえ部分もある。あと、天伻自身俺らにもよくわからない魔力とも異なる力を持ってる。そんで、一応……役目もあるから」
初めから信仰などされていなければ、と思うが初めて天伻がこの世界に訪れた時のことはよくわかっていないらしい。この世に本が増える頃には、既に天伻の存在は当たり前と化していた。
説明を聞きながら千明は「役目……と、いうのは?」と首を傾げる。
「……この世界には、乱象と呼ばれる現象が多々起こる」
「らんしょう……」
「例えば、雨が止まなくなったり、土地が自然発火したり。植生が乱れたり、その土地に住む生き物が豹変したり、あとは……奇病が流行ったりとか。とにかく、色々。対症療法くらいなら俺たちでもなんとか対処出来るが……根本を解決出来るのは、天伻の力だけだとされている」
乱象について知られていることは少ない。地震や台風などの自然現象の延長線上にあるものとされているが、奇怪なことに天伻が対処するとどういうわけか自ずと収まる。こればかりは異世界人の神秘と認める者も少なくない。天伻のせいでそもそも乱象が起こるのでは? という説もあるが、そもそもの詳細が明らかでない以上結局それも推測の域を出ない話だ。
「だから、信仰もクソもねえ俺らみたいなのも完全に無視は出来ねえんだよ。偉い立場の奴であれば尚更。背負うモンが多いから、市民の救いになり得る力を軽率に捨てられない」
「……、…………天伻の、力、って……」
「……アンタが、さっき使ったようなヤツのことだ」
「わ、私……今まで、あんなこと、出来たことないですよ……あんな力……持ってなかった」
「知ってる。そんなモンだよ。他の天伻もそうだった。だから、天伻ってのは乱象に苦しめられるこの世界のために天が遣わせた救世主なんじゃないかって言われたりしてる」
ソファの縁が深く沈む。上等なそれは品が良いものの、異世界人の感性からすると慣れない文化圏のアンティークにも似た雰囲気を感じさせるだろう。その一方で、古めかしいように感じられる印象から想起する感触より、それは遥かに座り心地が良い。
座面は柔らかで、背を丸めて肘をつき両手で顔を覆う千明を受け止める。彼女の体は小さく、頼りない。
クムルダは口を引き結んで、揺れる眼でちらちらとその様子を見ていた。彼もまた自身の感情の整理をしかねた様子で、複雑そうな表情を浮かべもどかしげにぎこちなく自分の服を握り締めている。
動じてるのか、狼狽えているのか。取り繕う余裕もなく、揺れ動く心がそのままゆらゆらと視線を所在なく泳がせる。
「わたし、わたし……私は……でも…………」
うわ言のように彼女は呟いた。口から出る言葉が、慣れ親しんだ日本語を話しているはずなのに通じることが、今ひどく悍ましいように感じられるのだろう。ちぐはぐで、考えれば考えるほどわけがわからなくなって、支離滅裂になっていく。
「あんま考えんな」
それは諭すような声色だった。
「理解出来ねえモンを理解しようとすると、気が狂うぞ」
「…………」
千明は長く沈黙した後辛うじて浅く頷いた。その様子は、罰を受け入れる罪人のようだった。
一方でクムルダは『許せない』と告げたその口で、舌の根も乾かぬうちに何を今更善人ぶってるんだ……と自己嫌悪に陥る。彼の頭は憎悪以外のところで千明という一人の人間を対等な存在だと認識してはいたので、それなりに複雑な心境なのだろう。
千明がどうしたってか弱いだけの普通の人間で、ついつい世話を焼きたくなるような、頼りない人だったから。クムルダは尚のこと遣る瀬なかったらしい。
長く重い沈黙が続く。平生であれば千明は気まずさに冷や汗でもかきそうなところだっただろうが、今はそれどころではないようだ。疲れ果て困惑が尾を引き、やがて彼女は殆どため息に近い深呼吸をした。
「……あの。お願い、してもいいですか」
「…………なんだよ」
「えっと……あ、アルワレフさんたち、に、しばらく、そっとしておいてほしい、っていうか……う、ううん…………一人で居させてほしい、的な。あの、何もしないから、誰も私に関わらなくていいし……放っておいてほしいって、伝えてもらいたいです」
