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果てに因む  作者: 刀子一
一章 不可逆の罪責
10/18

10

 

 千明には知り得ぬことだが、彼女の生活する御館は外から与えられる可能性のある危険に対し警備がかなり手厚い建物である。人員による警備はもちろん、屋敷そのものに備えられた魔法的な守りも堅牢だった。


 それ故異世界人である彼女は監視も兼ねられ多くの時間をニシュリンと共にしているが、プライベートな時間が全く無いわけではない。入浴時や睡眠時などの時間まで拘束されることはないし、一日のうち数時間は部屋で一人でいる時間がある。

もし四六時中誰かと一緒に居なければならないのであれば冗談抜きで千明はストレスにより死んでいたかもしれない。彼女のストレス耐性はハムスターと同程度だ。



 相も変わらず湿度の高い七面倒な感性を持て余しつつ夢のある現象に直面した割には夢も希望もない異世界生活を送っている千明だったが、元々の日常に代わるそれは生温い日々だった。元の世界とは異なる馴染みのない空気がやっぱり肌には合わないが、緩やかで起伏の少ない、なだらかな新しい日常だ。

鈍い苦痛は伴われるが、刺激と言うほどの刺激はない時間の連続。


 けれどその日、"いつも"とは異なることが起きた。



 食事と入浴を済ませ、寝るまでの間。飾り程度に部屋に置かれていた本を手に取り読めもしない字を目で追っていた千明は、不意に響いたノックの音にびくりと肩を揺らす。

基本的に、この時間帯にわざわざ彼女を訪れる人というのはいない。

驚いて飛び跳ねる心臓を抑え、『誰だろう』や『なんだろう』と思うより早く千明の口は反射的に「どうぞ」と言ってしまっていた。


 がちゃ、と扉が開くのと殆ど同時に慌てて立ち上がる。相手は多分、ニシュリンだろうか。なんて考えつつも『出迎えた方が良いのでは?』と思って足を踏み出す。だがもちろん、戸が開き切る方が早く、千明は中途半端に歩いた体勢で思わぬ客人を迎えた。


「あ……えっ、く、クムルダさん? えっと、どう……どうされました?」

「邪魔す、…………何してんだ……?」

「と、咄嗟にどうぞと言ったしまいましたが扉の前で待ってるのがマナーだったりしたんじゃないか、と慌てて……」


 扉を開けた褐色肌の青年を見て、千明はふと庭以外の場所で彼と会うことが初めてであることに気が付いた。室内の光を浴びる彼はどこかいつもと雰囲気が異なる。甘やかなミルクチョコレート色の肌に黒い髪、対照的にさっぱりした印象の青緑の目。

予期せぬ訪問者はこの御館の庭師を務めるクムルダだった。


「別にどっちだっていいよ。ちょっと話があんだが、いいか?」

「えあっ、あっ、ハイ。えっ、ど……どうぞ……?」

「…………」


 これまで、気心の知れた相手はともかく客というものを迎えた経験のない千明はたじろぎながらクムルダの入室を許したが、クムルダはそれに対し少し微妙そうな顔をした。


「……な、何か違いましたか? アッ、ほ、ほんとにちょっとした用事で、立ち話でしょうか……」

「……いや、まあ。アンタが良いなら、上がらせてもらうが」


 彼のその微妙そうな顔は『ちょっと軽率なんじゃないかな』と思っているのが透けて見える表情であった。が、彼はその表情のまま部屋に足を踏み入れる。

 なんともぎこちない雰囲気で千明は暫く立ち尽くしたが、クムルダが中々どこかしらに腰を落ち着けることもないものだから促されるようにいそいそとソファに腰掛けた。部屋の中に招き入れたというのに、立ちっぱなしというわけにもいかないだろう。


 そうして一旦着席しませんかと座ったはいい。クムルダもその流れで腰を下ろしはしたのだ。千明の真隣に。


「……?」


 てっきり向かいに座るものだと思っていた千明は狼狽える。尤も、彼女のパーソナルスペースは前にも広いため向かい合ったら向かい合ったで少々気まずくなるのがオチなのだが……それはさておき。隣に座るにしたって、妙に近く思える距離感である。


「ち、近くないですか」


 千明は思わず口に出すが、クムルダはなんてことない顔で答えた。


「そうか?」

「え? あ……そ、そうでもない……?」


 その、まるで違和感を持つことの方がおかしいと思わせられるほどのあっけらかんとした様子に千明は流された。彼女はティッシュ配りやチラシ配りを無視しきれない程度には流されやすいタイプであった。