上手い言葉がパッと出てこず、千明はしどろもどろにそう言った。何か言いたげなクムルダは、けれど結局何も言えずにただ無愛想な顔で頷く。なんと言えばいいのかも、どんな顔をすればいいのかも、彼は今千明以上にわからなくなっていたのである。
「あと、ご飯、食べる必要があったら……うーん……部屋の前に置いてもらえたら助かります。その、そしたら頂いて、食べ終わったらまた部屋の前に食器とか、置かせていただくので……」
「…………」
「な……何もしなくていいって、さいしょ、言われたんですよ。なんか、ちゃんとわかった気がします。何もしてほしくなかったんだなあって」
言っていて『本当にありがちなニートみたいになっちゃうな……』と苦く思いつつも、良心が咎めるだけで許されるなら別にそんな生活も苦ではないどころか寧ろありがたいと思える千明は急いで考えたこれからのことをぎこちなくも話した。
どうして。そんな千明にクムルダは言語化出来ない感情を持て余す。言葉にしようとしても、どれも思い通りの形にはならない。
身勝手さが浮かぶように感じたり、自分のせいだろ、と思えてならなかったり。そうして丁度いい言葉が思い浮かばないまま、彼はざわざわとした気持ちを胸に抱えた。
千明はそんな彼の方を見た。今初めて、彼女はクムルダの目を見て、苦しげでありながらもどこか無防備な微笑みを見せた。
「…………見透かされたんだと思います」
「……はぁ?」
「私が、最低な人間だってこと。たぶん、私、他の天伻と変わらない……。あなたは、私がその……いつもとは違うって、思って……くれた、みたいですけど。私は全然立派な人間じゃなくて、卑怯で、弱い奴だから……、……私は、あなたが思ってくれているほど、いい人じゃないから…………」
自分を卑下するのは慣れたことだった。いつも心の中で思っていることだからだ。そして、自分を罵る自分さえも千明は嫌いだった。自分を扱き下ろしてどうしようもない奴だと蔑んで、それでおしまい。きっと心のどこかで自分が哀れだと思っていたり、『こんなどうしようもない奴だから、もう、仕方ないだろう』なんて諦めていたり、ある種の予防線を張っているに過ぎなくて、低いところからただ物事を眺めていたりするだけの、くだらない人間だと自分を評価しているから。千明は己をどうしても愛せない。
「今はまだ、普通にみたいに振る舞えてても……どうせ私も、余計なこと、しちゃうと思う。でもあんまり、私としても人に迷惑、掛けたくないって思ってるんですよ。まあ……穀潰しを養ってもらう時点で、十分迷惑でしょうけど……」
苦く笑いつつ、でも死なれたら困るみたいだしなぁ、と健康に気を使ってくれるニシュリンを始めとした御館の使用人の姿を思い出す。
「だからまあ、何もせず部屋に引きこもってるのが、一番いいのかなって。私も、みなさんも。そしたら私、余計なことしようにも、部屋の中じゃ限界はあるでしょうし。人と関わらなければ、もっと良いかなって……。私、あんまり気が回らないし、頭も良くないから、これ以上のことは考えられなくて……」
会話の着地点を見失った千明はそこで言葉を区切り、「えっと、とにかくそういう風に考えているということを、お伝えいただきたい、です……」と告げた。
もう夜は随分深まっている。言いたいことも言った彼女は気まずさを思い出して、言いにくそうにそろそろ解散した方が良いのではという旨も話す。クムルダは歯切れ悪くも頷いて、いつの間にやらカーペットの上に転がっていた杖を手に取りやりにくそうに立ち上がった。
別れの言葉はない。重い空気がただ漂う部屋を、クムルダは出ていった。
クムルダが千明の、天伻の部屋を出ると、部屋の外にはニシュリンとアリーシュが居た。ニシュリンは腕を組んで壁に背を預けている。アリーシュはと言えばニシュリンの少し前でクムルダを待ち構えるように立っていた。