 しかしただでさえ人と目を合わせることが出来ないというのに、そんな彼女がこの距離で彼の顔を見て話せるはずもなく。

気まずそうにクムルダの左手の甲や指に描かれる白い模様を熱心に見つめ、自分の手を握り込んだりしながら千明は要件を尋ねた。クムルダは殆ど俯きがちになった千明の頭をじっと見つめる。平生と比べてその冴えた青緑の目は感情が読めない。


「……アンタの」


 声色もまた、どこか普段と比べて平坦だ。


「アンタの世界って、どんなだ」

「…………え? ぇ、う、うーん、えっと……?」


 どんな要件なのかと緊張していたところに、思いもよらない問い掛けをされそれが要件なのかと千明は心底不思議そうにする。だがクムルダが彼女の困惑に微塵も反応しなかったので、彼女はズボンに手のひらを押し当て今にも浮かびそうな手汗を気合いで堪えようとしながら戸惑い混じりに答えた。


「ご、存じないんですか……? 他にも、異世界から来る人が居るって、聞きましたけど。これまで、その人たちが自分たちの世界について話したりしたことって、あんまりないというか……知られてなかったりするんですか?」

「いや、知られてるけど。そうじゃなくて……なんつーか……アンタの、世界が知りてぇんだよ」

「ど、どういう……?」

「世界そのものの話じゃなくて、アンタにとって、身近だったこととか。アンタはどんなところで生まれて、どんな風に育ったのか……そういうことが聞きたい」


 『なぜ?』千明は混乱したまま余計首を傾げるが、しかし尋ねられるほどの気力もなく訥々と話し始めようとする。だが、いざそんなことを聞かれても、すぐには言葉が出てこなかった。

どう話すことが正解なのかもわからず、必要以上の緊張をしてしまうところは彼女自身もうんざりしている悪癖だ。


「私の……育ったところ……、う、うーん…………どこから、どんな風に話したらいいか……」

「何だっていいさ。話したくなるような思い出とか、ねえのか?」


 思い出、思い出かと閉じた口の中で繰り返す。そう言われると、糸口はいくらか見つかったらしい。


「……私は、引越しとか経験したことがなくて……住む家が、産まれた時からずっとおんなじなんですよね。周りに海がない地域に生まれて……あっ、国自体は島国なんですけど」


 如何せん、それでも内陸の方に住んでいれば海の存在は遠い。千明は古い記憶を掘り返す。

彼女にとって海は初め、写真や絵でしか見ることのない存在だった。そしてそれらはいつだってどれも美しく、幼少期には随分憧れたものだと懐かしむ。海でのバカンスも、ご飯も、砂のお城やビーチバレーも。白い砂浜で貝殻を集めることにだって憧れていた。海の青色と言えば、丁度クムルダの瞳と似たようなエメラルドグリーンだ。


「初めて海に行った時のこと、よく覚えてます。家族と一緒に、きれいな海が傍にあるホテルに泊まったんです。今思い返してみると、旅行ってやつだったのかな。当時はただ、いつもより遠くにお出かけしたような感覚でしたけど」


 古い記憶は朧気である。すっかり頭の奥深くに埋没してしまったような、断片的な思い出。けれど、その中には今でも鮮明に思い出される感覚がいくつか残っている。


「ホテルから、海が見えるんですよ。昼間は海で遊んだりして楽しかったんですけど……何よりホテルから見る海が、すごく綺麗でした。ホテルの内装なんて全然覚えてないのに。海が、昼に見ても夜に見てもきれいだったことをよく覚えてるんですよね。……そうだ。たしか夜には、花火が上がったんですよ。それが本当にすごくて……! あっ、花火って、わかりますか……?」

「……あんまり馴染みはねえけど、知ってるよ」

「音がおっきくてびっくりしちゃうけど、とってもきれいなんですよ、花火も。花火がね、ドン! って打ち上がって広がった後に、花弁が落ちるみたいに光が落ちてきて、少しずつ消えていくところが本当に好きなんです。時々地域の花火大会なんかも、家族とか、友達とよく見てたなあ……」


 話し始めると、埃を払うようにして思い出された記憶を足がかりにあれこれ話したくなることが出てきた。


 小さい頃に家族と祭りに行ったこと。神輿を担ぐ賑やかな声を聞いているとわくわくして、当時同年代の友人も何人か神輿を担いでいたこと。

成長してから友人と祭りに行くようになって、神輿を担ぐ友人を冷やかしに行ったり、屋台を巡ったり。暗くなった道を自分たちだけで歩くことにどきどきしながら、腕を組んだり手を繋いだりして、軽い足取りで帰路についたこと。