窓から差し込む月明かりと、御館の内側を満たす暖かな光の色が混じり合う。普段の笑みを消しクムルダを睥睨するニシュリンの表情は、普段のアリーシュそっくりだ。
「……ずっと、ただ盗み聞きするだけかよ」
「止められたかったのか?」
「あんたならそうすると思った」
その言葉に答えるのはアリーシュではなくニシュリンだ。
「あら。アリーシュのことよくわかってるのね。大当たりよ。まあ、私が止めたのだけど」
「何故?」
「殺すのを諦めた時点であなたは彼女に決定的な危害が加えられないと判断した」
『ましてや辱めることなんて、あなたが、出来るわけないでしょう?』彼女は目を細めて笑うが、その笑い方は千明が知ることのない、冷たく悪辣な笑みだった。
「……知ったような口を」
「生意気な口を」
「…………」
即座に寄越された反駁にクムルダは怯んだ様子を見せつつ非難するようにアーリシュを見る。アリーシュはほんの少し困った顔をして肩を竦めた。
話はまだあるのだろうが、天伻の部屋の前で長々と立ち話するわけにもいくまい。彼らは場所を移し、適当な空き部屋で顔を突き合わせる。
天伻のために造られたこの御館はかなり広いものの、今は使われることのない部屋が多いため広さの割に寂しい場所が多い。過去の天伻が皆贅を尽くす性質だった一方で、千明は自分から何かを求めることが本当に、全く、これっぽっちもなかったもので。
『…………見透かされたんだと思います』
まるで最後の力を振り絞るかのような、疲れきった微笑みをクムルダは瞼の裏に思い浮かべる。盗み聞いていただけのこの二人にはわかるまい、同時に彼はそう思う。
嫌に凪いだ声だった。彼女の表情の変化は、あまりにも緩慢としていて。動作に意識の名残はあるが、それが彼女の意思から発せられているのか、ただ習慣に任せているのか分からないほど曖昧だった。
頬はこわばり、口の端が僅かに上がるだけで、目元には何の力も宿っていない。笑っているように見えるのに、力尽きた人の顔に見えた。
『……私は、あなたが思ってくれているほど、いい人じゃないから…………』
短命の小娘が、見たこともないほど弱った生き物の顔をしていた。その事実は、クムルダに大きなショックを与えていたのである。
「……義憤を感じているくせに」
「中途半端の代表格みたいなあなたに言われてもね」
「アリーシュを止めたのは何故です?」
「あなたの行動は想定の範囲内よ」
「想定の範囲内であれば、何をしても許されるのですか」
「概ねそうでしょう。それが院長のご判断でしょう? 他でもないあなたが、ここに、勤めている。その事実がそれを証明していると思うのだけれどね」
閉口するクムルダへニシュリンは言葉を連ねる。
「天伻を特別憎んでるあなたを、それでも院長は御館に置いた。感情を抜きにすれば合理的な判断よね。人手は足りないし、あなたが塔に属していて出来ることなんて何もないもの」
「…………」
「トラブルが起きる可能性があったとしても、想定し得る問題は許容範囲内だったってことよ。あなたをここに置くと決めた時から、多少の問題点には目を瞑るとあの人の中では決まっていたの。敵意を持つ人間を敵意の対象と一緒くたに置いておくことなんて取るに足らないこと。院長は今回そう判断されたのよ。だから私たちも、あの程度は大目に見るべきよ。そうでしょう?」
嘗てクムルダは優れた魔法使いだった。しかし、前代の天伻がいた頃、彼は自分の中にある全てを壊された。
誰も天伻を責めることは出来ない。違う世界の、崇高な存在。ではそんな存在に傷付けられた人々はどうなるというのか。
現実的な事実を述べるとするなら、どうにもならない。
「それともなぁに? まさか、あなた、私たちを咎めたいの? ふふ、なにそれ。可笑しいわ」
物言う花は毒にも満たない苦味を含んでせせら笑った。表面上は甘美にいつもの美しい形をなぞって微笑みつつも、その目は今日過ちを犯そうとした青年を射抜き、眉は微かに下がっている。
クムルダはその完璧な笑みと向かい合い問いかけた。