そういえば友人とお泊まりした時、こっそり夜中に家を抜け出して、すぐに怖くなって家まで走ったこともあったっけか。でもあの時は冒険心や好奇心のようなものもたくさんあって、楽しいのか怖いのかよくわからない気分になり、友人と揃ってひとしきり笑った覚えがある。


 高校生にもなるとそういった親しい友人たちはどんどんオシャレになっていって、自分も友人と共に化粧品を買いに行ったものだった。

なんだか気恥ずかしくて親にそんな話題は振れなかったが、自分がそういったことに興味を持ち始めたことを知ると両親はあれこれ道具を買ってくれた。

 学校の帰り道にはいくつになっても時々寄り道をしたこともまだよく思い出せる。そういえば、小学生の頃はみんなが集まる駄菓子屋さんがあってね、なんてまた新しく思い出して。駄菓子っていうのはね、と簡単にクムルダへ説明したり。

 寄り道のエピソードには事欠かない。駄菓子に始まり、百円ショップに、コンビニに、パン屋さん。成長するとオシャレなクレープ屋さんに行ったり、少し遠くの友達の家にまでお泊まりしに行ったり。


休みの日には家族も色んな場所に連れて行ってくれた。何せ、歳を重ねる毎に出不精になってしまったものだから。不健康に痩せて、生活に支障が出るほど体力がなくなって、ふらりと倒れることも増え親にはたくさん迷惑をかけてしまったものだった。


「…………」


 話すうちにどんどんと声が滑らかに出るようになった千明は、家族のことを思うとふと言葉を止めた。


 思い出して、思い出して、どんどん溢れる記憶の中に寝込む自分の傍で背を撫でてくれた家族の姿が頭の中に留まる。

じんわりと、途端に嫌な感じがする。最悪な気分、罪悪感、胸を引き裂かれるような思い。掛けられた布団が温かくて、寂しくて、怖くて、悲しかった。家族は、当たり前に優しかった。

近い過去だ。その記憶は彼女にとってまだ新しく、鮮明である。


 ぶつかることはあっても、不快に思う部分があって、好きじゃないと思う側面があっても。ここまで自分を育ててくれた家族。

 そして、たくさん心配してくれて支えてくれて、笑いあった友人たち。楽しかった学生生活。人生に行き詰まって、過去が恋しくて、どうしても辛くて。それでも、確かにそれまで生きてきた。

 けれど今、それらは千明にとって、どうしようもないくらいに遠い。



 ずっと振り返っていなかった記憶を回想すると妙な気分になったらしい。懐かしくなると、千明は現実とのギャップにちぐはぐな気分になってきた。

異世界ってなんだ、と新鮮な困惑まで久々に思い出される。思考が支離滅裂になりかけて、本当に、言うつもりなんてものはなかったのだろう。ただうっかりと、なんの意識もせずに飛び出して閉まったかのように、緩んだ彼女の口から血を吐くような本音が溢れ出た。


「____帰りたい」


 千明は、なんだか座っていることもしんどいような気がして体を曲げる。身を小さくして、目を閉じて、襲いかかる強大な不安に吐きそうになる。


 懐かしさはこの世界が"違う世界"であることを思い出させた。それが、千明の心を酷く痛め付ける。



 明らかに辛そうな千明を見てクムルダは目を閉じる。長く、何か考え込むように目を閉じて、再び開く頃に今度は彼が滔々と話し始めた。


「俺の故郷は辺鄙な田舎町だ。ここから普通に行こうと思えば数日はかかる。そこに住むのは何千年か前にこの国に移住した少数民族で、みんなが同じ肌の色をしてる。住むことを許された土地には綺麗な湖があってさ、その周りには先祖が持ち込んだ特別な花が群生してんだ。綺麗な場所だよ。余所の人間は殆ど誰も知らねえけど」

「…………」

「…………アンタ、元の世界に帰りたいのかよ」

「……うん」


 何が言いたいのか、考える暇はない。もしかするとクムルダ自身、自分の話す言葉の意味をあまり考えていないかもしれない。


 彼は杖を置きそっと千明に手を伸ばした。俯く彼女の横髪を、軽く指先で掬い耳にかける。その仕草に千明は狼狽えて、困惑しながらクムルダを見る。


「俺が忘れさせてやろうか」

「…………は、い?」

「元の世界のことなんてどうでも良くなるまで、俺が付き合ってやるよ」


 二人の距離はあまりにも近かった。それを彼が更に狭めようとするから千明は逃げるように後ろ手をつき後退るが、肩を掴まれ押し倒される。その瞬間、千明は自分の心臓がどこかに行ってしまったのかと錯覚するほど頭の中が真っ白になって、何も感じ取れなくなった。

なんだ、なんだ? この状況は……。そんな動揺に情報の処理速度ががくんと落ちる。


「なあ、いいだろ」

「な、なにが」

「わかんねえの?」

「なんで、何して」


 クムルダの手が千明の頬を撫でる。彼は千明の脚に跨り、彼女に顔を近付けた。頬を撫でていた手が首筋に作る。その、今までに経験したことのない触れ方に千明が感じたのは、驚愕と恐怖、嫌悪感だけだった。


「い、嫌! いい、いいよ! な、なに、なんの冗談なの!?」

「……嫌か?」

「嫌だよ! やめて! どいてよ! へ、変だよ……!」

「…………そうか」


 尋常ではない状況に頭がいっぱいな千明は、クムルダが目を眇めたことに気付かなかった。


「アンタ、天伻のこと、何も知らねえだろ。可哀想になあ」

「て、んほうの、こと」

「ひとつ教えてやろうか」


 彼は笑っていた。


「この世界の人間ってさ、生殖能力に問題があんだよ。魔力が生殖を阻害するんだ。強大な魔法使いほど、子を残しにくい」

「…………は?」

「けどアンタら異世界人は、魔力を持たない。この意味ってわかるか? 俺たちは、アンタらが相手だと子供を作りやすいってことだ」


 千明の頭が更に混乱する。衝撃的な事実に、何故それを今言うのかという混乱。

目を忙しなく動かし、自分を拒むよう身を強ばらせる千明を見下ろしてクムルダは繰り返す。


「可哀想にな」

「なに、なんなの」

「アンタはこの世界でひとりぼっち。誰にも受け入れられない。本当の意味で親切にされることもない。この御館にいる人間であっても、全員そうだ。誰もアンタに心を許すことはない。今の話、聞いたこともねえだろ。聞かれたら答えるかもしれねえけどよ。こんなん、聞きようもねえのにな」

「…………なにが、言いたいの」


 何が何だかよくわからないこの状況で、何故だかクムルダまでもが、酷く打ちのめされたかのような顔をした。


「アンタがもっと最低で、救いようもない悪人だったら良かったのに」


 口角は釣り上げられているが、その面持ちはぎこちなく彼の口から発せられる言葉はどれも苦痛を伴って音となる。沈痛そうな顔で、彼は嘲っていた。何に対し侮蔑を浮かべているのか定かではない。

嫌な空気だ。


「ずっと、次の天伻に地獄を見せてやるって思ってた。もっと、いつもみたいに醜い反応をされれば、俺はアンタを踏みにじって……それで満足するわけじゃねえけどよ。納得は、出来ただろ」


 ……だが、千明は普通の人間だった。試すようなことをして醜さが露呈したのは、まるで自分の方だった。

浮かべられた笑みがどんどん歪になっていく。


「許せねえんだ」


 憎悪、罪悪感、殺意、背徳、復讐心、困惑。クムルダの目は憎しみに支配されていたが、微かに後ろめたそうだった。

後ろめたい、ということは、少なからず自分のやっていることを過ちだと認める部分があり、咎める良心があるということ。

 しかし彼の中ではそれ以上に行き場を見つけられない、憎しみという言葉では収まりきらないような激情が燻る。爆発寸前のそれはともすればとっくに制御出来ない域に達していたのかもしれない。


「天伻が、憎い」

「……、…………」


 千明は何も言うことが出来ない。


「美しかった故郷はもうない。湖は枯れて花はもう二度と咲かない。故郷の家族は今も苦しんでる。俺は前のように魔法を使うことも出来ない。夢は潰えた。アンタらには想像もつかないくらいの時間を、俺はこれからこの体でどうやって生きていけばいい? 何もかも、天伻のせいなんだよ。なあ……」


 「だから」彼は口角を下げた。半身が不自由な自分でも抑え込める、弱い人。

細い手足、骨っぽい硬さのわかる腰、頼りない肩。青ざめた顔。怯えた眼差し、戦慄く唇。


 『恨むなら己を?』違う。『恨むなら他の天伻を』違う『許してくれ』違う『恨んでくれ』違う『すまない』違う。

続く言葉はなかった。彼はなんと言ったものか、自分でもわかりかねた様子だった。


 ただ、少しの沈黙の後に皮肉を込めた様子で告げる。


「…………ま、殺しはしねえよ。だから、『大したことじゃない』よな」


 そして、クムルダの手は千明のシャツとインナーを一緒くたに捲り上げる。素肌が数センチ露わになって、彼の手はその中に入り込んだ。

 ぞわ、と彼女の肌が粟立つ。失くしたと思った心臓がいつの間にか連れ戻されて、痛むほど激しく暴れ回る。


 千明は初めてだった。このように、誰かに悪意を突き付けられることも、異性に組み敷かれ俗悪な状況に直面することも。それはあらゆるその他の感情を押し潰すほど強大な嫌悪感を沸き上がらせる。