「……天伻を、憎んでいますか」
ニシュリンは口角を上げたまま澄ました顔で答えた。
「大体の人はそうでしょう。少なくとも塔に属する者はみんな天伻を憎んでる。あなたとの違いは、理性の差ね。……まあ、誰しもが憎悪を秘めている時点で正直、今回のような事ってどうしたって可能性の低い話ではなかったと思うけれど。つまりは、"仕方のない"ことよ」
クムルダの指先が、手に馴染んだ杖を所在なく撫でる。指の背に並んだ白い綺羅星が翳りを背負う。澄んだ色の瞳が今は複雑な感情から僅かに濁るようだ。
痛いほどに正論だろう。大抵の物事に万人の納得する落とし所がないように、世の中にある殆どのことはある程度の妥協を人々に求めてくる。より良い方法があるように思えたとしても、それらを選べない時なんて少なくはない。
二人のやり取りを静観していたアリーシュは、目を閉じ、瞬きにしては長く瞑ってから瞼を持ち上げ口を開いた。
「お前も憎いんだろう」
「だが、……彼女を憎めはしなかった」
「だから罪悪感と憤りを抑えきれないのか? 俺たちに当たってしまいたくなるくらいなら、もう少し堪える努力が出来ていれば良かったかもしれないな」
「……!」
アリーシュの言葉は、暗に今クムルダが抱えている感情が『後悔』そのものであることを指摘していた。
図星を突かれ言葉に詰まる彼へ、滔々と畳み掛ける。
「何にせよそれらの感情はもはや持て余す他ないだろう。彼女は我々との交流を望んでいない。恐らく今後、何事もなければ彼女は院長の要望通り、この御館で何をすることもなくただ生きていくことになる」
「力も明らかになったものね。言語を介する異能、或いは音、かしら……。扱いには、今までより慎重にならざるを得ないわ。塔としては、彼女が自主的に部屋に閉じこもるならそれを止める理由はない」
「……死ぬまで、ただ生き延びさせるのか」
「尊厳も何もないって? でも、お互い様よ。……天伻、という枠組みで見ていなくちゃそう思えないことが難しいところだってことは、私もわかっているのだけど」
そう告げるニシュリンはほんの少しだけ苦笑いを浮かべた。少しの本心を覗かせただけで、彼女はいつも通り冷静で理性的だ。取り繕う余裕も残している。けれどその理性が、時折彼女の胸に静かな痛みを残していることを、彼女以外の誰も知らなかった。或いは、誰もそれに触れないことがある種の配慮だったのかもしれない。
この場にいる誰もが、異世界から訪れただけの人間に対し拭いきれない罪悪感を感じていることは確かだった。
しかしどうしたって、天伻の肩書きが背負うものは大きい。この世界は、千明という一人の人間のありのままを受け止めることが難しいのだ。
普段太陽に例えられることの多い二対の虹彩は、今月光の如き静謐な光を湛えてクムルダを見る。彼はひどく憂いに沈んだ様子だった。
「……クムルダ、お前の行いを咎めはしない。罰も与えない。もし罪の意識を感じるというのならそれを抱え続けなさい。感情の整理は、自ずとついてくる。少なくとも暫くは……どうにもならんだろう」
「……はぁ。望み通りのはずなのに、いざ思い通りになったら不安が押し寄せてくるのだから、厄介なものよね」
『あなたは何もしなくたって構いません、何も』
秩序の塔を統べる男はただひとつ、千明にそう求めた。
何もしないこと。秩序の塔を初めとして、少なくともこの国の人間のほぼ全てが天伻にそれを願っている。疲れ果てた先で多くのもの諦め妥協した末に残った落とし所。唯一の懇願。
それが恐らくは、叶うのだろう。御館に属する人間であれば、千明が真に消極的な人間であることは理解していた。他は定かでないにしろ、いずれ天伻らしく豹変するのかもしれないと思っているにしろ。その性質は確かなものとして誰もが捉えている。
だからきっと、彼女が交流を望まないと言うのなら、本当に彼女は限界まで一人で過ごすのだろう。
祈りは届いたはずだった。そのはずなのに、どうしてかその場の空気はどうにも居心地の悪いものだった。