吐き気すら覚えるほどの悍ましい感覚に目の前がヂカヂカと忙しく明滅し揺れ動いた。平衡感覚すら見失うほどの動揺。半ばパニック状態に陥り、千明は短く浅く呼吸しながら必死にクムルダの腕を抑えようとする。

だが、単純な膂力で貧弱な彼女がクムルダには適うはずもない。不自由な半身はさておき、千明の体に触れる左手は力強い。彼の指が、手のひらが、他人など滅多に直接触れることのない場所に触れる。


「やめて……! 触らないで!! 放して!!」


 叫び慣れていない不安定な声が悲鳴や絶叫とよく似た音を発する。自分を見下ろす眼差しがひどく冷めて見えて、千明は凍り付きそうなほどの寒さを錯覚する。

力で押さえつけられることが、こんなにも怖いことだなんて彼女は知らなかった。


「嫌! どいてよ!!」


 彼の手が無遠慮を装って千明の薄い腹を抑えた。

脳がひっくり返るような、視界がかき混ぜられるような感覚に陥るほどの動揺。


「いやだ……! おねがい、やめて……!」


 たすけて、と言いかけて、刹那に過った家族や友人の姿はこの世界にない。どうしたって、親しい人たちはこの世に存在しないのだ。


 だから千明は堪えきれずに涙を流しながら必死に暴れた。無茶苦茶に手足をばたつかせて、何度も何度も叫ぶ。

心の奥底から叫びが飛び出る。


「やだ! いやだぁ!! なんで、なんで!! 怖い!! やめて!!」


 悲痛な声だった。誰が聞いても悲痛な声。普段大声など出さないその声は時々不格好に裏返り、震えて、上擦る。怒鳴り慣れていない細い叫び。それでも、千明にはそんなことに構っている余裕もない。必死だった。怖かった。気持ち悪かった。

強い感情が、そのまま声色に現れる。不安定な声。痛ましい叫び。拒む言葉。彼女の感情が発露する。



 そのうちに、思いがそのまま、音になる。



「____■■■■(やめて)!!」



 ぱち、と何かが爆ぜた。弾かれたように、どこか不自然にクムルダの手が離れる。彼は、鮮明な恐怖と、嫌悪と、悲しみと不安と怖気、様々な衝動が入り交じる心を肌に感じた。

 何かがおかしい。異常が訪れた。驚くクムルダに対し無我夢中の千明はわけも分からずただ叫び続けるだけだった。最初から、今も、彼女はただ叫んでいるだけだった。


■■(どいて)!! ■■■■(離れて)!!」


 泣き叫ぶ。音を発すると、自ずと言葉がついてくる。

聞き取れない言語。気持ちが悪い。


 千明は自分の上から離れ、驚いた顔のままソファの端の方に座り込むクムルダを見て異常事態に気が付くと、とうとう限界を迎えた様子で口を押えすすり泣いた。


「なに、なんなの、もう、意味、わかんない」


 一度にたくさんのことが起き過ぎた。それまで生温い停滞した時間を過ごしていた分、余計にそう感じる部分もあるかもしれない。

混乱し、ひたすらに気分が悪いと思って仰向けになっていた体をなんとか動かし身を小さくする。彼女の涙は止まらなかった。不条理に直面し必死に声を抑えて泣く姿は痛々しい。


 彼女を追い詰めるのは、クムルダから突き付けられた事実や感情ばかりではない。先程自分の口から飛び出た、言葉として認識することの出来ない音の羅列も彼女は悍ましくて堪らなかったようだ。ぐずりたくなるような苛立たしい気持ちがまとわりつく。

自分の内側が作り替えられている。知らないものが植え付けられている。自分の中に、何か、知らないうちに、何かが。


 クムルダは身動きのひとつも取れずに、自分の頭を掻きむしって手足に爪を立て、必死に感情を押し殺そうとしながら泣いている千明を見ていた。彼女の姿がどうしても"天伻"と重ならない。自分のした行為に彼女がどれほどの恐怖を覚えたのか、不思議とよくわかっている。脳を占める感情は後悔の割合が多く、彼は動けなかった。

 天伻を憎む気持ちが勝って彼女を傷付けたことで、彼の天秤は壊れてしまったのだ。千明という一人の人間を見ようとする気持ちが、天伻を憎む気持ちを上回る。


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